目次を刷新
第一部と第二部の目次を第三部と第四部と同じデザインに統一した。表紙と目次とでは背景の色と文字の色を反転させている。私にできるデザインはこの程度。
それでも、15年前、CSSとスタイルシートの教科書をめくりながら苦心してつくったページに比べれば、表紙も目次もだいぶ見栄えがよくなった。
一つ、困っていることがある。目次ではスタイルシートに"text-decoration:none;"と書けばリンクに自動的に付与される下線を消すことができた。
同じことが各部の表紙ではできない。ローカルでSafariを見るとできていても、アップロードしてChromeで見ると下線がついてしまう。文の装飾に関する部分をすべて「装飾なし」としてもダメ。
うまくいっている場所もあるだけに悔しい。
8月2日追記。
パソコンのキャッシュが更新されて、デザインも新しいものが映るようになった。
引越記念日
42年前、1975年の8月2日。
我が家は横浜駅の繁華街に近いところにあった古アパートから、同じ横浜市内で南部の戸建て住宅に転居した。ニュータウンと呼べるほど大きくはないものの、山を一つ削って造成した新興住宅地だった。
入学した商店街の裏にある小学校を一学期で転出して、分譲地内で創立されたばかりの学校に二学期から転入した。クラスは3クラス。五年生の途中で4クラスになった。
街はまだ開発途中でススキの茂る野原があちこちにあり、格好の遊び場になった。
そのあと、中学、高校、大学、会社に入ってからも結婚するまで、その家に住んだ。
つまり、私は一人で暮らしをしたことがない。
病気としてのうつ
先週、土曜日の診察。現在の心配事をS先生に伝えた。
夜、寝つきが悪くて眠りが浅い。
だから、朝は起きられても、午前中はぼんやりしている。昼飯を食べるとようやく調子がよくなる。
こう告げると、うつの症状が戻っていると言われた。この返答はショックだった。がっかりした。
毎日、出勤してるし、気分の乱高下も減った。快方にむかっていると思っていたのに。
うつ病は気分の問題でなく、心身全体の問題で、だからこそ「気分」や「調子」の問題ではなく「病気」と呼ばれることに気づかされた。
嫌なことがあったから気分が悪い。「うつ病」はそう単純なものではない。
自分では元気なつもりでいても心身のどこかに変調がある。眠れない。落ち着かない。疲れやすい。いつもできていることが億劫になる。何をしても楽しくない。
そういう症状が自分の意識とは無関係に現れる。それが「うつ病」。
快方から後退していると言われて、さらに活力を失った気がする。
ほかにも心配事があり、家族ともすれ違いが起きている。
すべてではないにしても、多くのことが、うまくいっていない。
このまま一生「寛解」しない気がしてならない。
さくいん:S先生、うつ
ハンドベル・アンサンブル「きりく」を聴きに出かけた。
美術展に比べるとコンサートは高いので、なかなか行けない。生の演奏を聴く機会は、このグループ以外ない。私たち以外にも熱心なファンが定着しているようで、クリスマス曲が一曲もないハンドベルのコンサートでも満席。
彼らの演奏を聴くのは、2015年の年末以来。就職や子どもの受験があって昨年は行けなかった。
そのときのクリスマス・コンサートには「やんごとなきお方」がいらしたので、とても驚いた。
20年以上前からグループは何度か変わっても、主宰、大坪泰子が率いるハンドベル・グループを聴いている。ハンドベルはパイプオルガン以上に生演奏とCDに違いがある。生演奏では低音がズーンと床から響き、高音は柔らかく頭上に降ってくる。
CDでは低音が切られてしまい、高音はキンキンした音になってしまう。
CDでは満足できないので、ハンドベルだけはコンサートで聴きたい。
毎回新しいレパートリーの難易度に驚かされる。今日はピアソラ「ブエノスアイレスの夏」と委嘱曲「ソーラン・ファンタジア」。
ハンドベルは打楽器の一種。一音ずつ出ているはずなのに滑らかな音は流れる。8人が横に並びテーブルに置いた大きさの違うベルを代わる代わるに手にとって振る。どういう譜面を見て、どういう練習をしているのか、まったく想像できない。
後半は民謡からプログレ、昭和歌謡、ジャズと幅の広いレパートリーで楽しませる。
アンコールは、見ているこちらがドキドキするほど激しくベルを変えていく「チャールダーシュ」のあとに夏の演奏会の最後にふさわしい「少年時代」。
ハンドベルはもう冬の楽器ではない!
