2003年2月 |
2/1/2003/SAT図説 聖書物語 新訳篇、山形孝夫著・山形美加図版解説、河出書房新社、2002『聖書物語』は宗教を扱う本としては非常に冷静。中立的、学問的で客観的な分析がされている。 キリスト教は、イエス一人によって生み出されたものではないという考え方。閉塞した社会で改革機運が高まり、洗礼者ヨハネなどの先行者がいたこと、似たような改革集団が割拠するなかで、イエスの「神の国運動」がもっとも先鋭で、ユダヤ教そのものを転倒させる論理を内在させていたこと、何より初期キリスト教はすでに宗教共同体であったことが詳しく論じられている。 2006年2月3日追記。 この本を読んだときには後に山形孝夫と再会し、その著書が愛読書になるとは思ってもみなかった。 ☆
さくいん:山形孝夫 2/2/2003/SUNバッハ:フーガの技法(Die Kunst der Fuge) BWV1080, Marie-Claire Alain (orgue), Erato, 1993Bach: Complete Lute Suites, Sharon Isbin (guitar), Virgin, 1989日経BPムック ナショナル・ジオグラフィック・トラベラー特別版 世界の名所50、ナショナル・ジオグラフィック・トラベラー、日経ナショナル ジオグラフィック社、2000アンナの赤いオーバー(A new coat for Anna)、Harriet Ziefert、Anita Lobel、松川真弓訳、評論社、1986ペレのあたらしいふく(Pelle's new suit)、Elsa Beskow、Elsa Beskow、おのでらゆりこ訳、福音館書店、19702/4/2003/TUE先日この欄にも他人の悪口を書いてしまった。正確には他人の仕事にけちをつけたというべきか。こういうのはやはり後味が悪い。 鷲田清一の書評に紹介されて書店で檜垣立哉『ドゥルーズ』(NHK出版、2003)を手に取った。エピグラフとして、「ほめなければ新しいものは生まれない。中傷するだけでは何も生まれない」という主旨の言葉が掲げられている。 まったくその通りと思う。晩年の小林秀雄は、「ほめることが最高の批評」と繰り返し書いている。ルソー『エミール』の冒頭にも「他人の批判より自分の意見を」と書かれている。 ところが、ネット上の個人サイトや掲示板では、圧倒的に罵詈雑言が多い。文学や思想に関連するページでも、「あの人はダメ」、「何々思想は終わった」といった紋切り型の言い草が少なくない。 こういう輩は私が学生の頃もいた。そういう人にとっては、思想もファッションの一部で他人に知識をひけらかしたり、「何々を勉強している」と言いたいだけのようだった。 気の毒なのは、まじめに自分の生の問題として本を読んでいるように見えた人でも、勉強を進めるにつれて、まだ学者にもなっていないのにまるで職業として勉強しているかのように自分の問題意識に対して客観的になりすぎてしまうことがあったこと。 これは現在見ている個人サイトでの批評にも言える。好きなものだけを追いかければいいという素人の利点を忘れて、プロのように全体をみまわして発売される作品をいちいち判定している人がいる。そればかりか、いいものをほめるのではなく、けなすことにばかり力を注いでいるものもある。 プロであれば、職業上読みたくもない本を、読まなければならないこともあれば、そうした本を褒めないまでも、貶さずやり過ごす論評をしなければならないこともあるだろう。あるいは優劣の判定を下さなければならない場面もあるにちがいない。 そこに職業的な評論家のジレンマがある。このジレンマに苦しむのは文筆業ばかりでない。あらゆる職業につきまとうジレンマと言ってもいいのではないか。職業としてする以上は好きなようにばかりはできない。必ず何らかの制約がある。素人にそんな責任はない。気に入らなかったものは、ほっておけばいい。 「放置プレイ」という、いかにもネット生まれらしい、いかがわしい名のルールは掲示板書き込みのネチケットだけでなく、ネット上の批評、すなわち自分以外の存在について語ることすべてに当てはまるような気がする。 ☆
