いわさきちひろ画集、田中薫編、毎日新聞、1994
建物博物館 ワールド・ムック436 LIVING SPHERES Vol. 14、広岡祐、
ワールドフォトプレス、2003
森林日本、石橋睦美(写真)、平凡社、2003
連休のために、目についた本を脈絡なく借りる。ほとんどはぼんやりながめるだけ。
面白かったのは『雑誌タイトルコピー大全』。女性誌の位置づけの違いや、同じ雑誌でも時代による特集の変化などが見てとれる。ファッション、化粧、グルメ、美容、家計管理など、生活のあらゆる場面で、女性誌は女性のライフスタイルに提案をしている。男性誌の場合には、ライフスタイル、すなわち生活そのものからは離れた余暇が雑誌の中心を占めている。
最近の男性誌には、夢の部分と生活感をどうつなぐか、つまり新しいライフスタイルの提案ということを真剣に考えているものもある。ダンディズムという概念が氾濫しているのも、そのとっかかりを模索しているとみることもできる。
ただし、女性誌の特集をざっと眺めてみても、雑誌とは所詮、似たような内容を手を変え品を変え見せているだけのものにもみえる。雑誌は、グラビアのページ数や、掲載する記事の量などで進化はしても、進歩することがない。同じ読者層を狙い、同じようなテーマを繰り返すだけ。結局、雑誌は、成功していればいるほど、同じポジションにありつづける。それどころか、清貧と華美のようにまったく正反対のライフスタイルを平然と提案することもある。
新鮮なライフスタイルを提案してくれる雑誌をみつけるのは難しい。気に入った雑誌を見つけて、繰り返し買っていると、そのうち何も新鮮味を感じなくなる。それを食い止めようと、雑誌の方は少しずつ見せ方をかえる。そうしてまた同じ雑誌や似たような雑誌を買う。少し気分が変った気がする。実際のところ、雑誌も自分も何も変ってはいない。
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さくいん:いわさきちひろ
松田聖子が1980年代前半に出したアルバムを買い、80年代後半の曲も聴きなおしてみたくなり、図書館で借りてきた。マ行の棚を眺めて、目についた南野陽子のシングル集も借りる。
松田聖子も南野陽子も、それほど入れ込んでいたわけではない。アルバムも特集された雑誌も自分で買った記憶はない。周囲に気に入っている人がいたし、そうでなくてもラジオやテレビで頻繁に流れていたので、今聴いてみると流れていた80年代の風景が思い出される。自分が気に入っていた歌手では、気恥ずかしくなったり内面的な記憶が呼び起こされるため、風景はあまり思い出されない。
今の暮らしでは、自分が気に入った本だけを読み、気に入った音楽だけを聴くことができる。必ず耳にする時代を象徴するほどの大ヒットもあまりない。ちょうど今朝の朝日新聞では、高視聴率をあげるテレビ番組が80年代以降、激減していると一面で報道している。音楽でもテレビでも、選択肢は数え切れないくらいに拡散している。
そう考えると、70年代から80年代にかけての間を学校という閉鎖的な社会で過ごしたことは、マス・メディアからの情報を共有できる社会というきわめて珍しい体験だったのかもしれない。当時は、テレビにしてもアイドルの歌にしても、マス・メディアから流される情報を共有することが、共同体で暮らすことだった。情報源を共有できるから仲良くなったり、それができないから疎外されたりした。
いまでは、学校や会社という限られた組織の中であっても、独占力の高いメディアはほとんどない。つまり、仲のよい友達であっても、同じテレビを同じ時間に見ているとは限らない。まったく違うことに興味をもっている人とも一緒に暮らさなければならない。
メディアを共有できない世界は、個人個人がもっている感受性を頼りにして対人関係を結ぶほかない状態。それはまた、原初的な人間関係を回復する契機をより多く含んでいるとも言えるかもしれない。
自分の十代をふりかえると、思索、交友、経験、いずれの局面でも、マス・メディアに過度に依存していた。作品を通じてしか過去とのつながりを確かめられないとすれば、あまり幸福なことではないと思う。
とはいえ、それしかなければそれを頼りにするほかない。何気なく見ていた番組が、衝撃的な記憶と一緒に格納されていることもある。以下、いくつかの断片的な思い出。
「ガラスの林檎」は、例によって本人の歌よりも『オレたちひょうきん族』の一コーナー「ひょうきんベストテン」が印象に残る。歌っていたのは、松金よね子。
「時間の国のアリス」は、高校の吹奏楽部の演奏会。演奏されていたのか、行き帰りに聴いていたのかは思い出せない。学校ではなく、街の公会堂で行われた演奏会に私服の生徒が集う。何となく大人びた社交の場という雰囲気がした。
南野陽子の曲は、ほとんどが『ザ・ベストテン』の記憶。それも久米宏ではなく、松下賢二の司会。ということは、80年代も終わりに近いころ。
一曲だけ、ベストアルバムの最後、「微笑みカプセル」は、古館一郎と柴俊男が司会していた『夜のヒットスタジオ』を思い出す。過密スケジュールから体調を崩してしばらく休暇をとったあと、「元気な姿を見せたい」と自分から提案したこととして、ジャージ姿で歌っていた。
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さくいん:松田聖子、『オレたちひょうきん族』
いつからか黄金週間という言葉はあまり聞かれなくなり、たんに大型連休と言われている。両親の家まで出かけ、天候さえよければ、正月のように鎌倉まで足を伸ばして連休らしく観光してみたいところが、肌寒いくらいでおまけに雨まで。仕方なく、学校の開放図書室で鎌倉の本を眺める。
『鎌倉地図草子』は、中世史研究家、写真家、俳人などが鎌倉に残る異界をめぐる。原田の写真は、以前見た写真集とは違って、妖しい鎌倉の雰囲気を充分に漂わせる。やはり鎌倉は妖しい。
現在の風景写真の上に、人々が行き交う中世の様子を描いたセル画を重ね往時を想像させる。時間を超越する臨場感。大阪歴史博物館で、コンピュータ・グラフィックの再現する古代の儀式を見たあと難波宮を見下ろしたとき、目の前に大和朝廷が浮かぶような気持ちがしたのと同じ。
中世の町の妖しさというと、同じ図書室で前に開いたことがある、網野善彦の絵本を思い出す。司修の絵も、妖気漂う。『鎌倉地図草子』も、おそらくは網野史学を下敷きにしている。網野によれば、川の中洲は人の世界と異界との境にあたり、そのために人が埋葬されたり市や芸などの催事あるいは祭事が行われるようになった。鎌倉時代には山を削った切通しの奥や砂浜に、死者が埋葬されていたという。今でも少し掘るだけで多くの人骨が見つかることがあるらしい。
源頼朝は、平安京に対抗して武士のための政治と文化の新しい都市を築こうとした。鎌倉の妖しさは、新しい時代を作ろうとする武士の意気込みと、死者の住む異界に囲まれて暮らした中世びとの畏れの混ざり合いから生まれている。
現代では、死者は浜や中洲に埋められたりはしない。それでも鎌倉の切通し近くの丘には広大な墓地がある。死者への畏れは、現代でももてないものではない。とすると、足りないのは新しい時代への意気込みか。
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さくいん:鎌倉
書評「『おじさん』的思考」、内田樹、晶文社、2002を植栽。
朝日新聞と日経新聞、二紙の書評で姜尚中『在日』が好意的に採りあげられている。『ナショナリズムの克服』や『反ナショナリズム』をはじめ、彼の著作はいくつか読んだ。新聞雑誌での記事やインタビューも目につく限り読んでいるので、近著もそのうち読んでみたいと思ってはいる。