成人式の前撮り
娘が二十歳になった。春に生まれたので、同じ学年のなかでもほとんど一番最初に誕生日が来る。
成人式の日は、式典や同窓会があり写真を撮る時間がないので、最近は皆、前もって、それも余裕のある夏休みに記念写真を撮る人が多いという。
写真館の方でも夏にはキャンペーンをしていて、夏に撮るとお得らしいので、我が家も真夏に冬の振袖を着せて記念写真を撮った。
写真撮影は着付けも含めて5時間。半日、着せ替え人形をさせられたらさぞ疲れるだろうと思いきや、存分に楽しんだようで、撮影後も元気な顔を集まった両家の祖父母に見せていた。
撮影中、ふとひとりごちた。
大きくなりやがって
私には自分の言葉というものがない。いつもほかの誰かの言葉で考えている。
あるいは、自分の言葉で考えられないのは、父親として、娘の成長に戸惑っているからかもしれない。それは、おおおいにあり得る。娘を思う父親の気持ちはなかなかに複雑。
奥華子に「初恋」という歌がある。女の子が失恋する歌。先日、この歌は成長した娘に対する父親の気持ちとして聴くこともできることに気づいた。
そういう気持ちで聴いてみると目頭が熱くなるほど、悲しい気持ちになる。
そう話すと、「隣り歩いてもいいよ」と言いながら腹を抱えて笑っていた。
父親はますます複雑な心境になった。
さくいん:奥華子
平和資料館の思い出
学生時代、ある国際機関の通訳ボランティアでインドの職員を長崎に案内した。
平和資料館を見学してもらったあとのこと。
原爆が恐ろしいことはよくわかった。でも、インドでは、飢餓や病気や内戦で今も毎年たくさんの人が亡くなっている。平和な日本とはちがう。
そう厳しい口調で言われた。
翌年の春、南京へ旅したことも、石原吉郎に共鳴したことも、長崎で聞いた言葉がきっかけになったのではないか、と今になって思う。
このあと、何かもう少し書きたい気がしてしばらく考えてみた。
どうも何も思いつかない。考えが続かない。思考が熱中症に陥っている。
さくいん:長崎、広島
あの人たちは今
校則の厳しい中学校だった。朝は、下駄箱で生活委員(風紀委員の民主的呼称)が担当教員とともに一人一人、名札や靴の色、靴下の刺繍を検査した。
生徒も欠席者以外は全員登校し、予鈴が鳴った。そのとき、教員の一人がポケットからホワイトペンを出して、靴のかかとに印刷されているブランドロゴに塗りはじめた。
何のためにそこまでするのか。そこまでしないと気が済まないのか。あきれて声も出なかった。
悔しいことに、「馬鹿な真似はよせ!」という言葉も出なかった。
私が通った中学校で、やりたい放題生徒を殴っていた教員たちは、いま、どうしているだろう。
ロクでもない奴らのほとんどが退職まで学校で勤務していただろう。校長になった奴もいるだろう。これでは教育行政が改善される期待はほとんど持てない。
ふと疑問に思う。
彼らは、自分の子も殴って育てたのか。
もしそうなら虐待、そうでなければ不公平。いずれにしても、ロクな奴らじゃない。
彼らが人間なら私は人間ではない、彼らが人間なら私は人間ではない、とさえ思う。
いまさら彼らを刑事告発できないことはわかっている。
社会的倫理的に告発することはできないか。社会的な制裁を加えることはできないか。
こういうことを考えているのは、たいてい調子が悪いとき。
さくいん:体罰
息子と娘への手紙
両親のご機嫌伺いに私だけ帰省。
三日間顔を見ないので、高三の息子にちょっと真面目な手紙を書いた。
短い返事が来た。
優しくて真面目な青年。
娘にも手紙を書いた。
短い返事が来た。
優しくて頑張り屋の二十歳。
同窓会の前に
高校卒業30年の記念同窓会がある。行く、とは言ったものの、まだ気が重い。
きっとうんざりした気持ちになると予想している。
二十代の頃、同窓会へ行ったときも、重苦しい気持ちを確認するつもりで行き、実際、そういう気持ちになった。
なぜ、重苦しい気持ちになるのか。なぜなら、高校時代の自分を思い出すから。
