「新しい戦争」について


2001年9月11日の出来事について、当初は「新しい戦争」という言い方がさかんにされた。しかし、時間がたつにつれ事態は「古い戦争」に近づいているように思えてならない。さらにもう少し考えを進めると、当初はあまりの衝撃にとまどっていたが、本質的な「新しさ」はほとんどなかったのではないかとさえ、思われてくる。

確かに新しい一面はあった。大都市の中枢が、たった数人によって一撃され崩壊した。これは戦術面、技術面での新しさ。また、原因が超大国と、国家ではない、すなわち領土や国民という実体をもたないネットワーク的な組織との対立にあったという点でも、政治現象としての新しさがあった。

ところが、合衆国が事件後とった政策は、領土と国民をもつ実体的な国家への攻撃だった。国力は象とアリほど違うとはいえ、国家間戦争という意味で、「新しい戦争」はただの戦争になった。そして今や、理由をこじつけ以前から対立している国家に武力行使をしようとしている。タリバンやアルカイダという非国家的な組織やネットワークは、いつの間にかアフガニスタンの国土やイラクの政府・大統領にすりかえられている。


犯罪と比較してみると、戦争は政治的交渉相手の存在を前提にしていることがわかる。つまり、相手を交渉者と認定するからこそ、戦争は政治的行為としてなりたつ。だからこそ、戦争には一定のルールがあり、武力衝突に限らない水面下の交渉、妥協もあり、終戦時には「条約」が締結される。

政治的交渉が成り立つもうひとつの要件は、政治的目的。自分たちの信条に基づく国家の建設とか、領土の拡大とか、異なる立場からは理不尽かもしれないとしても、ともかく戦争には政治的目的がある。目的がそれぞれにあり、また違っているからこそ、衝突、交渉、妥協がありうる。政治目的を達成するための一手段という意味ではテロリズムですら、暴力的な政治行為と呼ぶこともできる。

政治的交渉の延長としての戦争には解決の可能性がある。最終的な妥協点にたどり着くまでには、多くの人命が犠牲になることが常で、それをよしとするつもりはないけれども、政治的妥協の可能性が残されているという一点において、戦争はやはり政治的交渉の延長にあるといえる。

そして今回の場合も、公式、非公式にさまざまな交渉が行われているときく。この点においても事態は伝統的な戦争へと変化してきているようにみえる。


「新しい戦争」というと、2001年の9・11ではなく、1995年に東京で起きた地下鉄サリン事件を思い起こさずにいられない。サリンを製造、散布した団体に、明確な政治的目的があったのか、本当のところはわからない。当時、彼らは政府にはっきりした要求をしたわけではないし、事件後も、要求どおりにしなければ第二の事件を起こすという脅迫も、犯人を差し出す代わりに団体の存続を要求するという交渉もなかった。こういうことから、殺戮だけが目的だったのではないかとさえ思われてくる。

政治的目的のない暴力行為。これほど恐ろしいものはない。恐ろしいのは、交渉や妥協する余地がまったくないから。社会を変えたいという人とは交渉ができるし、革命や戦争という悲惨なものかもしれないが、何らかの結果が生み出されるだろう。この国を社会主義にしたい、独裁国家にしたい、別の国に吸収させたいなどの主張は、社会の存続を前提にしており、妥協あるいは政治的決着の可能性がないわけではない。

しかし、社会をなくしたい、ここにいる人々を消滅させたいと願うような人とのあいだには、社会の存続を前提にした一切の交渉が成り立たない。地下鉄サリン事件は、国家や政府というより社会のなりたち、言ってみれば社会契約に対する根源的な挑戦だと感じたのはこうした理由による。


自由社会、民主主義社会では思想、信条の自由が保障されることになっている。現在の政治体制を否定する思想をもつことすら、法的には許されている。では社会そのものを否定する思想を持つことは許されるのだろうか。社会契約説を論じた思想家の一人、ルソーはこの問いに対して否と答えた。

『社会契約論』の最終章「市民宗教」のなかで、彼は市民一人一人に社会の存在、存続に意義を唱えないという宣誓を求める。この宣誓をしない者は社会から追放される。ここで社会を国家のような政治体と考えると、ルソーは国家への全人格的な従属を求めた全体主義者だという結論になるが、社会をあくまで一般的な意味での人間社会ととらえると議論は微妙に変わってくる。

人間社会を否定する者は追放されるべきなのだろうか、それとも、そのような思想の自由までも保障されるべきなのだろうか。

合衆国はテロ事件を犯罪ではなく、戦争とみなし、首謀者を匿ったと思われる国家に報復攻撃した。一方で、日本国政府はサリン事件を日本国に対する戦争とはとらえず、犯罪とみなした。合衆国の攻撃では、多数の民間人が殺され、日本国の裁判はまだ一審すら結審せず、被害者への救済もままならない。

皮肉なことに、相手を同等な交渉者と認定した「戦争」は苛烈をきわめ、被疑者の人権保護にもとづいた「犯罪」の捜査と審判は緩慢に進む。どちらがより深刻ということではない。古い戦争も新しい戦争も続いている。どちらも決着がついていない。法においても、政治においても、そして理論と精神、すなわち思想の領域においても。


碧岡烏兎