そんなことを考えながら図書室で小学校高学年向けの棚を見ていて、二つの自伝を見つけた。一つは、戦中に在日として過ごしてから、解放された韓国へ渡り、そこで暮らしている人。もう一人は、日本国内に生きつづけた人。高の本は、何度か目を通したことがあるし、他の文章も読んだことがある。あらためて読みなおしてみた。
イは、初め祖国へ戻ることに躊躇した。戦争を行い、焼け野原になった日本よりも、見たことも住んだこともない韓国はさらに経済的にも社会的にも後進であると思っていたから。それでも彼女は、両親の説得に応じ祖国へ渡った。
国民主権を原則とすれば、祖国はあらかじめできあがっているものではなく、国民の不断の努力によって祖国たりうるものになる。見たことのない祖国に生きることは、矛盾ではなく近代国家の成り立ちに合致しているとも言える。ただし、どこを帰る祖国と決めるか、原初的な感覚において不合理なものが入らないとは言えない。
だから祖国を生きる場として絶対化することはできない。高の父親は、戦争が終わったあとで日本人に恨みをはらすような態度をとった朝鮮人を非難し、「日本人は日本人である前に、朝鮮人は朝鮮人である前に、人間でなければならない」と息子を諭した。
人は、国民である前に、あるいは民族である前に、人間でなければならない。個人を貫く思想の問題と、社会を貫く政治の問題があざなえる縄のように絡み合っている。
私が政治思想と文学のそれぞれに中途半端に関心をもっている理由の一端が、この一言にあるような気がする。
明日へ続く。
昨日のつづき。
国民が先か、人間が先か。この問題は難しい。ルソーは、少なくとも『社会契約論』においては、絶対主義国家に押さえつけられていた臣民を、国家を支える主権者であると逆転することによって、国民主権を正当化した。ただし、そこに暮らしているというだけで主権者たりうるとは言えなかった。
絶対主義では、王は神から国家を統治する権限を授かったことになっている。それを否定し、国民を正統な主権者とするには相当の説明がいる。
そこでルソーは、抑圧された「臣民」は、歴史や慣習を共有する共同体国家を通じて主体的な「国民」となり、さらには有徳な「人間」になると考えた。というよりも、そう論じるほかなかった。この考えの矛盾は明らか。理念の上では人間が国民に優先するのに、歴史と政治の上では、国民が人間に優先し、さらに彼らを住まわせる国家が先に存在しなければならない。
確かに事実として、国家は先にある。フランス革命もフランス王国の範囲を枠組みにしていた。家庭、地域社会、土着文化、宗教。そうしたものが教育力も強制力も失いはじめていたからこそ、近代国家は人の生きる場として強大になったのだろう。背景には世俗化と産業化がある。だから国家がなくなりさえすれば、人は人間になれるとは簡単には言えない。まして現代は、その国家の求心力も衰えている。
産業化の時代には一時期、企業が人を育てると思われたこともある。そういう一面は否定できないが、臣民を人間にまで引きあげるとはいえない。国家と同じように、企業は結局のところ、社員を社員のままでいさせようとする。
実際、歴史を見てみれば、国家は「国民」を「人間」にまで引き上げるどころか、それ以前の「臣民」のままでいさせようとしていきているようにみえる。そもそも、まだ人々が虐げられ卑屈な臣民であるとき、臣民を国民以上の人間にするような国家は誰が作るのか。臣民自身にそれを作ることができるのか。できないとすれば、誰か外部の人間につくってもらうのか。
ルソーは、国の礎をはじめにつくる立法者はその国以外の人間でなければならないと考えていた。彼に言わせれば、憲法が外部の人間によって作られることは理想どおり。まだ人間でなく、国民にさえなっていない臣民の暮らす国家を正統化するためには、こうした逆説を導入しなければならない。
それとも、上手にはできないかもしれないとしても、それでも国民主権を貫き、未熟な臣民が未熟でも自力で国家をつくるべきなのか。そうだとすれば、そこに生きる国民はどのようにして、主体的な国民、さらには自律的な人間になれるのか。
高史明であれば、「それでもなお、人はまず人間であるべし」と言うに違いない。どれほどの犠牲を払っても、人は誰かに人間にしてもらうのではなく、自分で人間にならなければいけない、きっとそう言うだろう。『生きることの意味』の数年のち、この書名の本を書いた著者としてもっとも残酷な状況におかれたときでも、彼はそう書いた。
『社会契約論』とは異なる視点から書かれたもう一つの主著『エミール』で、ルソーが表そうとした思想の意味も、ここにあると思う。
私には、まだそう言いきる自信はない。今思うことは、「人は人間になるべき」でもなければ、「なれる」でもない、「なるしかないのではないか」という、きわめて消極的な希望。
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さくいん:ルソー
森山啓記念室特別展示「森松慶治先生・森山啓先生」、小松市立図書館、小松
しばらく前に、出張の空いた時間に約一年ぶりで石川県の小松市図書館の中にある森山啓記念室を訪れた。忘れないうちに簡単にでも書き残しておく。
森山は戦争末期、石川県立小松商業高校で教えた。この頃のことは「風の吹く道」(『石川近代文学全集 9』)で作品化されている。戦後もう一度、森山は教壇に立った。昭和45年から一年間、小松女子専門学校で「文学概論」を教えている。今回の展示は、新たに発見された当時の資料が中心になっている。
展示された、「文学概論」の梗概の一行目に、「文学を含めすべての芸術は、感覚的表現による情緒の社会化である」と書かれている。森山は、あらかじめ定義づけられた思想をキャンバスとしてその上に文章という絵具を重ねた。一見私的であったり、ざっくばらんにみえる文章も、明確な定義に裏付けられている。技巧が理知的なのではない。技巧の素朴さの奥に、理知的な思想がある。だから、素朴さが素朴さではすまされない重みをもっている。原稿用紙に描かれたナィーブ・アート。
『谷間の女たち』の読後感は、間違っていなかったと思う。
雑評にあった横書きの書評をすべて書評のページに移動。
さくいん:森山啓
絵本短評「ルソー――夢のなかの旅」を植栽。
昨F日、これまでは別扱いにしていた横書き書評を縦書き書評と同じ場所からたどれるようにした。
これまで無意識のうちに、縦書きの文章を横書きよりも上位のもの、よりよいものと考えていた。実際、念入りに剪定された縦書きの書評のほうが、日記の合間に書いた短評よりもよく書けていると思うことが多い。ところが最近では、横書きでもあとで読み返したり考えなおしたりする文章もある。横書きの日誌と縦書きの書評のあいだで、相互交流も発生している。日誌のなかでは過去と現在の往来もある。
縦書きを上に置いていたのは、本に対する憧憬と劣等感のせい。
縦書きと横書きは、これからも混在させる。ただし、表記そのもので分類したり、まして上下関係を感じさせる配置をすることはやめる。本について書いたことは、書評としてすべてひとまとめにする。
ただし横書きにはリンクがあり、縦書きにはないという違いは残る。縦書き変換ソフト「たてがき君」でもリンク挿入は可能ではあるものの、操作はやや面倒。
すべての書評を一元化することにあわせ、雑評のページにあったいくつかの漫画の読後感もすべて書評に移動。雑評は、「音楽や映像、美術館、博物館、展覧会、講演会の感想」を収めるページ、本に関することはすべて書評のページに集めた。
ともかく、本に対して特別な思いがあることは確かなので、本だけは特別扱いにする。
今日はビリー・ジョエル(Billy Joel)の誕生日。朝、起きてからそのことを思い出して、一日中聴きながら過ごした。ビデオ“GREATEST HITS VOLUME Ⅲ”の冒頭にインタビューが収録されている。“Music is manipulation of sound”と、彼は言う。「操作する」という観念的というより機械的な概念を芸術に用いる人がここにもいた。