なぜ、高校時代の自分を思い出すとうんざりするのか、重苦しい気持ちになってしまうのか。それは、高校時代の自分が、一言で言えば嫌なヤツだったから。
傲慢で自信過剰で、知ったかぶりで、誰も彼もを理由もなく見下していた。
何に対してなのかもわからずいつも怒ってイライラしていて、無邪気にも革命に憧れていて、それでいておセンチで、誰も読まない詩を書いたりして、そして常に秘密の露顕を恐れていた。
そう考えると、今の苦境は高校時代に源があるのかもしれない。
最後に行った同窓会から20年以上経つ。
「あの頃」を思い出す気持ちは変わっているだろうか。
同窓会のあとで
何てことはなかった。むしろ楽しかった。結局三次会まで残り深夜に高校時代に住んでいた家、つまり両親の住む実家へ帰った。
ただ、数人、どうしても話をしたくなくて適当な挨拶だけですませた人がいた。誰でもそうではないか。どこか虫が好かないといか、それこそ、その人と話すと嫌なことばかり思い出しそうな人。そういう人からは逃げ回った。
同窓会が楽しかったのは、ほとんどの人が初めて話す人だったため。
高校時代の私がどんな人間だったか、誰も気に留めていたなかった。というより、私を覚えている人がほとんどいなかった。それほど存在感が薄かったらしい。
だから、同じ学校を卒業した、という共通点だけをたよりに他愛ない雑談をした。そういうことで気が楽になった。
壇上で誰かを表彰することもなかった。有名な作家やスポーツ選手が一人でもいたら、雰囲気はだいぶ違っていたかもしれない。そういう特別な人もいなかった。
名刺交換もなく子どもの学校の話をする人もいなかった。このあたりのマナーを備えているところは皆、立派と感心した。
一つやらかした失敗。会場に着いて最初に目があった女性。「久しぶり」と言われても誰だかわからない。よく顔を見ても思い出せない。名前を言われて初めて思い出した。
どうもその人について、私の中では名前だけが強く記憶されていて、顔はまったく別のものとして記憶されているらしい。申し訳ないことをした。
最後の段落に書いたことは少し言葉が足りないか間違っているので、書き直しておく。
高校時代、遠くから見ているだけで名前しか知らなかった人とも、ようやく話すことができた。ただ、近づいて話をしてみると私が抱いていたイメージとは違う人だった。
そのイメージは私が勝手に作りあげていたもので、現実の人物がそれとは違ってもおかしくはないし、違うイメージを作った責任は私の方にある。
同窓会へ行くと「みんな、変わらない」という感想を持つ人が少なくない。今回、私の感想は違った。誰の名札を見ても「こんな人だったっけ」と疑問に思うことが多かった。
高校時代の記憶はなぜかとても希薄。知らないうちに忘れようとしている。
ふと、思い出したのは、福永武彦『草の花』。主人公の汐見茂思は、藤木千枝子を愛していたにもかかわらず、その容姿は好んでいなかったとあっさり書き残している。汐見は千枝子に愛の偶像だけを見ていて、千枝子の人間そのものを見ていなかった。
私も同じ。名前だけを頼りに、自分に都合のよい偶像を作っていただけだった。
帰り道、オフコース「夏の終り」を口ずさんでいた。
そっとそこにそのままで静かに輝くべきもの
けっしてもう一度この手で触れてはいけないもの
少し大人になった。触れてはいけないことには触れず、懐かしい再会だけを楽しんだ。
大人になった証拠に、このあとの歌詞は引用しないでおく。
ところでチャンスがあればと思っていたものの、『庭』のことは誰にも話さなかった。
高校だけではない。『庭』を書いていることを打ち明けられる人は、リアルな世界にはほとんどいない。
さくいん:福永武彦、名前、偶像
同窓会で自慢したこと
同窓会で自慢話をすると嫌がられる。肩書き、年収、子どもの学校、などなど。今回の同窓会で、自慢したにもかかわわらず好評を得たことがある。それは高校二年生のときに買ったブレザーを着て行ったこと。