書評『私の絵本論 0歳からの絵本』を植栽。 2/6/2003/THU更新履歴の頁を新設。 2/7/2003/FRI書評「親のしごと 教師の仕事」を植栽。 2/8/2003/SAT最後の翔んでる警視正 平成篇11 オリエント急行事件簿(1994)、胡桃沢耕史、文春文庫、1996絶筆となった作品。 壮大なスケールで胡桃沢の正義観、平和観、人生観が展開される。 絶筆であることを意識して読むと、強引な展開の奥に、ある意味では『黒パン俘虜記』以上に作者の思想が表されているように感じられる。出版年が前後するため、『新世紀篇』が二冊未読で残っている。 さくいん:胡桃沢耕史 2/9/2003/SUN批評「英語について」と雑文「正月休み雑感」を日記から修正して植栽。 箴言の頁を断章の頁に改題。 日記の頁を新設。これまで日記鯖に書いていた文章のなかで、1月分からまとまった内容のものを縦書き処理して独立させる予定。 日記鯖は更新せずにそのままにしておく。自力で書くことに慣れてきたために移行。ウエブで書くことを教えてくれた日記鯖には感謝。 2/11/2003/TUEBach: das orgelwerk 10--orgelbuchlein, Helmut Walcha (orgue), Archiv, 1971Bach: das orgelwerk 11-- BWV 653b - 769, Helmut Walcha (orgue), Archiv, 1971TVテーマ BEST SELECTION、海老名考編、RCA Victor、1994先週借りたTV番組主題曲集では、目当ての「刑事コロンボ」がオリジナル・サウンド・トラックではなかった。今回は「コロンボ」はオリジナルだけれど、「ルーツ」や「大草原の小さな家」など、期待していた他の曲にオリジナルではない編曲があり残念。オムニバス盤はむずかしい。 ☆
批評文「ビジネスのプロ・スポーツ化」、「ピアニストとしての日本文化」、書評「森有正全集 補巻」を植栽。 「ピアニスト」は、だいぶ前に書いたメモ。いつまでたってもそれ以上は展開できずに放ってあった。とりあえず、そのまま出してみる。外から見ると、書きくわえることが思い浮かぶかもしれない。 2/12/2003/WEDだるまちゃんとうさぎちゃん、加古里子作・絵、福音館書店、1972ゆきのひ(The snowy day)、Ezla Jack Keats文・絵、木島始訳、偕成社、19692/13/2003/THU思想の源泉としての音楽~新しく生きること、森有正講演・演奏(オルガン)、筑摩書房/Phillips、1987こういうアルバムがあるとは驚いた。同時に非常にありがたい。森有正の人と思想を知るためには音楽との関わりが切り離せないから。 講演録音を聞いて、小林秀雄の講演カセットを聴いたときと同じことを思う。文と話はまったく違う。文章とは、人と思想を表現する一形式に過ぎないとつくづく感じる。 小林は神田の生まれ。べらんめぇ調にも聞こえる江戸っ子気質の話し方。新宿生まれと聞く森の話し方は、早口で熱っぽい。東京人らしいというのだろうか。文章ではほとんど見られないユーモアや、たたみかけるような話し方など、インタビューならではの表現が随所で聴ける。もちろん文章で感じられる実直さ、生真面目さは変わらない。 森のオルガンはかなり重苦しい。選曲、楽器、演奏、録音などさまざまな要因があるのだろう。バッハをオルガンの原音から聴いたことがないので、はっきりしたことはわからない。 少なくとも前に聞いたヴァルヒャのアルバムと比較しただけでもきらびやかというよりもオルガンがもつ荘厳さが強調されている。そうした印象からだけでも森にとって音楽は、話し言葉よりも書き言葉の世界に近いのではないか、と予想される。 余談。インタビュアーがまだ若い森本毅郎であることも興味深い。今のような熟練した話しぶりとは違って、緊張した声が初々しい。 ☆
随筆「世界の終わり」の末尾に一行追加。この文章は批評文ではないか、という気もするし、そういう水準ではないような気もする。結局、移動せず。 さくいん:森有正 2/14/2003/FRIニッポン放送、昼の帯番組「高田文夫のラジオ・ビバリー昼ズ」を聴く。よく聴くのは木曜日と金曜日。高田の相手は清水ミチ子と松村邦広。松村はいつからこんなに面白くなったのだろう。デビューしたのは10年くらい前だろうか。初め出ていたTVジョッキーではただのいじられ役だったのが、今ではモノマネの技術だけでなく、モノマネで喋る中身でも笑かしてくれる。 昨年は田口トモロヲのモノマネでずいぶん笑った。しばらく前に図書館で借りたDVD『スクール・ウォーズ』の特典ディスクでも、彼にしかできないモノマネ+ウンチクを披露。細かな演出まで覚えている松村に、台詞などはとうに忘れている出演者たちは、呆気にとられていた。 来週はスペシャル・ウィーク。つまり、聴取率調査週間。特集は昭和の歌謡曲。題して「高田文夫の昭和は終わらない!」。 高田のなかでは昭和がまだ続いていて、今年は昭和78年らしい。