「ずっと好きなことをして暮らしてこられて幸福だ」という言葉も聞かれた。この言葉はそのままには受け取れない。Billy Joelとしてデビューするまで、別の名前で売れないでいた時代や演奏する側を離れてロック評論などで糊口をしのいだときも長かったことはよく知られている。
大ヒットを続けた後、好きなように製作したアルバム“The Nylon Curtain”が不成功に終わったこと、その後に発表されたいわゆる売れ線を狙ったアルバム“An Innocent Man”は空前のベストセラーになったことなどを考えると、本当につねに好きなことをしてきたといえるのか、簡単に言い当てられることではない。
それでも、こういうことをさらりと言えるところが、彼がポップ・スターたる所以だろう。新作を出さなくなった彼の最後の作品といっていい“The River of Dreams”(SONY, 1993)のなかでは、“God knows I’ve never been a spiritual man”と言っている。しかし彼の歌詞には精神的、あるいは思想的ともいえる言葉遣いが少なくない。初期の作品、例えば“Summer, Highland Fall”(Turnstiles, CBS SONY, 1976)でも、“There's a time for meditation in cathedrals of our own”という言葉がある。
もっともポップなアルバムである“An Innocent Man”のなかでも、もっともdanceableな曲のなかでさえ、“I'm keeping the faith”と歌っている。
さらりと言ってのける、ということはポップであることの重要な要素。とりわけ、ビリー・ジョエルについては、そう言える。
ビリー・ジョエルについては、書いてみたいことがいろいろある気がするのになかなか書けない。ようやく少し書くことができた。またいつか。
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さくいん:ビリー・ジョエル
一昨日の日誌に「本に対する憧憬と劣等感」と書いた。同時に本に対する反感も私にはある。反感の理由は、本を書いている人の多くが本は工業製品という自覚をほとんど持っていないことにある。
文芸は芸術。そうかもしれない。しかしその芸術は、編集、校正、印刷、製本を通じて本という工業製品に閉じ込められなければ流通されない。
本のホンは、本当のホン、と聞いたことがある。本当の「ホン」かもしれないけれど、本物の「ホン」ではない。いくらでも印刷できる本に、唯一の本物はないから。
音楽の演奏や、絵画の原画にあたるものが本にはない。原稿は本ではない。原稿は音楽でいえばリハーサル、絵画でデッサンにあたるようなもの。それを鑑賞できるのは、職業として原稿を読む編集者か、一部の研究者だけだろう。
本を書いている人には、本は工業製品であるという考えをまったく持たずに、音楽や絵画と同じように芸術であると思い込んでいる人が少なくない。もちろん、美しい装丁の本はある。そうした本は工芸品といっていい。ただしこの場合、美しいのは装丁であって印刷された中身ではない。
本は工業製品であるという自覚を持っていた作家に山口瞳がいる。井崎脩五郎は「一に山口瞳、二に寺山修司、三、四がなくて、五に活字。」という出版業界に流布する言葉を紹介している(「一家に一冊、山口瞳」『KAWADE夢ムック 総特集 山口瞳』)。以前、駒場の近代文学館で見た川端康成の手稿も、ていねいに楷書で書かれた読みやすい文字だった。
丁寧に書くことは、山口自身が自覚的にしていたことだった。「自信を持て!」と題したある年の成人式に寄せた小文には、字が下手だからこそ丁寧に書くことを心がけていると書いている(『諸君! この人生、大変なんだ』、講談社文庫、1992)。
学校を出てから最初に入った製造メーカーで、「後工程はお客様」という訓示を聞いたことを思い出した。製品を作っていると思っている人が、芸術をつくる。書いた原稿は乱雑でも印刷されれば芸術になると思っている人ほど、実はまともな商品さえつくっていない。
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さくいん:山口瞳
何事も最後まであきらめずに、というお説教をよく聞く。似たような意味で、願いは必ずかなう、という言葉もある。いい響きをもっているけれども、こうした喉ごしさわやかな言葉は、実はほとんど栄養にならない。それどころか、多くの清涼飲料水がそうであるように、そればかり飲んでいては身体には危険かもしれない。
たとえば、戦争。とにかくはじめた戦争なのだから全員玉砕までするべきだったとは言えまい。たとえば、カルト集団によるテロ。東京中に毒ガスを撒くという初志はもちろん貫徹されては困る。
最後まであきらめてはいけないのは、いいことに限って、かもしれない。それではいいことはどうやって判断するか。判断する、そのために熟慮するということじたい、すでにあきらめたほうがいいかもしれないという可能性を含んでいるのだから、「最後まであきらめない」こととは相容れない。
そのように考えると「最後まであきらめない」は、いわば思考停止を促している言葉とわかる。大切なのは最後まであきらめないことではなく、あきらめたほうがいいかもしれないという判断の余地を最後まで残すことではないか。
口当たりのいいものばかり飲んでいると、甘い飲物ばかり飲みたくなってくる。響きのいい言葉ばかり聞いていると、次第に思考が麻痺してくる。言葉にも、ペットボトル症候群がある。
最後まであきらめてはいけないことがあるとすれば、それは生き残ることだけだろう。それだけは、あきらめてしまっては取り返しがつかないことだから。
昨日の荒川洋治は、文学の論争について。現代詩の世界では荒川は筆法鋭い論客らしい。文学史上のよく知られた論争をいくつかあげたあとで紹介されたのは、菊池寛と萩原朔太郎のあいだの論争。それほど有名ではないので名前はないけど、小説と詩をめぐる論争で今でも示唆がある、と荒川は言う。
菊池自身が芥川賞を開始した昭和10年(1935)、菊池は、「星をとりたいなどのように非科学的な表現をもてあそぶ詩は科学の時代にふさわしくない、いずれ詩は衰退し、可能性の文学である小説が隆盛になる」と予言した。これに対して朔太郎は「夢を見ることができないことが現代の特徴である」と反語的に返した。朔太郎の真意は、そういう時代であればこそ、不可能なことを言語によって表現する詩の意味が問われるべきということにあった。
荒川によれば、現代は個人主義の時代のため、正面からぶつかる論争は多くない。この点にはうなずく。その他に観察できるのは、小説家と詩人のあいだにあった論争のような観念性の高い論争よりも、事件をもとにした時事的な論争が多いこと。そのため、荒川も指摘するようにその事についてどれだけ情報をもっているかで論争での優劣が決まる傾向にある。だから新事実が明らかになるたび、論争ははじめからやりなおしになる。
新たな事実が明らかになることで情勢が変わるのは、議論ではあっても論争とは言えない気がする。論争とは、もともと言葉でするもの、つまり、きわめて観念的なものではないか。菊池寛と萩原朔太郎の論争は、観念的だったからこそ論争となりえた。言葉を変えれば、論争は論争のなかに決着したのではなく、当事者に戻った。菊池は小説に、朔太郎は詩に、それぞれ戻った。そして、相手の言葉に負けないように、また論争での自分の言葉に負けないように、それぞれ自分の仕事をしたに違いない。
議論は思想を生まない、と前に書いたことがある。今もそう思っている。こういう形であれば、論争は思想と作品、そしてスタイルを生むといえるかもしれない。
4月の日誌を読み返し、ほかの花壇への小径をほどこす。
