世界市民と現代――ルソー政治思想の一面


ルソーの平和思想は超国家的な権威を否定するものであるが、それゆえに国家を相対化する視点に欠けているから、消極的な平和思想であるとの批判がなされる。しかしルソーの国家論は、民衆を「市民」に育て、そのまま共和国を絶対的な価値にとどまらせておくものではなかった。

理想的な共和国完成した後、市民はその小さな社会になぞらえて、さらに大きな社会を考察することができるようになるのであった。すなわち民衆は「市民」となった後、必然的に「人間」へと変っていくのである。

この「市民」以後の段階に、ルソーにおいて隠された、ある意味ではより重要な、平和思想をみることができる。「人間」あるいは「真の世界市民」、あるいは「都会の自然人」は、共和国の絶対性を否定する、というより、ルソーにおいて国家が絶対的なのではなく、各市民が抱く特殊意思が普遍化した一般意思が絶対的なのであるから、正確には人間の生きる単位としての「市民」を否定する。

自然人は自分がすべてである。かれは単位となる数であり、絶対的な整数であって、自分にたいして、あるいは自分と同等のものにたいして関係をもつだけである。(『エミール』第一編)

エミールはあらゆる人間を愛することができる人間であるが、彼は見たこともない「人類」にただ愛を表明するのではない。身近な関係にあるすべての人に、目に見える実践として愛情を注ぐ。「市民」という段階を経た、いわば「真の世界市民」も、同様にすべての身近な人――地理的であれ、心理的であれ――に寛容になることができる。

こうして「祖国愛」のもっていた排他性は、それによって創られた「市民」の完成によって超克されるから、これにより共和国の拡大傾向はほとんど無に近い値にまで抑えることができる。なぜならそのとき国家は正義の基準ではなく、単に感情を圧縮するための手段に過ぎなくなるからである。


超国家的権威による平和を国家の外からの相対化とするならば、ルソーにおける「市民」の成長による平和の実現は、国家の内からの相対化と言えるだろう。そしてこれは同時に、あらゆる権威の相対化、すなわちの主体の確立でもある。

共和国が建設されるとき、正義の基準となるのは「祖国愛」であり、理想共和国においては、一般意思であった。その共和国が生きる場にすぎないとき、すなわち「人間」にとって正義の基準となるのは、発達した理性に支えられた自己の良心である。

良心こそ人間のほんとうの案内者である。魂にたいして良心は、肉体にたいして本能と同じようなものなのだ。良心に従う者は自然に従い、けっして道に迷う心配はない。(『エミール』第四編)

正義の基準となるのは、人類の一般意思ではなく、自分自身である。そのために彼は自らの特殊意思を凝集し、感情を圧縮することを学んだのである。もう一度確認しておくが、「市民」は一般意思という別の存在に、自己を譲渡するのではない。彼は特殊意思を、自らのなかで一般化するのである。それだからこそ彼は「市民」となったのち、同胞以外の人間にもその愛情を広げることができるようになるのである。

人間の主体化によるあらゆる制度、権威の相対化。これによって単に国家間の武力紛争がないということではなく、一人一人の人間にとっての平和が実現されるのである。そして今日、このような平和思想こそが、超国家的権威による、いわば上からの「永久平和」に代わって求められているのではないだろうか。


今日平和とは、単に戦闘状態の終結を意味しないのは、多くの論者の一致するところである。個人の人格の尊厳が確立され、個人が平和的に生きられるようにならなければ、平和とは言えないのである。そのような人間的な意味での平和は、国家という既成の制度を、規模と力でさらに上回るような制度によってもたらされうるものだろうか。

第二次大戦後、不完全ではあるが世界のほとんどの国家の参加による国家連合、国際連合が設立された。それは核爆弾までもが投ぜられた全面戦争とその勃発を許した国際連盟への反省から、まさに超国家的権威により、制度として戦争防止と平和実現を目的としていた。しかし国際連合によってもたらされた平和とは、結局、国家間の武力紛争がないという意味での平和でしかなく、それぞれの国家内で個人の権利を蹂躙する圧政が行われていても有効な手立てを打てないでいる。今日、国際社会にあって人権がもっとも重要な価値とされるのは、こういった経緯によるのである。

このように考えると、現代の思潮はカント的な平和思想、国際法、国際機構による平和だけでなく、ルソー的、つまり人間論的な平和観の重要性が増していると言うべきだろう。ところで筆者が思うに、理性の有効性とその限界を厳密に検証したカントであれば、個人の主体化を通じた政治権威の相対化による平和実現という ルソー思想をさらに発展させることができたのではないだろうか。


そのカントをして、制度的な平和実現を求めさせたのは、目前の戦争状態をいち早く終結させたいという切なる願いであっただろう。それはまた、大戦後の国際連合や世界連邦運動にこめられた願いでもあった。しかし東西冷戦の終結が宣言され、またその代わりというわけではないが、暴力がこれまでのような武力としてではなく、経済進出や人権蹂躙という潜伏した形で表出される現代において、平和は制度的な意味から、より人間的なそれへと転換されなければならないことは、もはや多言を要さないだろう。