こういうのは保守的というのか反動的か。格別に諧謔的であることだけは間違いない。 2/15/2003/SATだるまちゃんとてんじんちゃん(こどものとも、2003年3月号)、加古里子作・絵、福音館書店、2003表紙の色と写真を変更。随筆作品に段落、誤字脱字など基本的な校正をする。 2/16/2003/SUN書評「世界の艦船 特集 世界の空母 2002」、「森有正エッセー集成Ⅰ」、批評「中途半端」を植栽。批評「ピアニストとしての日本文化」に後半を追加。 あわせて借りてきた『丸 2002年7月号 特集 ミッドウェー60周年 逆転の海戦』は、肝心の特集部分がそっくり抜き取られていてがっかり。 あとの二つは思いのままに書いてしまった。その割には書き足りないような、思い入ればかり強すぎて文章は空回りしているような、妙な微熱が残る。 こういう場合はともかく書きなぐるしかない。 2/17/2003/MONくれよんのはなし(The chalk box story)、Don Freeman作・絵、八木田宜子脚本、ほるぷ、1989ごきげんのわるいコックさん、まついのりこ・ひょうしぎ、童心社、1985書評「小林秀雄全集」の段落、行末などの体裁を整える。随筆「駒場近代文学館」、「啄木と重吉」、書評「絵本と子ども」を剪定。批評「アイロニーとしての世界市民」を書評「アメリカニズム」に改題、書評へ移動。 2/18/2003/TUE今朝の荒川洋治。「本が売れないのはなぜか?」というシンポジウムが最近あった。このシンポジウムは、これまで一同会することのなかった新古書店、図書館、取次店の三者が集ったので画期的だった。主催は作家の組合、日本文芸者協会。荒川は理事であるけれど、行かなかった。 本の売れ行きが6年連続減少しているにもかかわらず、新古書店の店舗、売上げは伸びている。作家、取次ぎ、書店からは需要を奪っているという不満の声がある一方、新古書店からは、捨てられるはずの本を再生することにより、むしろ本とのふれあいを広げ、潜在的な市場を拡大しているという反論がされる。 図書館はベストセラーを無賃貸ししていると非難に対して、新古書店同様、読書への窓口としての責任を果たしていると言う。取次ぎは、寡占状態により本の自由な流通を妨げているという批判を受けて、大量出版を管理する困難さが説明された。 結局、三者の言い分は予想通りかみ合わなかったため結論にはいたらなかったが、新古書店、図書館から作家への金銭的な保証の可能性など、将来の和解を含ませた有意義な会合だった。 荒川の感想は途中で披露された。曰く、いま売れていないのではなく、これまで本は売れすぎていたのではないか。自分は作家として、買ってだろうと借りてだろうと読んでもらえるだけでうれしい。 また、森本から本が売れない理由を聞かれて、次のように分析。今は、読書以外の楽しみも多く、お金の使いみちが本に向かっていない。忙しい生活の中で、本はじっくり読むものではなく、ぱっと見るものになっている。読むことより書くことに人々の関心が移っている。 さらに信州大学、森教授の言葉を引きながら受験勉強で一つの答えを見つける思考法を植えつけられて、多様な答えを見出す読書の楽しみを知らないまま大人になる人が多いのではないか、と付け加えた。 「(シンポジウムに)行かなくても、ここまで言えるんですね」と突っ込まれて放送終了。 このシンポジウムの致命的な問題は、例の荒川のさりげなく、鋭い一言で喝破されている。ここでは「どうしたら本が読まれるか」ではなく、「どうしたら本が売れるか」が話し合われている。これは読書の本質とはまったく関係ない。社内の売上げ目標達成を話し合う会議と同じで、業界の売上げ向上を企んでいるにすぎない。 多くの人が読むことではなく、書くことに興味をもっているという指摘は、半分当たっている。自費出版だけでなく、ウェブ上に個人サイトは増えている。その多くは家族の紹介程度で終わっているけれど、そればかりではない。本や音楽だけでなく、あらゆるものが批評されている。また個人サイトは同好の間で、互いによく読まれている。本が読まれていないわけではない。買われていないだけ。 要するに、みんな見抜いている、書店も作家も出版社も本を売りたがっていることを、そして、売れさえすれば、質よりも数と金額ばかりが重視されていることを。 森教授は「本の『ほん』は本当の本」と言っているらしい。受験勉強は読書を育てないという意見には賛成できないけれど、この意見はその通りと思う。作者はほんとうに書きたいことを書き、読者はほんとうに読みたいものを読む。それだけのこと。