何となく気持ちが晴れない。こういうときは笑いが一番。こんなとき以前は、と学会の本をよく読んでいた。図書館へ出かけてみると『VOW』が一冊、書籍出版、図書館学の棚に置いてある。昨夏は、20周年記念の第15巻に笑わせてもらった。第5巻も最新刊に負けず劣らず、いくらでも笑える。私には、清涼剤以上に安定剤と言えそうな一服。
『VOW』がおかしいのは、キャプションと呼ばれる、写真に添えられた文章のおかげ。加えて、今回気づいたことが三つ。一つめは、キャプションで採り上げる題材が幅広いこと。ネタ元は、学校の教科書にでていたことや、いわゆる教養主義的な知識から、ロックや映画、それから近々の芸能ニュースまで際限がない。それらが脈絡なくコラージュされている。ネタ元がわかったときには、写真を見たときの直接的な笑いとは別のある種知的な笑いもこみあげる。
もちろん、それらのネタは広いといっても、そこに80年代サブカルチャーの守備範囲を見出すこともできる。そもそも、硬軟左右上下品、あらゆる知識をネタとして切り貼りする手法じたいが80年代のサブカルチャーから生まれたものかもしれない。初代総本部長の渡辺祐のほか、みうらじゅん、いとうせいこう、泉麻人、山田五郎、えのきどいちろうなど、『VOW』にも執筆しているコラムニストたちは、みな似たような手法を使う。この点は、『VOW』には直接書いていないけれども、えのきどを介して関連があるナンシー関にも共通する。
二つめ。実際にネタを文章にするときに、いきなり場違いなネタを貼り付けるだけではなく、出典はまったく違うけれども、何らかの共通点のあるネタをずらしながら連続投入することにより、落差をより増幅させる手法が多用されている。AB→BC→CD→DEという具合。これによって写真や投稿人の文章とは、まったく関連のないオチになる。こういう手法は修辞として何か名称があるに違いない。
三つめ。5冊目ですでに写真だけでなく、投稿人、編集者それぞれのキャプションのなかでも過去の作品からの引用が少なくない。言葉をかえれば、自律した世界、言ってみれば「VOWワールド」ができあがっている。第15巻を読んでから遡って第5巻を読んでみても、最近の作品の引用元がわかって面白い。
こうして書いてみると、『VOW』の文体の特徴は、それがどれだけ実現されているかはともかく、「庭」の文体に近い。少なくともこうした構成や文章をこれまで気づかないうちに目指しているように思う。ということは、私の文体はきわめて80年代のサブカルチャーの影響からまったく抜け出ていないということ、か。
次第に笑えない方向へ筆が進んでいきそうなので、もう一度最初から読みなおして、笑いなおすことにする。
音楽のページ、これまで植栽した三篇の私家集を剪定。
絵本短評「きょうはなんのひ?」に追記。
しばらく、浮かない気分が続いていたのは、芥川龍之介『侏儒の言葉』を読み捨てたままにしていたからかもしれない。少なくとも五月病というわけではない。私自身は何も新しい環境にない。むしろ、馴れきった感触さえある。のどにトゲが引っかかったような読後感が気になっていた。読み終えた事実を残すために無理やり書き上げ、植栽した。
書店で『ユリイカ5月号 総特集 鬱…… 五月。何だ?この、ユーウツは!!』(青土社)を立ち読みした。太田晋「この水びたしの世界 五月病者のためのガイダンス」は、制度に吸収されてしまうのでもなければ、制度から打ち捨てられるでもない、もう一つの憂鬱について書いている。確かにどちらでもない状態は、憂鬱。
五月病は、内部化と外部化の境界にいる乗り物酔いのような気持ち。たいては、乗り物に慣れるか、降りるか。そのままいれば、谷底へ落ちてしまう。とはいえ、乗り続けることも下車すること、どちらも辛い。境界にいるまま酔いから覚めることはできないか。太田の出した処方箋は明快。
自分を笑え!
その意を汲めば、昨日の読書は間違ってはいなかった。
久しぶりに小椋佳『いたずらに』を聴いた。同じ頃に出版された歌詞集と学生時代の日記を収録した『小椋佳、いたずらに』(新潮文庫、1981)もよく読んでいたけど、いまは手元にない。小椋佳で聴くのはこのアルバムと、初期のライブアルバム『遠ざかる風景』(1976、キティ、1984)ばかり。カセット・テープを聴かなくなった今でも、細かい手書きのレーベルの入ったケースを大事に持っている。
「心に空き地を残しておこう」と小椋は歌う。これもまた憂鬱への処方箋になる。この曲では、ギターの伴奏が、小椋の友人でもある井上陽水「夢の中へ」の前奏を借用しているように聴こえる。
心に空き地を残すこと、夢のなかへ行くこと、それから自分を笑うこと、それが芸術の唯一の効用だったはず。それが、夢は現実に取って代わり、空き地にはビルが建ち、笑えない自分を問い詰めることになってしまったのは、やはり残念なことだと思う。
実は、小林秀雄「芥川龍之介の美神と宿命」(『全集 第一巻』)も読みなおしてみた。芥川の最期と作品に関連を見出さないところから批評は始まるという見方には共感したけれども、悲劇という言葉は私には使えなかった。その代わりにできるかぎり中立的に響くように事故という言葉を使ってみた。
書評「アメリカン・デス・トリップ」を剪定。「悲劇」という言葉を「残酷」に変更。ウェイン・ジュニアから英雄的な印象を剥奪する。
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さくいん:小椋佳
5月10日のつづき。
本に本物はない。本はすべてが複製、ということは、大量生産、薄利多売が可能ということ。最近は、出版業界全体が斜陽となっているせいか、本の売上がよく話題になる。しかも全体ではなく一冊の売上が突出すると、まるでそれによって業界が好転し、民度まで上がるかのように絶賛される。その一方で、一枚の絵画が高額で取り引されると、芸術が商売になっていると揶揄されるのはどういうわけだろう。
薄利多売が可能ということは、一冊の影響力も大きいということ。出版業界が縮小しているといっても、画家や音楽家に比べれば、作家の知名度ははるかに高い。
世の中には、一枚も複製されない画家もいれば、一枚の録音もしない音楽家も少なくない。その絵が展示されている画廊に行かなければ目にすることもないし、売れてしまえば二度と見ることはできない。小さなライブハウスで歌う歌手も、そこに行かなければ聴くことはできない。そんな微力な芸術に励んでいる人もいる。文章を書いている人は、多くの人に一度に訴えることができることを当然と思っていないか。もの書きに知識人を自称する人が多いのは、こういう理由ではないか。
確かに知られていない作家もいる。しかし活字になり広がる文章と、その場から広がりようのない絵や音楽とでは、伝播力も影響力も比較にならない。
世の中に本が印刷されない作家はいない。なぜなら本を出した人を作家と呼ぶから。これは私の考えではない。小説の業績を認められ大学教員になったとおっしゃる作家先生が新聞でそう書いている。
絵には原画があり、音楽には生演奏がある。文章、文芸にとって原画や演奏のようなものは何だろう。少なくとも、作家による朗読ではない。まして講演会ではない。
一枚の絵を描くように、一夜の演奏会で歌うように、そんな儚い文章が書けないか。はかない、というのは、即興で書いた文章ということではない。即興で書いている限り、即興で上手い文章は書けるようにならない。
bk1に投稿した書評に加筆して、書評「人生の物語を書きたいあなたへ」を植栽。
何気なく手にとり読みはじめた本。しかも文章が軽いのであっさり読み終えてしまったけれども、考えさせる点がたくさん残る。難しいことを難しく書くのはそれほど難しいことではない。考えればきりがないことを、読んでいる方が気づかないうちに、心の奥底に伝えてしまう文章こそ、書くのも難しく、読みとることも難しい。
