1/24/2015/SUN
体罰の研究、坂本秀夫、三一書房、1995
本書の発行は1995年。網羅的、体系的、歴史的。さらに、これまでの体罰事件の判例も検討しつつ体罰を批判する総合的な研究。
これほどまとまった研究が発表されていながら、いまだに体罰は、それも明らかに指導を逸脱した、学校外であれば「暴行」「パワハラ」とみなされる教員の暴力は根絶していない。
本書の発行からほぼ20年後の2014年度、東京都だけでも、897人の教員が体罰を行ったと教育委員会は報告している。
著者は、体罰問題について、行政はもとより教員個人にも大きな責任があることを示唆する。次のように典型として提示される教員が、行政によって処罰されず、部活動の勝利主義などの教育文化に放置され、ときに親からも信頼を得ている日本の学校文化に問題の核心がある、と私は思う。
(前略)体罰裁判事件は体罰教師に特有のキャラクターをえがき出す。一般に短期で自分の感情をコントロールできず、口より早く手がでるタイプ。そして重要なことは、まじめで勤務熱心であるが、人権意識、価値観の多元性に対する配慮など近代的教師の素養が欠けている、ということがいえよう。まじめで勤務熱心は何ら体罰を正当化する理由にはならない。むしろ人権意識の低いまじめさと勤務熱心が恐ろしいのである。(終章 回顧と展望)
暴力が許されるような学校では、道徳も、憲法の授業も、何の意味もない。
体罰がなくならない理由について、本書でも議論されているが、結局のところ、当事者、すなわち教員と教育行政側に“本気で”ないことが最大の理由に思えてならない。
素朴な疑問。
生徒に暴力を振るう教員は、もし自分の子どもが学校で教員に殴られていたら、どう思い、どう対応するだろう。自分の子どもが不条理な暴力を受けたら、怒りとともに、自分がしていることもおかしいという疑問は湧かないのだろうか。
そもそも、彼らは自分の子を家で殴っているのだろうか。我が子を殴っているとすれば「虐待」という明白な犯罪になる。我が子は殴らず、生徒は殴るというのであれば、生徒を我が子よりも下に見る人権侵害でしかない。
彼らは、自分の子どもが学校で理不尽な暴力を受けていたら、どうするのだろうか。私の親がそうだったように黙って受忍するのだろうか。それとも、モンスターペアレンツのように学校へ乗り込んでいき、抗議するのだろうか。そういうことも、ぜひ知りたい。
体罰は、学校や教員個人によって大きく異なる。そのせいか、体罰容認派の人たちは、体罰の現実を低く見積もることが多い。「ゲンコツくらい必要」という発言から、容認派は実態を知らないことがわかる。
重度の体罰は、ゲンコツ程度のものではない。私が受けた体罰は、複数回の平手打ち、蹴り、拳で両こめかみをギリギリと突く、コンクリートの壁に押し倒す——。歯茎がぐらつくまで殴られたこともある。鼓膜を破られた人もいた。人間としての尊厳を傷つけるような罵詈雑言を聞いたのも一度や二度ではない。
正直に打ち明けると、巻末の「結章」しか読んでいない。目次を眺めて内容を想像するだけで気分が悪くなってしまった。具体的な事件や裁判について読むことはできなかった。
最近、教員による暴力が横行していた中学時代を夢に見たり、私を殴ったり蹴りつけたりした教員の顔が、不意に脳裏に浮かんだりする。その度に動悸が激しくなり、腸が煮えたぎるような怒りが溢れてくる。
70年前の暴力を告発している人がいる。私も35年前の暴力を告発したい。当時の教員を、教育委員会を、首長を。公式な謝罪がほしい。
暴力的な体罰の被害者であると、自分について思っている。同時に私は、共犯者であることを認めなければならない。
なぜ「共犯者」なのか。それは、法律違反を告発せず、友だちが殴られ蹴られているところを止めもせず、「今日は殴られませんように」と祈るだけだったから。
「被害者」として告発すると同時に、「共犯者」であることを告白し、中学時代を振り返る文章、「体罰、より正確に教員の暴力について」を書いた。10年前のこと。
しかし、何も変わらなかった。まだ何かが足りなかった。
「教員の暴力」を書いた翌年、石原吉郎を読み、衝撃を受けた。
<人間>はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間が自己を最終的に加害者として承認する場所は、人間が自己を人間としてひとつの危機として認識しはじめる場所である。(「ペシミストの勇気について」)
足りなかったのは、「共犯者」だけではなく、私は「加害者」だったということ。「加害者」の側にいることを自覚しなければならない。それができない。
被害者のいじけた顔を見せて、「私はこんなにかわいそうなんです」と訴える私。ほんとうは「共犯者」で「加害者」であるのに。
「被害者」の立場さえ、名乗り出ることも、告発することもできていない。
「被害者」として告発することもできずにいて、「加害者」であることは、どうすれば自覚できるのか。どうすれば、「加害者のなかから生まれる<人間>」になれるのか。
わからない。