中途半端――私の思想への糸口


最近、自分で編集した音楽のリストをウエブ上に掲示した。好んで聴く70年代から80年代に流行したアダルト・オリエンテッド・ロックや、ウエスト・コースト・ロックが選曲されている。一曲一曲に書いておきたい記憶がある。

アンソロジーには、「HOME――遠ざかりながら近づくところ」と名をつけた。ただ好きな曲や、思い出がある曲ではなく、それぞれに遠ざかりながら近づく人、場所、空気を表現しているような曲を選んだつもり。

実は、公開するかどうか、かなり迷った。音楽は、私にとって趣味であり楽しみでもある。それだけに、ただ好きな曲を並べるだけで私の表現と言えるだろうか、という疑念がよぎった。音楽は、私にとってはプリファランスの水準にある問題であり、スタイルの問題ではないのではないか。

躊躇しながら、考えた。なぜポピュラー音楽だけが趣味の問題と問われるのか。すでに公開されている書評で取り上げた本は趣味の水準ではないと、なぜ言い切れるのか。プリファランスの水準とスタイルの水準という較差は確かにある、なければならない、そして基本的にはプリファランスの水準を表示したところで他人にとってはほとんど興味もなければ、意味もない、と私は考える。

別な言い方をすれば、プリファランスをスタイルに高めてこそ、初めて公開して他人の真剣な眼にさらすことができるということ。ウエブで公開する内容は、スタイルである必要はない、プリファランスでも充分だという議論も成り立つだろう。そういう意見を私は否定するつもりはない。ただし私自身としては、自分のプリファランスを公開する気にはなれない。

問題を整理すると、二つの疑問が私につきつけられる。まず、好きな音楽を並べ立てるだけで公開するに値するかという問題。この問いかけは当を得ているようにみえる一方、ある主題に合致する曲目を私の知識や趣味の範囲から選んでいるという主張をすれば、今回の私家版は十分に普遍的な価値とは言えないまでも、単なる趣味の羅列以上の意味があると、私は反論できる。

より深刻なのは、プリファランスとスタイルの較差を音楽と読書という単純な分野の違いだけでなく、ポピュラー音楽と思想や文学という内容によって規定しているのではないか、という疑問。

私は内心、ポピュラー音楽はスタイルとならないたかが趣味であり、思想書や文学書を読んで表現できるスタイルに高められた教養とは異なる世界であると思い込んでいるのではないだろうか。そうした自分自身に対する批判が聞こえる。

なぜ、ポピュラー音楽は趣味で、なぜ、文学書や思想書は教養なのか。ここに私の知識観、教養観、文化観に潜む致命的な問題がある。音楽と読書の区別だけではない。読書の中にも私の偏見はある。同じことを読み取っても、私の中ではなぜか思想書や文学書に一段高く感動してしまう。それは心の奥底にある教養文化に対する憧憬と劣等感のせい。

極端に言えば、思想書や文学などの教養文化に思想はあっても、フォークソングやロックなどの大衆文化にはないとさえ、私は思っているのではないか。そして教養文化からだけ思想を学べる、学ぶべきだとさえ感じているのではないか。

しかし私の中にあるのは、教養文化だけではない。むしろ、私を私たらしめている部分の大半は大衆文化から成り立っている。マンガ、アニメ、テレビ、お笑い、アイドル、ラジオ、演歌、ロック、フォークソング、ニューミュージック、グラビア、ポルノ、ゴシップ。そうしたものを見たり読んだり聞いたりして私は生きてきた。にもかかわらず、あるいは、それゆえに、そこから離れ教養文化に近づこう、入り込もうとしてきた。

けれども、いつまでも大衆文化を忘れることができないし、離れることもできないでいる。それが私自身を生み出し、育ててきたから。大衆文化こそ、私にとっては「遠ざかりつつ近づくところ」。

私は二重に問いただされなければならない。なぜ大衆文化に思想はないと言えるのか。なぜ思想に興味をもち、教養文化を通じてそれを学ぼうとしているのか。そもそもなぜ、教養文化と大衆文化を分別しているのか、なぜ大衆文化から教養文化への上昇として読書や思索をとらえているのか。これから考えるべき課題は少なくない。それでも、こうした設問が自分自身に提出できただけで、なぜかしら肩の荷が下りた気がする。ようやく取り組むべき問題が明確に見えてきたから。