気になる課題は書き留めておいた。書評に書ききれなかったことは、宿題。
表紙写真を「木洩れ陽」に変更。
一昨日植栽したばかりの芥川龍之介「侏儒の言葉」を剪定。「芸術をすべての上に置くのなら、それを表現する自らの命はその次に来なければならない。」の「次」を「上」に変更。もっとも肝心な文章で、論理の踏み違いをしていた。
書きなおしてみて、プルーストの言葉、「価値の階梯のなかで、知性が占めるのは第二の地位にすぎないとしても、第一位を占めるのは本能だと宣言できるのも、ただ知性だけなのである。」と呼応させることができていることに気づいた。
もう一度、同じことを違う言葉で書いておく。子どものスタイル、職人のスタイル、芸術のスタイルのなかでは、芸術のスタイルがもっとも尊い。しかし、もともとスタイルのない「ただいる」だけの人間、それだけが、芸術のスタイルを含めて、すべてスタイルを生み出す。死者はけっしてスタイルをもたない。スタイルは生きている。
人名索引には、実在する、あるいは実在した人間だけではなく、物語の登場人物のような架空の人物も入れることにした。実在といっても、私は著作や音楽などの作品を通じて知っているだけの人がほとんどだし、架空の人物でもつきあいの長い人もいる。
架空の人物には、創造した作者がいる。そこで架空の人名から作者の索引ができるようにしてみた。
芥川龍之介「侏儒の言葉」の中にある、「意地悪な家族」を「心に住まう憎みきれない家族」に変えた。この言葉は、書評「人生の物語を書きたいあなたへ」で引用した文の直後に出てくる、著者ローバックの創作教室での教え子の一人、ガウの書いた文章を読んでいて思いついた。
5月13日のつづき。
『VOW』を面白くしている四つの要素。多種多様な素材。繰り返される定番の修辞法。全体を貫通している原則と、それゆえにところどころではっとさせる逸脱。内的な秩序、それに支えられた世界観。
こうして書いてみると、この三つの要素は必ずしも80年代のサブカルチャー的な文章に特有ではなく、すぐれた文章すべてに通じる真理にもみえる。つまり、『VOW』を80年代的と感じさせているのは、これらの三要素があることではなく、これらの三要素の提示の仕方、つまりそのスタイルが、他の時代や作品とは違う、個性的なものであるから、といえる。さまざまな素材の見付け方、素材どうしのつなげ方、なじみの落とし方、内部の相互連関などのあり方に『VOW』の特徴がある。
ところで作品の一貫した世界観には、おおまかに三つある。一つはあらかじめ終点を決めておいて、そこへたどりつく過程という見方。もう一つは、終点は定めないままで、つねによりよいもの、面白いものへと改善されていくもの。前者は進歩的、後者は進化的といえる。
作品には、小説でも音楽でも絵画でも、二通りの世界観がある。二つのあいだに優劣はない。『VOW』は間違いなく、後者。けれども、すぐれた作品を生み出す心持ちは、けっして進化的ではありえない。なぜなら、人間は誰でも必然的に自分の生命の終点に向かって時間のなかを突き進んでいるから。
三つめの世界観は何と呼ぶだろう。終着駅があることを信じながらも、それがどこにあって、どんな駅なのか、わからないまま、終着駅へむかう鉄道。表面的には、進化的にみえるけど中身はまるで違う。
それで、どうなのか。帰るべき場所がわかっていない私は、三つめの世界観をもつべきということか。そこへ向かって出発する駅にさえ、まだたどりつけないでいるような気がする。
鉄道を比喩に使った理由は、久しぶりにニッポン放送『高田文夫のラジオ・ビバリー昼ズ』を聴いたから。木曜日「清水ミチ子の音楽道場破り」で、これもまたしばらくぶりにThe Blue Hearts「Train - Train」を聴いた。「栄光に向かって走る/あの列車に乗って行こう」を聴いたら、何となく、そのことを書き残しておきたくなった。
書評「政治家とリーダーシップ」の最後の部分に、「つまり、見方をかえれば、純粋に個性の違いがわかるようになったのは、学力という一つの物差しによって輪切りにされた同質の集団に集約されてからのことだった。」を追加。
昨日の荒川洋治のラジオ・コラムは、節約について。紹介されたお金についての格言のなかで印象深いものは、ドストエフスキーの「お金の忌々しいところは、ときに才能さえ買えることである」という主旨の言葉。以前から興味をもっているブルデュー社会学や、竹内洋の学歴社会論の根幹が、この一文で言い表されている。
お金のあるものは、投資して才能を伸ばし、そればかりか伸ばした才能を活かせるようにゲームのルールを変えていく。金のないものは、それを知らされず、またゲームに負けた者もそれに気づかないように、あたかも自分の能力と努力が足りなかったせいだと信じ込まされる。
では、金のない者は才能を伸ばせないのか。金のある者を上回る努力をする方法もある。当然、この方法には長く地道な努力が必要になる。何か一つは得るかもしれないけれども、実際には失うものも少なくない。
「大道芸には大道芸のやり方があるわ」。これは北島マヤが街頭で自分たちの野外公園の宣伝をしようとしたときに、劇場支配人に嘲笑されて思わず反撃した言葉(美内すずえ『ガラスの仮面 第21巻』、白泉社、1981)。こうしたマヤと劇団員たちはその場で芝居の一部を披露し、街の話題をさらう。
大劇場の真似をしない、大道芸のやり方を貫く大道芸はプロを脅かすほどの恐ろしい力を秘めている。しかし、ほんとうに恐ろしいのは、大道芸をすることさえ厭わないプロだろう。
エッセイ集は大手出版社から出す一方、詩を専門にする出版社を主宰している荒川洋治は大劇場と大道芸を兼ね備えた大芸人。もちろん芸とは、文芸のこと。
書評「侏儒の言葉」のなかで、「小説でもエッセイでも、ある程度の長さのなかで、はっとさせる一文を見つけたときの悦びが、私には読書の楽しみにもなっている」と書いた。一つの例として、最近読んだ今西祐行『浦上の旅人』のなかで見つけた一節を転記しておく。
とらわれの身にとって、朝ほどくるしいものはない。どんなにくるしいその日をおくっている人でも、朝は希望にみち、すがすがしいものだ。だがとらわれの身はちがう。睡眠は人の想いを正常にもどしてくれる。だが、とらわれの身にとっては、正常にもどればもどるほど、これからまたはじまる一日が、そしてあすも明後日もが、岩のように自分にのしかかってくる。この気持ちは、とらわれてみたものでないとわからないかもしれない。(「7 港の少年」)
朝の来ない夜はない、とか、止まない雨はない、とか、落ち込んだ人を励ます言葉はいろいろある。しかし、実際のところ、落ち込んでいる人、しかもそれが現実的な問題であればあるほど、朝が来るのが怖いし、雨が止んで外へと出なければならなくなるのが嫌なもの。
今西は「くるしい日をおくっている人」と「とらわれの身」を区別している。私には、「とらわれの身」は必ずしも肉体的な拘束だけではなく、心理的な状態も含まれるような気がする。
今西の表現を裏返せば、どんなに苦しい日々が続いても、朝がすがすがしいうちは心配はいらない。その苦労はいつか報われる。しかし、もし朝が来ることが恐ろしくなっているとしたら、それは苦しんでいるのではなく、何かにとらわれている。苦労ではなく、苦痛に過ぎない。いくら努力したところで坂道から這いずり落ちるように徒労感ばかりが募る。そんな心理状況はすでに正常ではない。誰かに鍵を開けてもらわなければ、牢獄から出ることはできない。
では、牢獄の鍵を開けられるのはどんな言葉、どんな態度、どんな人間だろう。
先週末、NHK教育テレビでUAが歌う「椰子の実」を聴いた。作詞は島崎藤村。砂浜で歌われた唱歌は、美しく、また懐かしかった。
