土を掘る 烏兎の庭 第三部
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9.2.06

長いまえがき——副題、デザイン、表記法


しばらく、土を掘るように文章を書いてみようと思う。

四年前「少しずつ耕しては 草を植えたり 石を並べたり しています」と書いたけれども、どこも耕してはいなかった。耕しているつもりで、せいぜいしていたのは、積もりに積もった落ち葉や石ころを拾い集めること。

それでも、荒れ放題だった庭はだいぶ片づいた。これで、ようやく庭の土を耕すことがはじめられる。

つまり、中井久夫のいう「記憶の棚卸し」はだいぶ進んだということ。

ふと見渡すと、庭に二つ、土が盛り上がった場所がある。これまで落ち葉や石ころに埋もれて気づかないでいた。この場所は、まわりの土よりずっと固い。歩きまわっているあいだに何度も躓いた。庭を耕すつもりならば、この二つの山を崩さなければいけない。

これまでのやり方では、この二つの場所を掘り返すことはできない、山を崩すことさえできないだろう。これまでとは違う方法で書くためには、これまでとは違う道具を用意する必要がある。


そこで思いついたのが、「オレ」という一人称。ふだん、自分のなかで使っている言葉。

これまで文章では一貫して「私」を使ってきた。そうすることで、文章のなかにとめどもなく自分をさらけだすことが防げるような気がしていたし、大人びた文章に見せることができるような気もしていた。

「オレ」という先のとがったスコップを使って庭の土を掘ってみれば、思い切り深く掘ることができるかもしれない。しかし、「オレ」は両刃の剣、柄のないスコップ。「オレ」と書きはじめることは、書いた文章を客観的に見直す視角を失わせる。文章の虚構性も落とすことになる。だらだらと思いつきばかり垂れ流しては書くこと語ることに堕することにもなりかねない。

ささやかながら、これまで築いてきた文章のスタイル、いわゆる文体も崩れてしまう。第三部の副題に「オレの庭」はどうかとも考えたけれど、立身出世の青年漫画みたいでそれも気が引ける。

しばらく迷った挙句、「オレ」を使うことはやめた。試行錯誤は作りはじめていたCSSのファイル名に残してある。

文学でも音楽でも、いろいろなスタイルを使い分ける人がいる。次々スタイルを変えていく人もいる。一見すると同じようなスタイルでありながら、年月とともに少しずつ変化し、深みを増していく人もいる。こういうスタイルに憧れる。

文体はそのまま、一人称は「私」、ジャンルもこれまでと変わらず、本や映像、音楽や美術の批評。これまでに培ってきたスタイルを続ける。そしてモチーフを絞ることで、これまでよりも鋭敏なスタイルを目指す。表面のスタイルはそのまま、内面を磨いていくこと。そうすることで外面のスタイルもより洗練されていくことを期待している

このように、客観的に自分の文章をみつめることで、モチーフとなる過去の出来事も客観的に見ることができるかもしれない、つまり自分自身から切り離していくことができるかもしれない。それが、第三部の目標。


サイトのデザインと配色について。

第三部でも、デザインは最初につくった左右対称のレイアウトを継承する。最近、これまでに書いた表紙や目次も、見た目は同じままで、表を使わないCSSによるレイアウトに変更した。

表紙の配色は、『デザイナーのための世界の配色ガイド——世界中から集めた750種類の色をCMYK値とRGB値で紹介』(The Designer's Guide to Global Color Combinations: 750 Color Formulas in CMYK and RGB from Around the World)、Leslie Cabarga、郷司陽子訳、グラッフィク社、2003から。

土、地層、石、シャベルなどの色を探してページをめくり、見つけたのは、はしがきの横にあるボーナスパレット1、ダメージカラー(Deadly Color)。

背景は、Cavity Maroon。酸素がなくなった状態の血液、および人体深部の組織の色。文字は、Cadaver Yellow。血液がなくなった後の人体の肌色。傷、という、第三部のもう一つの顔にもふさわしい。

画面上はほとんど同じに見える、書評絵本など、各分野の目次の配色は、同じ本、中国の章にあった薬のパッケージから。地層の断面、瀕死の肉体、万能の丸薬。まるで無関係にみえる三者の配色が似通っているのは面白い。