物持ちの良さと着瘦せする体型を褒められたことも、機嫌よく過ごせた理由の一つかもしれない。
同窓会のあいだはとても気持ちよく過ごすことができた。それは、自分の書いた文章を読み返してもわかるように高校時代の話は何もしなかったから。
高校時代から鬱積した気持ちは何一つ解決していない。三日経って、酔いが醒めた。
とまれ、楽しい時間を過ごせたことには違いない。それは肯定的に受け止めておく。
墓参
これまで墓参りに意味があるとは思っていなかった。だから帰省しても墓参することはなかった。
今年は少し違う。雨のなか、墓参りをしてきた。気持ちが変わったのは昨年の2月。
どれだけ忙しい日常であっても、時間を割いて決まった場所に行き、手を合わせて思い出す。そうすることで忙しい自分の心に平静が訪れる。
「情け」と同様、「供養は人のためならず」と言ったところか。
死そのものをまだ受け入れることができていないので、墓にいるとは思っていない。
いつか再会できる日を願い、手を合わせた。
非戦の誓い
戦争を体験した人が「二度と戦争を起こさないで」と言う気持ちはわかる。
見聞きしかしていない大人が、貧困も虐待もいじめも解決できないのに、「戦争はいけない」と題目のように唱えても説得力はない。
それを子どもに言わせるのは愚の骨頂。
戦争は国と国との間だけに存在するものではない。
差別、格差、欲望、憎悪⋯⋯⋯。そういう人間のなかにある「悪」が戦争を生む温床となる。
戦争は日常生活と別個にあるのでなく、日常生活の延長上にある。それを理解せずに、身近な暴力に目を向けないでいると、「戦争はよくない」「核兵器はよくない」という大上段からの標語ばかりになってしまう。
知らないのか。
親やパートナーの暴力を恐れてシェルターに逃げ込んでいる人がいることを。
いじめに耐えかねて、生きていることを諦めようとしている子がいることを。
学校で、教員から耳を疑うようなあだ名をつけられたり、暴力を受けている生徒がいることを。
土地を奪われ基地にされ、毎日、轟音を立てて軍用機が空を飛びまわる場所で暮らしている人がいることを。
知らないとは言わせない。知っていながら、「平和な日本に生まれ育って幸せです」と子どもに壇上で言わせるのは、偽善でしかない。
まず、身近な暴力を解決することに力を注いではどうだろう。
子どもも同じ。まず身近な暴力を片付けることから。
平和な国に住んでいると信じているなら、なおさら。
戦争の種は平和そうに見える平凡な日常生活のあちこちに落ちている。しかも、それを燃え上がらせる火種もいたるところにある。
日常生活の裏にはびこっていた憎悪があっという間に大きな憎悪と暴力に広がる。そういうことは、先週から異常な事態となっている米国を見ればよくわかる。
平和の琉歌、サザンオールスターズ、ビクター、1996
昨日の続き。
この国が平和だと 誰が決めたの? 人の涙も乾かぬうちに
(サザンオールスターズ「平和の琉歌」、桑田佳祐作詞作曲、1996)
火曜日の午後、父が入院している病院から家まで帰る電車のなかで聴いていた、NHK-FM「夏だ!サザンだ!今日は一日“桑田佳祐”三昧」でこの言葉を聴いた。
以下、この歌を聴きながら終戦の日にさまざまな報道を見聞きしたながら考えたこと。
もし私が「子どもは障害者でなくてよかった」と公言したら、障害者を蔑んでいると、障害者を家族にもつ人たちから非難されるだろう。
では、「戦争をしていない国に生まれてよかった」という言葉はどうか。
What if I said I am so happy that my country is not involved in any wars.
自分が住んでいる環境を自賛しているだけではないか。この命題は戦争をしている国に住む人を蔑んでいないか。
要するに、平和を享受していること、それをためらいもなく、喜びの言葉にする姿勢に違和感を禁じ得ない。
それは他人の苦痛を顧みない、自己愛丸出しの言葉でしかないのではないか?