懐かしいのは、中学校で教わった音楽の教科書に出ていたからというわけではない。思い出してみると、ずっと昔、関東圏でもFM局がNHKとFM東京の二局しかなかった頃、民放局でも「にっぽんの歌」という題名で、日本語の唱歌や歌曲ばかりをかける番組が毎日午後、確か2時からあった。「椰子の実」はその番組の主題曲だったはず。覚えているのは、小学校からちょうど帰ってくる時間だったからだろうか。
そういえば、唱歌だけではなく、民話を朗読する番組もFM局にあった。民話の時間は午前中の番組。宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」は、そうした番組で知った。番組は、今ではほとんど見かけない女性二人の司会だった。名前はほとんど覚えていないけれども、彼女たちの声は今でもはっきり覚えている。それにしても、午前中の番組まで覚えているのは、どういうわけか。
『人生の物語を書きたいあなたへ』を書いたBill Roorbackは、文体とは書き手の声と書いている。この比喩が気に入ったのは、私が特別にラジオ好きなせいかもしれない。文体のある文章は、何年も忘れらないでいるラジオ番組とどこか似ている。いつまでも声が忘れられない。
書評「啄木と重吉」に、第四段落「もっとも」以下を追加。
思想家と呼ばれる人々の言行不一致がときどき話題になる。私には、思想家の文章と行動が一致しないのは、むしろ自然のこととのように思われる。彼らの言行不一致を擁護しようというのではない。もともと文章による表現には、そういう一面があると思う。
文章にして書き残そうというのは、自分にとって特別なことだからではないか。確かにエッセイストは、自分が書いているものはあたりまえとか常識とか言うけれども、そういうのは、実は自分がそれまでそう気づいていなかったからだろう。ほんとうにあたりまえのことであれば、気づきもしないし、したがって言葉にすることもないし、できない。
もちろん言葉にしたことを、ましてあたりまえ、常識だと見得まで切ったことを実行できないとしたら、やはり言行不一致の誹りはまぬかれない。書いた以上は書いたとおりに行動できるように努力はすべきだろう。
しかし、文章はすでに書かれている。表現はすでになされている。思想家と呼ぼうがエッセイストと呼ぼうが、思索の試みはすでに言葉になっている。あとに残るのは書く人ではない。書いた人を含めて、これから読む人だけが残っている。つまり、書いた人の言行不一致を責めても意味がない。責められるべきは読んだ人の言行不一致のほう。
絵本評「少年時代の画集」を植栽。
思想家と昨日は書いたけれど、この言葉は思想家の半分しか表していない。思想家は必ず表現者でもある。表現しなければ、思想は見えない。思うだけ、考えるだけでは思想家ではない。
表現は言葉だけではない。もともと思想は言葉ではない。言葉にさえならない想いや感動、欲望や苦悩はすべて思想の源。それをどう表現するかは、人によって違う。
文章で表現する人もいれば、音楽で表現する人もいる。絵画で表現する人もいれば、数式で表現する人もいる。その方法に優劣はない。一般的には言葉で表現する人だけを思想家と呼ぶ。これではあまりに狭すぎる。
表現は目に見えるもの、形に残るものばかりではない。文章や楽譜や演技や演奏のように目や耳にわかる形にしなくても、生活のすみずみにまで自分が考え抜いた思想を行き届かせている人もいる。むしろ世の中にはそんな人のほうが多い。
昨日書いたように、こんなあたりまえのことをあらためて書くのは、私がつい最近までこんなことにも気づいていなかったから。
これも昨日書いたように、私が生活に思想を体現しているということではない。むしろそうではないからこそ、書かずにはいられない。そして、書き終えたとき、私は読み手の一人として、過去の私が書いた文章を読む。
ただし、今の私は過去の私が書いた文章でも、書き換える権利をもっている。同じ理由で、必要なときに修正したり削除したりする責任も負っている。書く人は必ず読む人。これもまた最近気づいたあたりまえのこと。つまり、昨日も書いたとおり、思想は書いた文章のなかにではなく、読んだ人のなかに残る。
新聞を読んでから一昨年の秋に書いた批評文「帰れ!帰るな!いったいどこへ?」を読み返す。あのとき感じた疑問は、今になってより深刻な形で現実問題になっている。今や問題はどこへ帰るのか、ではなく、これは帰国なのか来日なのか、ということ。
かつてこの国に住んでいた人が戻ってくることは、帰国といって当然。それでは他の国で生まれ、しかも、その国の国民であるとずっと信じてきた人が別の国に行くことは、どのような理由で帰国と言えるのか。実際新聞には、「行けと言われたから来た」という発言もみられる。
無法者国家であろうと、悪の枢軸国であろうと、そこが生まれたところであれば、その国を祖国と思う人もいるに違いない。親が元々望んで行ったのではないという理由で、そこで生まれた人をその人の意志を確認しないで祖国から引き離す権利を誰かもっているのか。
疑問は重なる。平気で外国から人を拉致するような国で生まれ、何の疑問も抱かず育ってきた人を、何の確認もせずに日本国民とみなしていいのだろうか。外国籍を持つ人には日本国籍を取得することは、長年日本に住んでいても、必ずしも簡単ではない。彼らが破壊工作をしないことをいったい誰が保証するのか。
そもそも日本語話者を拉致した理由は、即席の工作員教育係にするためではなかったか。そうとすれば、彼らの意思の如何にかかわらず、そうした任務を担わされている可能性は否定できないのではないか。一方では、策略をめぐらす侮れない独裁国家と非難しておきながら、他方でそこから来る人をまったく無垢であるとみなす理由は何か。
非合法活動と言わないまでも、一昨年書いたように、彼らが基本的人権をもつ日本国民として、「むこうのほうがいい国だ」と言いはじめたらどうするのか。日本国に都合のいい発言だけをメディアは拾い、独裁国家を利する発言はすべて封じるのか。そういう権利を誰かもっているのか。
彼らは「日本人」なのだから、これから日本のことを覚えていけばいい。そんな意見も新聞にはある。そうかもしれない。しかし、それは逆洗脳というものではないのか。
疑問ばかりわいて、結局この問題について私は自分の意見をもてないでいる。私は一有権者に過ぎない。他の件では確固とした意見をもっていることもあるけれども、この件については、しばらく判断を留保しようと思う。
昨日のつづき。
私は拉致被害者の家族の帰国/来日について今の時点では判断しかねる。しかし、行政、立法、司法の権限をもつ人々はそうはいかない。彼らは判断を避けることはできない。彼らは日々、判断するだけでなく、とりわけ行政の長は、判断を実行に移さなければならない。要するに、拉致被害者の問題は、好むと好まざるとに関わらず、きわめて政治的な問題になっている。
政治的な問題とは、絶対的な真理はないということ。見方によって解はいくつもある。だからこそ、多角的な視点と徹底的な議論をしたうえで、判断する必要がある。これまで決断といってきたけれど、それでは根拠もなく「えいや!」と決めているように聞こえる。政治的判断は、そういうものではない。そのときある情報、知識、意見、判断力を集め、どうしようか決めること。政治的判断力は、英知とも言われる。
だからこそ、そこに責任が発生する。あとで新しい事実がわかったり、予想しなかった展開になったりしたとき、そうなるとは思っていなかったと言い逃れすることはできない。そのとき置かれた状況で、ある判断を下したことに責任があるのだから。
拉致された人々の子が「日本人」なのかどうか、私にはわからない。ともかく、いまの政府は彼らに日本国籍を与えることを決めた。これまで実行はおろか、判断もなかったことに比べれば、判断を下し、実行した事実は評価されていい。いずれ、その判断に対する評価も、判断したという事実とは別に、下されるだろう。
