国を愛するということ:愛国主義の限界をめぐる論争(For Love of Country? (New Democracy Forum, 1996)、Martha Nusbaum、辰巳伸知・能川元一訳、人文書院、2000


国を愛するということ

世界市民精神(コスモポリタニズム)が必要な時代であることは否定しない。現代は、コスモポリタニズムが必要なだけでなく、それを発揮することが可能な時代でもある。個人を地球的規模の問題に直接さらす環境破壊、ファストフードに代表される世界を覆う単一文化と、個人が自国政府を超えた政策に直接参画することも可能にするような交通機関やインターネットの発達は表裏一体のもの。

こうした状況認識については、本書の論者も一致するところだし、私も否定はしない。そこで、このところの読書にひきつけると、どのようにして世界市民精神をもった個人が成り立つか、育てられるかということが問題になる。

ヌスバウムは、ルソーについて世界市民精神を一方的に擁護する思想家として引用しているけれど、ルソーにはコスモポリタニズムを批判する一面もある。たとえば、『エミール』第一編では「著書のなかでは遠国の人に対する義務を説きながら、同じ義務を身のまわりにいる人に対して果たすのを軽蔑するような世界主義者を警戒するがいい」という文章がある。

ただし、ルソーのコスモポリタニズム批判は、隣人の苦しみを涼しげに眺めながら訳知り顔で人類愛を唱える哲学者に向けられているのであり、コスモポリタニズム自体がありえない妄想とは考えていない。


私の理解では、ルソーは二つの仮説的な方法で世界市民精神は育成できると考えていた。一つは理想的な民主主義国家を通じて、もう一つは理想的な家庭教育を通じて。前者は『社会契約論』、後者は『エミール』で詳しく論じられている。

『社会契約論』での議論を乱暴に一言にまとめてしまうと、「学校としての民主主義」となるだろう。理想的な国家に生きることで、最初は全面的に国家への忠誠を要請されるものの、やがて市民は自分を育てた国家に対する忠誠、すなわち愛国心をも内面的に相対化させて、普遍的な理念、すなわち世界市民精神を獲得する。

『エミール』は、より単純な構成。理想的な教師によって無垢なエミールははじめから世界市民として育てられる。しかし、世界国家がない以上、世界市民が世界市民として生きることができる場はない。そこでエミールは諸国を旅して見聞を広めた後、母国へ帰り、有徳な一市民として生きることを決意する。

いずれも理論的な試み、つまりフィクションによる理想の構築であって、現実に直接反映できる処方箋として書かれたのではないということを忘れてはならない。理想的な国家はどこにもないし、理想的な教育環境もどこにもない。ルソーは理想の国家建設、人間教育を描く、いわゆるユートピアの手法をとって、現実の矛盾、問題を暴き出したと考えるべきだろう。


現実に立ち返って考えてみると、問題は一層はっきりする。私たちは理想的な国家に生まれ育ったわけでもないし、理想的な教師によって育てられてきたのでもない。しかも21世紀においては、個人は何の準備もなく、いきなりグローバリズムのただなかへ放り込まれる。そういう状態で世界市民精神をどのようにして持ちうるのか。

交通機関、情報技術の最先端では確かに世界は小さい。その最先端に触れられる人はごくわずかで、裕福な人たちだけ。多くの人たちは、そこがグローバリズムに汚染されたところだとも知らずに、広い世界の片隅で狭い自分の世界でまだまだ生きている。多くの人々は世界市民精神が必要な時代であることも知らされずに、それを育成する機会も与えられず、多国籍企業製品の無邪気な消費者とさせられる一方、外国人排斥のような偏狭なナショナリズムの担い手とさせられてしまっている。

裕福な世界を小さく感じることのできる人たちは、世界市民精神を持つことができるだろうるし、持たなければいけない。ヌスバウムにならって私もそう思う。しかし、例えばビル・ゲイツが数億ドルを貧しい人々のために使ったとして、それを世界市民精神的な行動といえるだろうか。あるいは、涙を流しながらワイド・ショーを見てニューヨークへと義捐金を送る人々は、世界市民的といえるだろうか。

富豪の売名行為だ、小市民的な自己満足だと非難することはたやすいが、では、どれだけの収入の人がどれだけの寄付をすれば、世界市民精神的な行為といえるのか。どこまで日常の仕事を休んで、あるいは、日常の生活基盤を越えて活動すれば、世界市民主義的といえるのだろうか。


結局、私は、よほどの啓示でもない限り、今の生活水準を極端に落とすことはしようとしないし、自国の法や体制を越える行為まではできないだろう。ヌスバウムも、世界市民精神とは、わが子の養育より遠い国の子どもの養育を優先させるようなことではないと述べている。

とすれば、到達可能なのは一般的な世界市民精神ではなく、合衆国国民にとっての世界市民精神、日本国民にとっての世界市民精神というようなものにならざるをえないのではないか。いや、実際には、世界市民精神はもっと細かく複雑な要素から成り立つはず。

例えば、農村で生まれ、今も農業に従事しながら子どもを育てている男性にとっての世界市民精神とか、都会で生まれて大学を出て企業で働く独身の女性にとっての世界市民精神とか。要するに世界市民精神とはどこかにあるものではなく、まして教えられるものではなく、一人一人が、自分自身の置かれた状況のなかで見出だしていくものではないだろうか。

「われわれはコスモポリタンであると同時に愛国者であるという以外に選択の余地がない」というチャールズ・テイラーの主張や、「現存する不平等を打破し、より民主的な平等主義的な世界をつくる助けとなるような勢力を支援すること」というウォーラーステインの意見は、こうした文脈でならば首肯する。


要するに、世界市民精神といっても、その姿は個人の生き方と同じ数だけの変奏がありうる。さまざまな出自、教育の履歴、職業、家族構成を持つ人々がもつ世界市民の精神に共通するもの、それは、「共通の必要や傷つきやすさへの子どもの頃の意識」とヌスバウムが呼ぶものに萌芽をもつのだろう。

老人に席を譲る人もいない満員電車でつぶされながら、それでも心のどこかで高い精神が芽生えていくのだと想像してみる。実際、今目の前にいる人が自分と同じ国籍をもっているとはまったくもって限らない。

目の前で困っている人を助けることは当然として、その積み重ねが深遠な世界市民精神につながっていくに違いないという信念をどうかしてもてないものだろうか。同じ席を譲るだけの行為でも、心の底では、はるかかなたにある、いや、きっと私の心の奥底にあるだろう世界市民精神をほのかにでも描いていたい。


さくいん:マーサ・ヌスバウムジャン・ジャック・ルソーアメリカ合衆国


碧岡烏兎