さくいん:桑田佳祐、サザンオールスターズ
すずさんと複雑性心的外傷
『この世界の片隅に』が、いわゆる戦争作品として特異なのは戦場ではない銃後の被災地にありながら、加害者と被害者の両義的な立場に置かれた人を描いた点にある。戦場や捕虜収容所では加害者性と被害者性が常に同居している。
本を読んで覚えた言葉を借りれば、すずさんは複雑性心的外傷を負っている、あるいは戦後、発症する怖れがあると考えられる。
映画『この世界の片隅に』の結末は、終わってしまった世界でも、新しい世界が始まることを暗示している。新しい世界の扉を開けるのは「新しい生命」との出会い。そういうことがあることはわかる。ただし、そうして始まる新しい世界は、まったく新しい世界であり、終わった世界の再開ではない、と思わないではいられない。
トラウマを抱えたすずを救うのは新しい生命との出会い。
この結末に安堵することができないのは、作品の問題ではない。問題は、すずの世界は終わっている、二度と始まることはない、と思っている自分の見方にある。
この見方はきっと間違っている。
「世界」に対する基本的な信頼感が確実でないところに、私が抱えている問題の核心がある。そして、その見方から脱出することについてまったく楽観視できていないことも、私の心持ちに病的なところがある理由。
さくいん:こうの史代
すずさんの戦後
昨日の続き。
物語の結末にひとすじの光明が見えていることに疑いはない。でも、それだけではいわゆる"Happily ever after"とはならない。
すずさんは、戦後もずっと苦しむのではないか。被害者であると同時に加害者となってしまった自分に。
「良かった、あんたが生きとって」「時が忘れさせてくれるよ」「供養を続ければそれで十分」
原作にもある、そういうやさしい言葉を彼女は何度も聞くだろう。
その言葉を聞くたびに、時が経つほどに、かえって終戦近くに起きたあの出来事に心は呼び戻されてしまうのではないか。
現実に、沖縄で家族すべてを失いながら生きのびた人や、被爆した友人たちのあいだで自分だけ生き残った人もいる。そういう人たちの言葉にはできない苦しみが、毎夏、戦争秘話として報道される。
秘話。まさにずっと心に奥にしまった秘密。
昭和20年6月の出来事を、彼女はずっと秘密にしておくだろう。新しい家族や周作とも二度と話さない。墓参りにも、皆には黙って一人で行くかもしれない。
それでも、誰かに伝えておかなければいけないと思う時が来れば、彼女は話すだろう。それまでにどれだけの時間がかかり、どれだけ涙を流すのか、きっと彼女自身にもわからない。
2017年12月2日追記。
この作品については、いろいろ書いてきた。
一つの結論に気づいた。
この物語の終章が「心願の国」でないことに違和感を覚えるところに私の病状、いや、そんな半端なものではない、私の病的な気質が如実に現れていることに気づいた。
さくいん:こうの史代、秘密
老衰か回復か
夕方、仕事を終えてから父の見舞いへ。
点滴の交換回数を増やすので一人部屋に移動したと聞いていた。病室に着くと車椅子に座っている。それだけでも驚いたのに、テーブルの上には空の皿がたくさん並んでいる。もう口から食べられないのではなかったか。本人は「美味かった」と満足そう。
顔色もいい。鼻に入れていた酸素チューブもしていない。抗生物質の点滴、一本だけ。
先週、お粥を食べてみたところ、調子が悪かったらしく上手に嚥下(飲み込むこと)ができず、気管支に入ってしまった。耳鼻科の医師が機械で吸い取るような大事になったという。
そのあとで、医師は「もう口から食べることはできないかもしれない」と母に告げた。医師は「大丈夫」とは絶対言わない。いつも最悪の場合を前提にする。
今週、容体が安定してきたので、再度ゼリー状のものから食べはじめ、問題がなかったので、柔らかいものを揃えた夕食を準備したところ、完食できた。これは看護師の説明。
医師は相変わらず悲観的なことを言っている。
高齢なので回復は楽観視できない。そもそも病気ではなく、すべての臓器が衰えている。点滴などの設備が整えられない自宅にはもう帰れないかもしれない。
そう言われても、胃癌や肺炎で何度も入院しながら何度も生還してきた父のように人が徐々に生気を取り戻している姿を見ると「今度も大丈夫かな」と何となく楽観的になってしまう。
昭和7年に横浜で生まれた父は空襲も生き延びたし、6年前に旅行中にエジプトの政変にも遭遇しながら、このときも騒動に巻き込まれることなく生還した。
実際は年齢を重ねている分、回復できる確率は下がっていても、父を見ていると不死身ではないか、とさえ思うことがある。
少なくとも今回は乗り越えられる、そう信じている。
前倒しの診察
週末はまた病院と実家に行くので予約してかかりつけのS医院へ。
S先生は、診察時の会話を隅々までカルテに書いている。挨拶を交わしながら、前回の診察の内容を読み返し、様子を思い出している。これが的確でいつも驚かされる。
前回の診察の時、「うつの症状が戻っているかもしれない」と言われてショックだったことを伝えた。その発言もカルテに残っていた。
朝、目覚めは悪くない。それなのに、電車のなかでは膝がカクンカクンと折れるほど居眠りしている。
そのことを伝えると、引き続き追加の睡眠導入剤を処方された。
父の入院について話すと、S先生らしい応答があった。
いろいろ起きてるなかで安定した気持ちでいられてがんばってますね。
いい感じじゃないですか。
S先生に褒められて励まされると、それだけで好調を維持できる気がする。
一段落すると疲れが出るから要注意、という助言ももらった。
さくいん:S先生、うつ
15年、答えが出ない疑問
こうして15年間も続けていると一度書いたことをまた書いていることがある。ネタが切れた、というよりは、それだけ自分のなかで気になっていることなのだろう。
最近の例。Twitterに書いている。
毎年書く素朴な疑問。
匿名やニックネームで甲子園やインターハイに出られるか? インタビューと顔の映像を拒否できるか?