本文は、濃い色を背景にすると全体が重くなりすぎてしまいそうなので、目次の配色を反転してある。

通常、リンクは、未訪問が地の文と同色で、訪問済みになると別の色になる。ここでは開いたことのあるリンクが地の文と同色になるようにしてある。小さな山が掘り返されるたび、庭は少しずつ出来上がっていく。


これまで文章は、横書きと縦書きを混在させてきた。変則的なソフトを使ってまでして無理に縦書きを続けてきたのは、本に似せようと思っていたから

第三部では、横書きのみで表記する。

今でも「本」に対する憧れはある。とはいえ、表記の仕方は真似ができても、装丁製本のような本の質感に関わるものはウェブ上で再現することができない。

それに四年間、ハイパーテキスト、いわゆるhtml言語を用いて文章を書いているうち「庭」が目指しているものが本とは違うこともわかってきた。

本、とくに小説の世界での時間の進み方は、音楽や映画と基本的には同じ。はじまりから終わりに向かって時間は進んでいく。小説の中で時間が戻ることはあっても、全体を包む世界の時間は、はじめから終わりに向かって進む。小説でなくても、公文書や学術論文でも、この流れは変わらない。

ここで書いていく文章は、小説的というよりは絵画的なもの。絵画には時間の制約がない。上から見ようが、右から見ようが、どこに焦点を当てるかも見る人の自由。離れて全体を眺めることもできるし、近づいて細部を見ることもできる。

こういう文章はすでにある。エッセイやコラムの連作がそれにあたる。たとえば、山口瞳30年以上書き続けた『男性自身シリーズ』。最初から順番に読んでも面白いし、酒、礼儀、野球、将棋、家族など、題材ごとに読んでも面白い。壮年を過ぎて書いた文章を読んでから、中年や、もっと若いころの文章を読み返しても発見がある。要するに自由な読み方ができる。

時間をたどって縦に読んだり、話題を通じて横に読んだり。そういう読み方をしているうちに、野球が戦争につながったり、将棋が礼儀につながったりしていく。やがて思いもかけないつながりが積み重なり、一枚の織物が読み手の心に出来上がる。

いくつかの言葉を、何度も繰り返し考えた森有正の文章にも同じことが言える。最初から最後まで読むだけでなく、同じ言葉をたどっていくと思索の歩みがよくわかる。

思索とは、もともとこういうものではないだろうか。縦横無尽に飛び回る思考は、しかし表現するためにはある形式に入れなければならない。

プルーストは、思い出したことや思いついたことを小さな紙に書きつけてコルクの壁に貼っていた。それが彼の思索の方法だった。けれども、それを作品として表現するとき、小説の時代に生きていた彼は、一つの連続する物語にしなければならなかった。


ハイパーテキストは、文章を越えて言葉と言葉をつなぐ。リンクをたどることで、文章になる前の感覚がさまよっている状態を不完全ながらも再現することができる。

固有名詞や語彙も、ハイパーテキストを使った索引によって、全体のなかでの重みや位置づけが見えてくる。

そして時間は、ここでは自由に流れる。始まりから終わりへと直線的に向かう小説の世界に無理に押し込めなくても、プルーストのコルクの壁に近い世界を創ることができるかもしれない。

とはいえ、勝手気ままに読んでいても、二つの時間の流れ、過去から現在への流れともう一つ、現在から過去へ流れる時間の流れが、細かな縦横の織り目のなかにタータンチェックの太い帯模様のように浮かび上がるだろう。そうなるように、書いていきたい。

第三部では、縦書き表記をやめて、その分、文章と文章、言葉と言葉つなぐリンクを増やしていくことにする。

第三部がいつまで続くかはわからない。土を掘るような気持ちがいつまで続くのかも、いまはわからない。ゆっくり書こうと思う。この四年間、少し書き急いでいた。楽しかったときもある反面、あせっていたことも少なくない。

おそらく、固い地面は刃物で削るよりも、やわらかい雨が流していくものだろう。でも、言葉でそう書いたことが自分の奥底から実感できるようにならなければ、庭に雨が降ることもない。

これからは更新の頻度は下げる。ゆっくり読んで、ゆっくり書く。これまでは半分できたところで公開していたようなところがあった。あとで推敲する楽しみは残しておくにしても、せめて七割はできたつもりで公開したい。できたそばから見せるのではなく、いくつかの文章でまとまりができたから公開するのもいいだろう。



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