プルースト評論選Ⅰ 文学篇、Marchel Proust、保刈瑞穂訳、ちくま文庫、2002


ふと手にとった週刊文春のなかで、坪内祐三による文庫評で、引用されていた一文が気になった。

価値の階梯のなかで、知性が占めるのは第二の地位にすぎないとしても、第一位を占めるのは本能だと宣言できるのも、ただ知性だけなのである。

こういうことを言葉で言える芸術家とは、どういう人だろう。感性――引用文で言えば本能ーーの噴出こそ芸術と思いがちだけれども、そうではない。感性を表現する技術が伴わなければならないといっている。辻邦生の随筆で読んだ、マラルメがドゥガに言ったとされる「詩は感情で書くのではない、言葉で書くものだ」という表現も同じことを言っているのだろう。


冒頭の引用文を含む「サント・ブーヴに反論する」では、後に大作『失われたときを求めて』に結実する方法論、素描的な文章などが見られる。書評でも書かれているように「反論する」を読んでいると、文学史上に輝く大著が読みたくなってくる。同時に、読まなくてもいいような気もしてくる。

読まなくてもいいというのは、プルーストの「無意識の記憶」という方法論は、これでよくわかったから。ふとしたきっかけから忘れていた記憶が鮮やかに蘇る経験は私にもある。これまでは、ただ懐かしさにまかせて過ぎ去っていたひとときを、言葉で表現すれば、私の過去はより豊かなものになり、ひいては私の現在もより美しいものになるだろう。

さらに私は、過去を意識的に訪ねる方法も知っている。写真や音楽、料理、そうした思い出をたどり、過去を再構築することは、けっして過去に埋没することではなく、現在の私の再構築になるはず。

もしこれから先、大長編小説『失われたときを求めて』を読むことがあるとすれば、それはプルーストの記憶に同行するためではない。彼がどのように自分の「無意識の記憶」を再構築しているのか、そしてそれをどんな言葉でどのように表現しているのか、その文学的世界に沈潜したいから。


プルーストの文章から察すると、サント・ブーヴの方法とは、作家が残す文章はもちろん、生い立ちや友人の証言から作家が書こうとした意味を探ろうという実証的な批評。この方法では、どんなに詳細にどんなに精緻に調査、研究をしてみたところで作家の本意はわからないだろう。作家がほんとうに書きたいことは、行動や書かれた文章にすら、表われてはいない、と私も思う。

印象派の画家、ルノワールが川辺に立ち絵を描いているのを覗き込んだ人が、キャンバスに海が描かれていたので驚いた、という話を聞いたことがある。ルノワールは川を描いていたのか、海を描いていたのか。サント・ブーヴならそのような問いを立てて悩むのだろう。

私は、印象派の巨匠はやはり川を描いたのではないかと思う。川を見ながら、海を描き、心の中に川を描いていたのだと思う。もっともこれは推測に過ぎない。彼は、海を描いて、空を想い描いていたのかもしれない。要するに、画家が心に何を描いたかは、どうでもいいことのように私には思われる。


プルーストは、マドレーヌをきっかけに過ぎ去りし夏の日を思い出し、小説を書いたことになっている。しかし、彼が夏の日を描きながら心に描いていたのは、冬の日だったかもしれない。苦労続きの人生を送った人が喜劇を残すこともある。実際には、川を見て、海を描き、心に空を、あるいは全然違うものを思い浮かべるように、表現する心はそれほど単純ではなく、もっと広く、深いに違いない。

外に広がる表現の世界と内に広がる心的世界が同時に開いていくことが創作の歓びではないか。その二つのベクトルが、同じ方向を向いているとは限らない。対称的な美しさもあれば、ねじれの美しさもあるだろう。そして、プルーストの次のような言葉を聞くと、文章による創作、すなわち文体とは、外の世界と内の世界をつなぐ精巧な蝶番なのだと思われてくる。

文体というものは、ある人びとが考えているのとちがって、いささかも文の飾りではありません。技術の問題ですらありません。それはーー画家における色彩のようにーーヴィジョンの質であり、われわれ各人が見ていて他人には見えない特殊な宇宙の啓示です。一人の芸術家がわれわれに与える楽しみは、宇宙を一つ余分に知らせてくれるということなのです。(「自作を語る」)

批評とは、作家の内的世界を詮索することではない。それは、とうてい無理な仕業。外に向けて芸術家が生み出した世界を眺め、観賞している我が内なる世界を探求すること。

それが批評ではないだろうか


碧岡烏兎