政治とは、ほかにもありえた多くの可能性をあえて排除して、一つの可能性に賭けること。芸術とは、何かを表現するためにほかにはありえない表現方法を追求すること。ほかにはありえないと思うのは、もちろん表現者自身であって、ほかの人にはそうではないかもしれない。
それでも、表現した本人ではないのに、その何かを表現するのはその方法以外ではありえないと感じたとき、そういうことが伝わったとき、その表現は、表現者一人のものではなくなる。夏目漱石が「文芸の哲学的基礎」の中で書いている「還元的感化」とは、こういうことを言っているのではないか。
二つの国家のあいだで揺られ、メディアの渦中に放り込まれた人たち。突然連れて行かれ、突然“帰れ/行け”と言われる。彼らが外交の材料にされ、報道の餌食にされていることは否定できない。どんな政治的判断も報道も、彼らにとっては、自分たちのためではなく、その場限りの妥協の産物にしか見えていないかもしれない。どちらの国を思うにしても、お国のためだけに生きていると信じているのでない限り、どうしようもなく、やりきれない気持ちだろう。
では芸術は彼らのやりきれない気持ちを感化できるのか。いったい、どんな芸術が。ホテルの窓から東京の夜景を見て「きれい」と日本語で言ったと新聞には書いてある。声に出したい美しい日本語。まさか。すぐそばのテレビでは美しいハングルのドラマが流れていたはず。
彼らが新しい多文化世界の芸術を生み出すかもしれない。
昨日の荒川洋治は肩書きについて。荒川の分類では、文芸評論家は文壇で地位のある人を示す。例として、正宗白鳥を彼はあげた。文芸評論家という肩書きは、私にはもっとあやしい人種を示す。
推理小説やハードボイルド小説の文庫の巻末についた、お世辞にも解説と言えない独りよがりの作文には、たいてい文芸評論家という肩書きがついている。しかもその人たちの名前は、新聞や週刊誌の書評欄では一度も目にしたことがない。文芸業界は、きっと私が思っているよりずっと広い。
最近は作家という言葉が気取った響きをもって氾濫していることに、荒川には不満があるらしい。ノンフィクションを書く人を作家と呼ぶのはどうか、という発言も聴かれた。
確かに「家」には、大家など優れているという意味合いもあり、自称するのはおかしいようにも感じる。その一方で、より中立的な「者」と比べると、素人という響きも持ち合わせている。たとえば「研究者」と「研究家」を比べると、前者は職業として研究する人に、後者は余技として打ち込む人に聞こえる。
「家」は、もともと職業とは直接関連のない行為を示しているのではないか。それを職業を示す名詞の肩書きとして使うと、違和感が生まれるのかもしれない。素人は何を自称しようと他人に迷惑はかからない。音楽好きなら誰でも音楽家、絵を描く人は誰でも画家。恋すリゃ犬でも詩人、という言葉も聞いたことがある。
二日前の日誌に突然、夏目漱石「文芸の哲学的基礎」のことを書いた。これまで何も書き残していなかったけれども、連休中に「文芸の哲学的基礎」をはじめ、漱石の批評文をまとめて読んでいた。きっかけは「文芸の哲学的基礎」が英訳されたという新聞記事。島崎藤村、芥川龍之介、森山啓と、今年前半は日本文学づいている。はじまりは、少し新しい山口瞳だったか、いや、手塚治虫とナンシー関だったか。ともかく今年は、はじめから日本語で書かれた文章をよく読んでいる。
「文芸の哲学的基礎」は東京帝国大学を辞めて、朝日新聞に入社後の初仕事。直前には「入社の辞」という文章が書かれている。二つの文章には、小説家という職業にかける漱石の並々ならぬ意気込みが感じられる。
その意気込みは、「筆一本で身を立てる」という経済的な意味での背水の陣とは違う。漱石は朝日入社にあたって、それまでに受けていた以上の厚遇を約束させた。しかも、書く量、内容に口を出させないという条件も呑ませた。
生活に困らなくなれば、あとは作品を創るだけ。量ではなく質で勝負することが、「哲学的基礎」では宣言されている。
私はただ寝ているのではない、えらい事を考えようと思って寝ているのである。不幸にしてまだ考えつかないだけである。なかなかもって閑人ではない。諸君も閑人ではない。閑人と思うのは、思う方が閑人である、でなければ愚人である。文芸家は閑が必要かも知れませんが、閑人じゃありません。ひま人と云うのは世の中に貢献する事のできない人を云うのです。いかに生きてしかるべきかの解釈を与えて、平民に生存の意義を教える事のできない人を云うのです。こう云う人は肩で呼吸(いき)をして働いていたって閑人です。文芸家はいくら縁側に昼寝をしていたって閑人じゃない。
この考え方は、「道楽と職業」のなかでも展開されている。そこでは自らの職業を「道楽的職業」と定義している。「道楽的職業」とは、好きなことを好きなようにすること。
私には、後半がとくに重要に思われる。つまり、好きなことをすることが目的ではなく、ましてやそれを職業にするかどうかが問題なのではない。大切なことは、好きなようにする、できるということ。
もう少し一般的な表現をすれば、自由は、名詞的概念でも形容詞的概念でもなく、副詞的概念ということ。自由は手に入れるものではない。自由な身分にいるだけでは、自由ではない。自由に振舞うとき、はじめて人は自由になる。
漱石にしても藤村にしても、明治の文豪は、文学をいかに生活として成り立たせるか、ビジネス・モデルの開発という点でも開拓者だった。確かに現在でも、脚光を浴びる芸術家は作品の中身だけではなく、発表の方法が斬新であることが少なくない。しかし、法外な好条件で新聞社と専属契約した漱石にしても、借金をして自費出版をした藤村にしても、目的は作家という職業に就くことではなかった。書きたいことを書きたいように書いて、発表したいように発表する、その手段を模索していたと私にはみえる。
印刷も検閲もなく文章が発表できるネット時代にもし彼らが生きていたら、どんな風に作品を発表しただろう。いや、この質問に意味がない。好きなように文章を発表できる時代に、生活の不安がとりあえずなく、発表の手段をもち、発表する楽しみを覚えた人は、何をどのように書いて、発表していけばいいのか。私が考えなければならない問題は、そう問いなおされる。
☆
さくいん:夏目漱石
昨日のつづき。
『漱石全集 第十六巻』には、「文芸の哲学的基礎」「道楽と職業」のほか、これまでに読んだことのある有名な「現代日本の開化」や「私の個人主義」なども収録されている。ほかにも、「創作家の態度」「中身と形式」「素人と黒人」など、興味をひく題名の随想、批評が多い。とりわけ「中身と形式」は、思想と表現を表裏一体、あるいは渾然一体としたスタイルという概念を考えようとしている私には示唆多い。
して見ると要するに形式は内容の為の形式であって、形式の為に内容が出来るのではないと云ふ訳になる、モウ一歩進めて云ひますと、内容が変われば外形と云ふものは自然の勢ひで変つて来なければならぬという理窟にもなる。
この引用文では、漱石は中身を形式に優先させている。この文章では、表面的な形式だけ帳尻を合わせた学説などを批判の対象にしているので、このような考えが自然に引き出されるのだろう。しかし、一般的には中身と形式のどちらが先か、簡単な問題ではない。どんなに深く感動しても、言葉を知らなければ言葉で表現することはできない。言葉は多くの人にとって自然に覚えてしまうものなので中身に先立つように思われやすいけれども、楽器演奏やスポーツなど身体の動きを覚える必要がある表現では、むしろ形式の習得が重視されている。
もっとも、最近ではスポーツの世界でも、以前のように形式、つまり素振りや型を押し付けるのではなく、はじめになぜその型を身体で覚える必要があるのか、言葉でよく説明するほうが習熟は早いと言われているらしい。このことは、中身が形式に先行することを示しているし、また意志伝達の道具としての言葉の重要性が増していることも示している。さらに言えば、中身が熟するのを待つか、形式を先に伝達するかという点に教育の難しさがあることも示している。