そして、これまで国民を創り続けてきた国民国家は、その巨大さゆえに国民に対する拘束力を著しく減退させているし、さらに今世紀における技術革新の波は、国境をほとんど地図の上だけの線にしてしまっている。言ってみれば、現代人は強制的に「世界市民」的に生きるべき境遇に追い込まれているのである。

排他的、犠牲的な国民国家が衰退する一方で、自分の良心だけに従うというのではないが、国家以外の、しかも複数の団体を舞台として生きるように現代人はなってきている。このような生きる舞台の多様化によって、現代人はこれまで国家だけに預けていた帰属意識を自分の選んだ複数の団体にもつようになり、それぞれの団体が潜在させている排他性を抑制することに役立っている。

またルソーは「世界市民」が感情を圧縮して生きる場として共和国だけを示したが、現代人にとって何らかの形で現実にはたらきかけを行う機会は、もはや選挙の投票だけではない。さまざまな市民運動、NGOの活動など、参加者の主体性に基づいて感情を活動に変換する圧縮装置は、ときに国際社会を動かす影響力をも持ちはじめている。さらに激しい人口の移動は、隣人が必ずしも同国人ではない状況をつくりだしており、まさに「一緒に暮らしている人々にたいして親切にすること」(『エミール』第一編)が求められているのである。


このように時代は『社会契約論』の「市民」以上のエミール的な「人間」を求めているのだが、それは私たち現代人が「市民」の段階を合格点で修了したということを、必ずしも意味しない。なぜなら私たちは現代人は、ルソーが想定した「世界市民」創造の過程ーー民族的制度による基づく都市国家の立法、「祖国愛」を原動力とした共和国建設と「市民」の育成、そして市民宗教の強制による寛容の獲得という過程ーーをたどって「世界市民」となったのではないし、かといってエミールのように、生まれたときからあるべき環境のもとで、人類愛を備えた賢者として育てられてきたわけではないからである。しかも人間が政体によって創り出される客体である基本的な構造は現代も変っていないにもかかわらず、その政体は自然発生的な民族的制度とは遠くかけ離れた、巨大な国民国家である。

したがって、このような状況において「世界市民」としての現代人は、誰でも利己心を人類愛にまで広げることができるというわけではないし、ましてやそうでなければならないなどと義務づけたり、それができるはずと声高に宣言したりしたところで、何の効果もない。


それでも私たちは、ここからはじめなければならない。「ここ」とは、今、私たちが立っている場所であり、かつてルソーが思索のはじめに立った場所である。

しかし、たとえ人間たちのあいだに自然的で一般的な社会がないとしても、人間は、社会的になることによって、不幸で邪悪になるとしても、また自然状態の自由のうちに生き、しかも同時に社会状態の要求に従って生きる人々にとっては、正義と平等の法はなきに等しいとしても、それでもなお、われわれには徳も幸福もなく、神は人類の堕落に備える方策もなしにわれわれを見捨てたとは考えないで、悪そのもののなかからそれを癒すべき薬をひきだすよう努力しよう。(『社会契約論』(ジュネーヴ草稿))

ルソーにとって、永遠なものは何もないし、絶対なものも何もない。あるとすれば、それは神だけである。永久平和などという絶対的な幸福は、卑小な人間にはふさわしくないのである。けれども、ちっぽけな人間だからこそ、人間としての悲しみと同時に、喜びも感じられるのである。

わたしたちの心に人間愛を感じさせるのは共通のみじめさなのだ。人間でなかったらわたしたちは人間愛など感じる必要はまったくないのだ。愛着はすべて足りないものがある証拠だ。わたしたちひとりひとりがほかの人間をぜんぜん必要としないなら、ほかの人間といっしょになろうなどとはだれも考えはしまい。こうしてわたしたちの弱さそのものから、わたしたちのはかない幸福が生まれてくる。(『エミール』第四編)

ルソーの作品を読んでいると、意識革命を訴える力強い語調とともに、その底辺に流れるペシミスティックな旋律に気づかないではいられない。人間は堕落してしまっている。まだ堕落してしない者は助けられるが、堕落してしまった者はもう救えない、そういった響きがいつもつきまとう。こうしたルソーのペシミズムは批判されなければならないだろう。

だがその批判は、人間なら何でもできるといった傲慢さや、永遠なものに挑戦する野心的な叫び声によってなされるべきではない。もとよりそのような大声を出せる人間などいない。「ありうべき人間」などどこにもいないのである。ルソーを批判し、ルソー以後の時代を創るのは、かぼそく弱々しい声たちが集まり、それらの声がとどろくほどに歌い上げる大合唱によってなのである。

1991年1月

注記
『エミール』の訳は、岩波文庫版(今野一雄訳)による。『社会契約論』(「ジュネーヴ草稿」)の訳は、白水社版全集(作田啓一訳)による。


碧岡烏兎