誰もが有名になりたいわけではない。
スポーツをしたいだけで、有名にはなりたくないアマチュアがいてもおかしくない。
同じことを2015年8月8日、さらに遡り、2002年7月5日にも書いている。
いまだにこの問いへの答えは分からない。Twitterには返信もRTもない。
プロフェッショナルとアマチュア、それから、そのどちらでもないモグリの違いが気になるので、答えが出るまで問い続けたい。
国語表現
同窓会で三年生のときの担任教諭に会えた。漢文が専門の先生で漢詩を中国語で読んで聞かせたりした。
よく覚えている科目が「国語表現」。とても楽しかった。もともと国語は好きで得意な科目だった。「国語表現」は講義を受けるというよりもそれぞれが課題に取り組む、アクティブ・ラーニングの科目。その点が面白かった。
川端康成の短編小説集『掌の小説』の一つ、「写真」の前半を読んでから後半と結末を創作したり、ちょっと変わった文具の宣伝コピーを作ったり、ムンクの絵を見て感想ではなく、説明をする文を書いたり。
この頃、文章を書く楽しみを覚えたのかもしれない。
思い出してみれば、高校生の一時期、文学部、それも文芸や創作の学科を志望していたこともあった。
予備校で受けた世界史の講義に影響をうけて、最終的には社会科学系の学部に進んだ。それでも、他の人がアーレントやウェーバーを選んだのに、最後にルソーで論文を書いたのは人文学系への親しみが残っていたからだろう。
「国語表現」という科目を受けることができたのは、私立文系コースにいたから。理数系科目がないコース。
国語では「現代文」「古文」「漢文」「国語表現」、英語でも、「講読」「文法」「英作文」と科目数を増やしてみても、ほぼ毎日午前中で終わり。
理数科目が必修で残っていたら高校は卒業できなかっただろう。
先生は私を覚えていてくれた。顔を見なるなり「君は頑固だったねぇ」と言われた。
一大学二学部しか受験しないと譲らなかったことを覚えていたらしい。
さくいん:ジャン・ジャック・ルソー、ハンナ・アーレント
今週のツィートから
8/24/THU
久保田早紀「帰郷」を聴くと、中央アジアを舞台にした小林豊の一連の絵本を読みたくなる。
この歌は、久保田早紀がまだシンガーソングライターでテレビにも出演していた頃に書かれた。すでに久米小百合の深い信仰心を感じる。
「帰郷」は『久保田早紀 Golden☆Best』(2002、ソニー)所収。
8/24/THU
朝、コンビニでコーヒーを買うのを止めた。午前中あまりに眠気が強いので目覚ましのつもりで買っていた。
給湯室で熱湯がでることがわかったので、瓶詰めのインスタントコーヒーを飲むことにした。
コーヒーの味にこだわりはないのでこれで十分。
これで月に約2,000円の節約。1TB超の音楽ライブラリをクラウドに保存できる。
8/26/SAT
実家でケイブンシャの『原色怪獣怪人大百科』(1971, 1973)を見つけた。
本ではなく。大きな紙を畳んでしまってある。
1967年の映画「ガス人間」から1972年のアニメ『ガッチャマン』まで。
これは家宝。
近くに住んでいるのになかなか会えない友人と久しぶりに会った。二人の家から歩ける距離の安い居酒屋で、子どもの話から死生観までおしゃべりして楽しい夜だった。
音楽に詳しい人なのでオススメのジャズ・アーティストを訊ねたところ、フィニアス・ニューボーンを紹介してくれた。早速、図書館にあるだけ借りてきて聴いてみた。
とにかく速い。これほどの早弾きは聴いたことがない。それでいて、技巧を見せつけるだけではない。甘いメロディを聴かせてくれる。
フリー過ぎず、イージー過ぎず。私がイメージする"Jazz"にぴったり重なる。
いいアーティストを教えてくれた友人に感謝。
不安と妄想
しばらく落ち着いていた気持ちがざわついている。