そのあいだに売れ行きとか売上げとか、業界の論理が入り込めば、本当のこと以外が紛れることになる。 本の中にあるほんとうとは何なのか、シンポジウムに参加した人たちにこそ、考えてもらいたい。 2/19/2003/WED庭師紹介の頁に、「何のための思想――ジャン・ジャック=ルソー」を植栽。 2/20/2003/THUCool, Earl Klugh & Bob James, WEA, Warner, 1992ボレロ/井上圭子 サントリー・ホール・ライヴ、井上圭子(オルガン)、デノン、コロムビア、1998ファンタジック・ベスト、井上圭子(オルガン)、デノン、コロムビア、1996アール・クルーをよく聴く。それでも、どこが良いのか、説明することができない。どの曲がいいのかもうまく言えない。というのは、曲名を意識しながらほとんど聞いていないから。本を読んだり、文章を書いたり、食べたり、掃除をしたり、たいてい何かをしながら聞く。そういうことがはかどる、もしくは楽しくできるようになるところが、アール・クルーの魅力と言える、少なくとも私にとっては。 バッハにも同じことが言える。たいていは何かをしながら流しているだけ。ただしオルガンはちょっと違う。家のステレオではどうもものたりない。運転しながら大音量で聴くとだいぶ雰囲気がでる。 2/21/2003/FRIじごくのそうべえ 桂米朝・上方落語・地獄八景より、たじまゆきひこ作・絵、童心社、19782/22/2003/SAT書評「『教養』とは何か」を植栽。 2/23/2003/SUN一度書いた後半は蛇足に思われて削除した。いずれ接木するかもしれない。 2/25/2003/TUE京都泊。日刊ゲンダイの書評欄より。 奇妙な論理Ⅰ、マーティン・ガードナー、市場泰男訳、早川書房、出版年なし 「高名な科学者たちの理論に便乗して、知識に乏しい一般大衆にセンセーショナルな発見を伝える『疑似科学』」の特徴。 1. 自称天才 こういう人なら、社会科学や人文科学にも掃いて捨てるほどいる。 実験データや数式で表せないだけに、社会・人文科学は本質的に「疑似科学」となる傾向があるのかもしれない。自分の思考方法や文章を省みても、いずれの指摘も当てはまらないとは言い切れない。 それでは「疑似科学」でない、いわゆる「科学的な」人文・社会科学は「疑似科学」の特徴を裏返せばいいのだろうか。試してみる。 1. 自分を天才だと思わない なるほど、このような心構えでいれば、完璧ではないとしても、高圧的でなく嫌味でもない文章は書けるかもしれない。ただし、そういう文章が人の心を動かすとは限らない。人文・社会科学は客観的な科学性だけでなく、熱意や芸術性をも求められるから。 熱意や芸術性は、否定的に見える「疑似科学」の特徴、つまり人間性の弱い面から生まれることが少なくない。とくに社会思想は「世の中、間違っている。周りの連中はどうしてそれに気づかないのだろう」という苛立ちからしか生まれてこないように思われる。実際、歴史に残る思想家は「疑似科学」がもつ特徴のいずれかがあてはまる人が少なくない。 その意味で「疑似科学」と思想は紙一重。いや、人文、社会科学においては、両者は表裏一体であって、読み手の受け止め方によって変わるものなのかもしれない。そこが人文、社会科学の面白さでもあり、危うさでもある。 名文と言われる文章を無批判に読む訓練だけではなく、トンデモ本を読んで、どこで論理が破綻しているのか、どこで「知識のない一般大衆」をペテンにかけようとしているのか、仕掛けられた罠を見つける訓練も必要ではないか。 名文を書いた筆者さえ気づかないうちに罠を仕掛けて、罠にはまっているかもしれないのだから。 ☆
さくいん:日刊ゲンダイ 2/26/2003/WED森有正の新書と鼎談についての書評「生きることと考えること、いかに生きるか」「鼎談 現代のアレオパゴス 森有正とキリスト教」を植栽。 2/27/2003/THUわたしのきもちをきいて Ⅰ.家出(Je voudrais qu'on m'écoute)、Gabrielle Vincernt、もりひさし訳、BL出版、1998わたしのきもちをきいて Ⅱ.手紙(Je voudrais qu'on m'écoute, tome 2: mon jardin perdu)、Gabrielle Vincernt、もりひさし訳、BL出版、1998熱気球(La Montgolfière)、Gabrielle Vincernt、もりひさし訳、BL出版、1998これまで引用方法、段落などが統一されていなかった。思いつくまま庭掃除。 2/28/2003/FRI書評「森有正 感覚がめざすもの」を植栽。 |
碧岡烏兎 |