教養文化と大衆文化。それらを二項対立でとらえること自体、おそらく問題を含んでいるに違いない。ともかく今の私はそれら二つの間に揺れている。あるいは一方に対する憧憬と他方に対する郷愁とに分裂している。そのような中途半端な状態に今の私はいる。

ところで、考えてみれば、思想とはもともと中途半端なもの。そう思ったのは先日、書店で中島義道『哲学の教科書』を立ち読みしたとき。哲学研究と哲学は違う、哲学と思想も違う、と中島は言う。こういう言い方に、なぜかほっとした。

哲学にも哲学研究にも、興味はあるけれど、したいわけではない。私がしたいのは自分の思想を見出すこと、それによって自分の生活を築いていくこと。

思想とは何か。思想は、実践でもなければ実学でもなく、哲学でもない。行動でもなければ、行動の指針でもなく、そうかといって存在に対する根源的な思索でもない。何をすべきか、どうすべきかを問わないし、人間とは何かも問わない。思想はまた、学問にもならなければ、職業にもならない。このように考えると、思想はきわめて中途半端な行為だと思われてくる。

では思想とは何なのか。思想は批評に似ている。批評は、対象の奥底に潜む本質的な美を、疑いながら、つまり偏見や常套句を排除しながら見出していき、自分の言葉で表現する行為。批評には、作品という対象がある。思想の対象は自己。その意味で思想は、自己が個人に、個人が人間になるための孤独で内省的な批評と言うこともできるかもしれない。批評が見出すのは、対象そのものに内在する美ではなく、対象に美を見出す自己の美意識であるとすれば、批評は思想となる。ただし、そうした意識までをもって批評をする人は非常に少ない。

思想は、人間として在ることを前提にして、人間として「私」が在るとはどういうことか、を問う。その意味で「自分さがし」は思想ではない。自分はすでにある。眼をそむけたくなるほど、むごたらしい姿で目の前にある。その醜悪な石塊を削る、刻む、磨く。そのように自己を彫刻することが思想ではないか。思想とは、文字通り身を削る思いで考え続けることではないだろうか。

思想という彫刻は、言葉を刀とする。この点でも思想はわが身を傷つけるという比喩が合う。思い違いしてはならないのは、言葉によって思想を紡ぐ行為はきわめて特殊な行為だということ。それは、思想に興味をもたない人を見下すということではない。むしろ、他人の接近方法を尊敬することを促す。

人間に至る方法は言葉だけではない。身体的な運動もあれば、言葉の代わりに絵筆や楽器を手にする人もいるに違いない。鍬やねじ回し、包丁を道具にする人もいるかもしれない。それどころか、言葉も道具もなく何気ない行動に思想を体現してしまう人もいる。

人はすべて言葉を用いるとしても、すべての人が言葉を用いて思想を表現するわけではない。こうした考えを事実としてよくかみしめると、いわゆる芸術作品だけでなく、身近なさまざまな人や行動に深い思想が溢れていることがうれしく、また背筋を正すような厳しい戒めとして感じられてくる。

私は言葉で思索し、思想を手に入れる道を選ぶ。今は、その理由はわからない。わからなくても進もう、進まなければならないと思う。それは森有正のいう宿命のようなものかもしれない。宿命を受け入れなければ、思想へたどりつくことはできないと森は言う。まして思想を体現した生活などありえないだろう。

そこで、自分自身の思想へ向かう手がかりになるのが、中途半端という概念。中途半端は中庸という悟った境地ではない。もっとだらしなく、もっと頼りない。まったく惨めではあるけれど、それでもこの言葉は、私のこれまでと今の境地にはもっともふさわしい、私だけにあつらえられた服のようにも感じられる。実学でも哲学でもない思想への思い入れ、教養文化と大衆文化とのあいだの宙ぶらりん、それ以外にも私には社会的な属性や性格からみても、中途半端という言葉がぴったりくる点は少なくない。

中途半端は正されなければならないものなのか。どこかに究める道を見つけたら真直ぐ進むべきなのか。あるいは中途半端を中庸という境地へと高めていくべきなのだろうか。それとも、この中途半端な状態を中途半端に究めていくことが私だけの思想へたどり着く道なのだろうか。おそらくそうであろうと予測はするが、まだわからない。

この文章に結論は何もない。この文章を尻切れトンボで終わらせるのも、私の中途半端を如実に示す一例といえる。


碧岡烏兎