些細なことで不安が頭をもたげ、いつの間にか心のすべてを覆っている。
後々のためにも詳しく事情を書いておきたいが、今日はできない。
罵声と怒号を浴びる妄想に囚われているとだけ、書いておく。
深みに足をすくわれてしまわないように、とりあえずの退避策として国分友里恵「愛したいのに」を聴きながら風呂に浸かり、すぐに寝る。
今は21時過ぎ。
iCloud Drive
iCloud Driveを2TBに増量した。年に15,600円の出費。会社でコーヒーをコンビニで買わず、インスタントコーヒーを給湯室で入れることで費用を捻出。これまで貯めてきた音楽ライブラリを自宅以外にバックアップしておけるならば、外付けHDD1台分の出費がずっと続くことになっても高い買い物ではない。
早速、FinderにあるiCloud Driveのアイコンに"Music"のフォルダをドラッグすると「容量不足でコピーできません」というエラーが出てしまう。
Appleのサポートセンターに問い合わせて画面共有して調べてもらってみても、ハードにもiCloud Driveの設定にも問題はないと言う。
そのときふと思い出した。"Music"のフォルダを一度にコピーするから、内部メモリが足りずにエラーしてしまう。以前、外付けHDDにバックアップするときにも同じことを経験していた。
アルバムを10枚くらいずつコピーすると、問題なくiCloud Driveにファイルがコピーされる。
欲張ってコピーするフォルダやファイルを増やすとまた同じエラーになる。
昨夜、寝る前に少し作業して、今朝は4時過ぎに再開した。コピーはアルファベット、かな、漢字の順で行う。AとBが終わり、今はCompilationのなかを少しずつコピーしているところ。
4,500枚、1.2TBの音楽ライブラリのバックアップ。さて、何日かかるか。
記憶と忘却
人間は記憶したくない「真実」から目を背ける傾向があるのかもしれない。「真実」を思い出すと自分が犯した行為の罪深さに慄き発狂してしまうから。人は「真実」をあえて忘れようとする。
その意味では、無意識のうちに「真実」と向き合わうことをせず、これまた特段、自覚的でなくても自分に都合のよい記憶を捏造することは、自己崩壊からの解離と見ることもできる。
生きていくためには、「生き残る」ことを妨げる「事実」は、少なくとも、自分のなかではなかったことにしなければならない。
強制収容所で看守をしていた人が戦後、精神疾患になった者は意外にも多くなかったと読んだことがある。
日中戦争終結後、中国では周恩来が日本兵から「真実」を聴き取るために捕虜とは思えない好環境を与え、彼らが自発的に話すときを待っていた。この逸話は「女たちの戦争と平和資料館」(wam)で知った。
捕虜にならなかった兵士のうち、戦後、戦場や収容所がどれだけ悲惨な場所だったかを語る人は少なくない。自分が何をしたか、自ら「加害者」の面を語る人は少ない。
こう考えてみると、歴史的事実から目を背ける、いわゆる歴史修正主義者の人たちは、とても正直で健康的な人たちとも言える。
私について言えば、15年前から自覚的に本を読み文章を書き、記憶をたどり、自分のものの見方や考え方を整理しているうちに、些細な出来事をきっかけにして、忘れていた「真実」に正面衝突してしまった。
それから、半壊した状態で過ごしている。
記憶と記録
昨日の続き。
「記憶」と「忘却」について、もう一つ忘れてはならないものがあることに気づいた。
人は記憶したくない「真実」を忘れ、自分に都合のいい記憶を捏造する。やがて、捏造された「歴史」を「真実」と信じ込むようになる。
それでは人も国も同じ過ちを繰り返す。
そこで「記録」が大きな意味を持つ。
どれほど目を逸らそうとしても「記録」は「事実」を突き付け、人に「真実」の探究を迫る。
「記録」は、人が「真実」から勝手に目をそらさないためにある。