他人に教えられる教育ではなく、自分で自分に教え、学んでいくような場合には、やはり中身が形式に優先するだろう。思想と表現は一体とはいえ、つねに思想が一歩先を行く。新しい思想はそれまで入っていた殻を破り、新しい器を求める。けっして逆ではない。思想が熟していないのに新しい形式で表現してみても、上滑りして思想はこぼれる。思想が熟すとき、自ずから新しい形式を生み出していく。スタイルの変貌は、このように言い換えることもできる。
ところで「文芸の哲学的基礎」をはじめとする評論作品は、講演をもとにしているけれども、漱石自身によって大幅に加筆され、書きなおされている。こういうところにも書き言葉による表現、すなわち散文芸術にかける意気込みが感じられる。
コンビニで立ち読みしていると、「シャ・ラ・ラ」が流れている。歌っているのは、サザンではなく、つじあやのと奥田民生。つじの声は、シュガーベイブをカバーした「パレード」で聴いたことがある。乾いた感じで、のびのびした声が印象に残っていた。この曲でも、原由子に比べて歌い方もあっさりしている。カバー曲の歌声に誘われて、ひさしぶりに原曲を聴いてみた。ふいに聴いた新しい解釈が、眠っていた記憶を呼び覚ます。
大阪に出かけたとき、今は東京に住んでいるけれども、育ったのは湘南と言ったら、「あんたは、似非湘南ボーイや」と言い返された。海の近くで育ったといっても、信じてはもらえない風貌なのだろう。私としては、似非といわれるくらいならモグリと言われたい。いずれにしても、サーフィンもしたことがない私は、確かに湘南ボーイとは言いがたい。
実際、十代のあいだを過ごした場所は、湘南ボーイというには海から離れていたし、浜っ子というには港からも離れていた。こういう点でも、私の属性は中途半端。それでも海岸や港には頻繁に出かけていて、潮の香りになつかしさを感じることは嘘ではない。だから、横浜が歌詞にでてくる「シャ・ラ・ラ」だけでなく、サザンの歌は一時期よく聴いていた。
湘南という地名は、自動車のナンバープレートを除いて存在しない。明確な境界線はない。人それぞれに湘南の広がりがあるに違いない。私にとっては、稲村ガ崎から江ノ島までの七里ガ浜のあたり。江ノ島の向こうにはあまり行ったことがない。由比ガ浜は鎌倉、そこから東は逗子、葉山、森戸と地名がそれぞれあるし、七里ガ浜にしても名前があるから、「湘南へ行こうか」とは言わない。
「湘南」と気取っていうのは、よその場所で気分よく酔っているとき。湘南ボーイというあだ名にしても、湘南という地名にしても、結局は似非でしかない。でも、この曲のなかにある「横浜じゃトラディショナルな彼のが」を聴くと、「あなたのことを思い出す」と言った人もいなかったわけではない。そんな服装をしていたせいかもしれない。
「シャ・ラ・ラ」を聴いて心動いたのは、おそらく、ここのところ、少し感傷的な気持ちで続けて横浜へ出かけたこととも関係がある。横浜の書店では、地域で話題になっている山本洋三『栄光学園物語』を買った。学校生活といっても、人それぞれ。時代も学校も違うから同じであるはずはないのに、見知った場所を舞台にしているために、つい比較してしまう。ところが、山本の回想する学園風景は、私の記憶とあまりにも違うのでとまどう。つまらない回想を中止して本の感想だけを書けるのは、少し落ち着いてからになりそう。
ところで、つじあやのはカバー集『COVER GIRL』で西岡恭蔵「プカプカ」も歌っている。聴いてみると、濃いにごり酒をすっきりと蒸留した感じ。私は煙草は吸わないけれども、原曲もカバーもプカプカしたほろ酔い気分を味わえる。
表紙写真を「つつじ」に変更。
☆
さくいん:サザンオールスターズ
文章読本 夏目漱石、河出書房新社、1975
連休中は天候が悪くでかけられなかったこともあり、『漱石全集 第十六巻』のほか、夏目漱石に関する本をながめて過ごした。一冊ずつに確固とした感想があるわけではないけれども、記録として書き残しておく。
『「坊ちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』では、当時市電が東京の中心部から郊外へ拡大していたこと、複数の民間電鉄会社が競合していたこと、高速大量輸送を可能にした市電が東京市民の生活を根本的に変えはじめていたことなどから、漱石は時代の情勢、状況を念頭に置いて作品を書いていたことが解説されている。
漱石の作品のすべてを読んでいるわけではない。それでも、鉄道にまつわる場面は確かに印象に残っている。本郷周辺を舞台にした『三四郎』では、市電が伸びても大久保あたりは田舎だから、夜は暗くて何が起こるかわからないという発言を覚えている。『それから』の結末も、電車は、行く末のわからないまま、時間だけはあわただしく、またけたたましく過ぎていく現代人の生活を象徴している。
『文章読本』には、高橋和巳、平野謙の文章。荒川洋治は古い文庫本では、思いもかけない文豪が一解説者として文章を書いていることがあると話していた。少し古い雑誌でも、後になって雑誌の特集に単独でなるような人が、一寄稿者として書いている文章を見つけられる。
『別冊太陽』は、両親の家に残る蔵書の一冊。豪華なグラビア誌は、眺めても楽しく、読んでも面白い。図書館でもよく借りるのは、こうした紙の博物館のような本。
グラビア誌、グラフ誌というと、私のなかでは十代の記憶と重なることが多い。最近はあまり手にとることがなく、今でも続刊が出ていることを最近まで知らなかった。世話になった出版社に申し訳ない気がする。近刊にも、日本の教会建築、日本の探検家、民話と語り、平田篤胤など、興味深い特集が多い。可処分所得のうち、書籍費の割合を再考する必要があるかもしれない。
☆
さくいん:夏目漱石
連休中の読書のつづき。関川は以前、『本よみの虫干し』(岩波新書、2001)を読んだことがある。文学史というと思い入れたっぷりになりがち。関川の場合、少し斜に構えた見方が面白い。
明治の文学がもっていた明るさは、文学の世界が「市場」として多くの成立し、多くの人々が参入するようになった大正期に、泥臭い実生活の告白の暗さのなかへと消えていった、と関川はみている。白樺派の明るさは、明治文学の健康的な明るさの残り香。もっとも、白樺派の明るさは、生活に対する不安がないからなせる技という一面もある。
文化資本が、階級の苗床というより産業社会での上昇の結果獲得される勲章にすぎなくなった戦後社会では、裕福でなおかつ芸術に渇望する白樺派のような社会階層は存在が難しい。精神的な貴族のかわりに芸術を供給しているのは、私的世界の告白を売り物にするタレントと、私的世界を押し殺して、面白い作品を生み出すことに専念する職人。いずれも多くのすぐれた作品を生み出してきたことは否定しない。
だから、二つの傾向は根本から否定しなければならないものではないと思う。しかし、多くの人は「私」ばかりの作品に飽き飽きし、また、「私」のまったくみえない作品にも物足りなさを感じているのではないか。
ネット上の個人サイトの文章や、ネット書店に投稿された書評は、自分自身の体験やその本を読むきっかけを中心にして書いているものが多い。そうかといって、それらはすべてプライバシーの垂れ流しというわけではない。読んだだけでは、書いた人がどんなことを考えているかはわかっても、どんな社会集団に属しているのかは、必ずしも見え透いているわけではない。そこには書かれた文章から見える一人の世界があるだけ。
読者は見えすぎる私と見えない私の中間を求めている。互いに多くを知らないはずのネット上の個人サイトが引用しあい、ネット書店に投稿された書評を集めた本が思いのほか売れている理由の一つは、きっとこのあたりにある。
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