時刻のなかの肖像、辻邦生、新潮社、1991

海峡の霧、辻邦生、新潮社、2001


辻邦生の名前を初めて知ったのは、光村版の中学教科書に掲載されていた「夏の海の色」。そのあとずっと時を隔てて、彼の絶筆となった日経新聞連載の「後の思いに」はずっと読んでいた。よどみなく流れる文章に魅かれたけれども、小説はなかなか手が出せずにいたところ、図書館で随筆集が目にとまった。

『時刻のなかの肖像』を読んだあと、簡単な感想すら書けなかった。言葉が何も思い浮かばないほど、透明な気持ち読んでいたから。言葉はさらさらと流れ込んでくる。それはすべて作家の言葉のままで、自分の言葉で置き換えることがまったくできない。小林秀雄のいう無言の感動とは、こういうものではないだろうか。

辻の文章は透明で清らか。気負ったところもなければ、自分を過度に卑下するようなところもない。心から書くことを楽しんでいることが伝わってくる。それでいて行間に何か激しいもの、葛藤や苦悩のあとがうっすらと感じられてくる。『肖像』ではそれが何に由来しているのか、わからなかった。


『海峡の霧』に収められた一連の随筆を読み、彼の文章がもつ透明性と奥底を流れる激しいものが少しわかった気がした。彼の随筆、とりわけ晩年に書いたものには友人の死を悼む文章が非常に多い。そのどれもが故人への尊敬と愛情があふれた美しい文章でつづられている。

たとえば開高健について書かれた「お喋りという贈りもの」は、可笑しくてたまらないし涙も止まらない。幼少のときに亡くした兄について書かれた「西片町と兄のこと」を読み、彼の文学は死者を悼む気持ちに支えられていることがわかった。

辻にとって、自分の文学を求めて彷徨した青年時代とパリでの生活が決定的な契機となっていることは、辻文学に親しんだ人にとってはあらためて言うまでもないことだろう。辻の自伝的な小説や随筆では繰り返される主題。今回、「ギリシアの旅のあとで」を読み、感動した部分だけを書き写しておこうとしたところ、結局、全文転記することになった。文章が切れ目もなく続いている。辻邦生には印象的な文だけを集めた名句集のようなものがでているらしいけど、辻の魅力は文を区切ってはなかなか味わえない。辻邦生は、どこまでも散文家。

パリで辻が体得した精神の特質を私なりに言い表そうとすれば、フランス思想的な唯我主義と合理主義、それに日本文化から抜け出そうとする世界市民精神となる。別な言葉で言えば、辻が彷徨の末にたどりついた感覚は、世界は内にあり、ということ。世界が自分を取り巻いているのではなく、自分が世界を包んでいる、自分自身の内面に世界が構築されているという考え方。

こうした考え方は非常に唯我論的で、フランスの文学、思想に特徴的な考え方といえる。辻自身が愛読し、またしばしば引用するデカルト、ルソープルーストなどには、いずれもこうした唯我主義的傾向が見られる。

合理主義という観点では、辻も指摘するようにフランスの合理主義は観念的なものではなく、生活感覚に基づいたより実践的な感覚。生活者の合理主義と呼ぶこともできるかもしれない。生活者とは現実に向かい合う者という意味であり、また職業をもつ者という意味でもある。

辻の文学は空想的だけれど、それは作者自身が浮世離れしていたことを意味しない。むしろ、辻は父親の経営する会社の浮き沈みを見たり、会社員生活を経験したり、あるいは作家として一人立ちしたあとも職業として大学教員を続け、生活者、職業人という意識を文学者、表現者、芸術家という意識とともにつねに持ち合わせていた。

これら二つの要素が組み合わされ、生活者にとっての「私の世界」の上に築き上げられるのが辻文学。それは、どんなに幻想的な世界を作り出しても、それを作り出している作者の生活感と現実感に支えられている。だから、空想の世界は自由にはばたき、踊ることができる。


もう一つ、辻文学を考える上で世界市民精神を見逃すことはできない。生れた国に後ろ髪を引かれながらも、彼は日本の外へ世界を広げ続けた。辻は森有正について何度も書いている。とりわけ森が日本への郷愁を抱きながら、異国の地で苦しみ、そして考え抜いた態度について書いている。

森にとって日本以外でなければ学べないものなど何もなかった(「バビロンのほとりで」『森有正エッセー集成1』)。それでも森はパリへ行った。そして、そこに留まり考え続けた。

森の問題意識を受け継いだ辻は、同じように郷愁に苦しみながらも、より積極的に国外脱出を受け止めることができた。なぜなら、彼はギリシアからパリへの彷徨で文学と美の感覚を獲得したから。

だから彼の文学は初めから和魂洋才のような並存した観念や、使い分ける技術ではなく、彼が触れた日本やヨーロッパの芸術が栄養となり開花した、統合的な混合精神だった。彼はそうした精神を世界市民精神という無粋な言葉ではなく、「世界文化混淆」と呼び、アレクサンドリアとルビをふる。この概念と名称に、辻文学の真髄が表されているように思われてならない。


辻邦生の文学には、さらにもう一つ忘れてはならない推進力がある。それは妻の存在。あるときはただAと冷静に呼び捨てられ、あるときは「うさぎちゃん」と愛情を込めて呼ばれる彼女の存在は、現実世界に生きる者という自覚の最深部にあった。同時に文学という創作世界が広がり出す風船の吹き口のような存在でもあったに違いない。

私が辻邦生の文章に感動して止まないのは、こうして書いてみたことがらが何一つ言葉には書かれておらず、それでいて噛みしめて読むうちにじっくりとしみこんでくるから。そして彼が一人の作家である前に一人の生活者であり、何より一人の愛される人間であったから。

私が文学者、辻邦生を尊敬して止まないのは、そういう理由による。


碧岡烏兎