国家、社会、会社、そして民主主義


初めに断り書き。以下の文章に結論はない。思索以前に浮かんでくる疑問を書き流してみる。

以前、「新しい戦争について」という文章で次のように書いた

自由社会、民主主義社会では思想、信条の自由が保障されることになっている。現在の政治体制を否定する思想をもつことすら、法的には許されている。では社会そのものを否定する思想を持つことは許されるのだろうか。社会契約説を論じた思想家の一人、ルソーはこの問いに対して否と答えた
『社会契約論』の最終章「市民宗教」のなかで、彼は市民一人一人に社会の存在、存続に意義を唱えないという宣誓を求める。この宣誓をしない者は社会から追放されるのである。ここで社会を国家や共同体など任意の団体と考えると、ルソーは国家への全人格的な従属を求めた全体主義者だという結論になるが、社会をあくまで一般的な意味での人間社会だととらえると議論は微妙に変わってくる。
人間社会を否定する者は追放されるべきなのだろうか、それともその思想の自由までも保障されるべきなのだろうか。

引用文が含意するのは、「人間は社会的な動物である」と前提するならば、反社会的な行動や思想は許されないということ。ただし、右の文では「一般的な意味での社会」と断りをいれている。ここで「一般的」とは、理念上という意味でもある。

現実の社会については別に考えなければならない。そこで現実の社会を前提にすると、私の考え方には即座に二つの疑問が差し込まれる。反社会的であるかどうかは誰がどのように判断するのかという疑問と、反社会的であることは悪であるとしても、非社会的であることはどうか、という疑問。

まずはじめに、非社会的であることについて。非社会的であるとはどういうことか、という問いは、社会的であるとはどういうことか、という質問でもある。社会に貢献することが社会的であるとするならば、貢献とは何か、貢献できない人間はどうなるのか、と問題は広がる。

それでは反社会的でない限り、つまり社会を否定しない限り、社会内に存在さえすれば社会を了承したことになり、社会からも個人として認知される資格を得ると考えてよいだろうか。これでは社会を了解するということが、反社会的でないことということになり、自己撞着となる。つまり、反社会的であることを定義しなければ、非社会的であることを定義することはできない。

そこで反社会的であることについて。反社会的かどうかの判別は、通常国家が下している。当然ここではその判断の正当性、ひいては判断を下す国家の正統性が問題になる。最近でも指定暴力団組長に対する不当逮捕が問題となっていると聞いた。また地下鉄サリン事件を起こした宗教団体の場合でも、残された信者がもつ信仰の自由といわゆる公共の福祉の相克は簡単には解けない。

こうした問題は、社会と国家が囲う範囲が微妙にずれていることから生じる。もし社会と国家の範囲が一致していて、人々はその中で一生を過ごすというのであれば、理論的には問題は解決する。その場合、国家に従わない人は生きていけない。社会を承認することが、国家に服従することを意味する。

言うまでもなく現実の世界は、とりわけ小さくなった二十一世紀の世界では国家と社会は一致していない。人々は複数の社会に関わって生きている。しかも奇妙なことに自分が日常属している社会が、自分の生活にもっとも影響力をもっているわけではない。自分の属さない社会が自分の生存を決めることすらある。

合衆国の政治力、経済力、軍事力がこれだけ強大になると自国の政策より、合衆国の政策によって生活が一変する可能性が高い人もでてくる。今、イラク国民にとっては、合衆国がどう出るかがまさに生死を決めることになる。合衆国政府はもちろん、イラク政府がどう対処するかによると言っているが、最終的に事がどう進むかは、合衆国政府がどう動くかによる。

ところが、生殺与奪の最終決定が預けられているにもかかわらず、イラク国民に合衆国大統領を選ぶ権利は一切ない。当たり前と言えば、当たり前。しかし、当たり前と切り捨てていいものだろうか。

非常に素朴に過ぎると承知した上で言えば、民主主義とは自分に関わりのあることに意見を述べ、決定にささやかであっても参加できると仕組み。この素朴に過ぎる定義に従うと、今のイラク国民の置かれた状態はやはり奇妙であり、まったく不合理な立場に置かれている。

不合理なのは武力行使を受けそうな国の国民だけではない。つねづね不思議に思うのは、一国の首長は選挙で選ばれることが当然と思われているのに、世界の大半の国家より巨額の資産をもち、それだけ影響力も強大な私企業の経営者はまず選挙では選ばれないこと。

ある経営学の専門書を読んで、政治学的な国家中心のものの見方がなじんだ身にはコペルニクス的転回とも言えるほどの衝撃を受けたことがある。それまでは、多元主義社会であっても国家はもっとも有力な機関であり、企業その他の団体は国家に従属すると考えていた。

ところが経営学の最先端では国家は企業に選ばれる器に過ぎない。企業は優遇されれば投資もするし拠点もすえるが、政策が有益でないと判断されれば、開発部門から製造工場までさっさと引き払う。さらに業績が悪化すれば、政策とは関係なく、販売拠点やアフターサービス部門まで撤退することは、最近の日本国でもパソコン・メーカーや証券会社で例をみた。

もちろん、農業や金融、出版、教育など地域に根ざした産業は、国の政策が気に入らないからといっても、本拠地を移動させることはおいそれとはできない。ここで注目したいのは、ある種の企業は国家よりも巨大な組織と影響力をもっているにも関わらず、その施策は民主的に選択されているわけではないということ。

そうした企業の行動は、政府の規制や投資家の行動、自由主義社会にあっては何より消費者の購買行動によって規制されていると言うこともできる。悪徳企業に対する不買運動は何よりの制裁になる。そうだとしても、政府機関の長は選挙で選ばれて、企業の長は世襲や内部の秘密会議で決められる理由にはならない。

各国首脳は地球全体に関わる環境問題を国際会議で話し合い、各国で規制を設けている。国家政府にできるのはここまでで。実際に規制に合わせて製品を作ったり、有害物を出さない製品をつくったり責任は各企業に委ねられる。そこで姑息な多国籍企業は各国の事情に合わせて工場や製品の仕様を変える。労働条件では明らかにそうした悪意に満ちた差別化が行われている。

民主化というと、普通選挙が行われることばかり言われる。多国籍企業にとっては一部門の交際費にすら満たない国家予算を計上する国家の首長を選挙で選ぶことで、民主的な生活が始まると言えるのだろうか。暴君は去り、政府の悪口も自由に言えるようにはなるかもしれない。

しかし、そうした国で人々は引き続いて、あるいはさらに自発的に牢へ入るように、規制に抵触しない程度の廃棄物を排出する工場へ向かい、自分では決められない賃金で働き、必要でないかもしれない製品を買わされているのではないだろうか。

途上国や専制国家からわが身に目を転じる。選挙権はある。信仰の自由がある。良心の自由もあれば表現の自由もある。それでも、日常生活を見回して何が自分の知っているところで決められ、何が自分の知らないところで決められているかを考えてみるだけでも、いったい民主的な生活とは何なのか、わからなくなってくる。


碧岡烏兎