思想、批評、経験、そしてスタイルについて


多くの人は思想という。小林秀雄は批評と呼び森有正は経験と名づけた。自分の外側の世界と内側の意識を反復しながら、自己の深奥へ進む思索の過程と果実を、今の私ならば、スタイルと表現したい。

「思想」は、言葉で表現された思索の内容に重点がおかれている。小林秀雄は、表現方法に関心のない思想表現は思想ではない、と述べて、文体に美意識が感じられない専門書や研究書を批判した。文体とは、何も美辞麗句のことではない。小林にとっては、文章の論理ですら、文体の一部であった。

森有正は、「思想は茶碗の洗い方にさえ表われる」と言い、思想を言葉で表現される世界だけに閉じることを戒めた。ただし、森は、思想は思想の表現に留まるものではないと信じるがゆえに、表現としての完成度を追及した。

スタイルという言葉を用いる利点は、「思想」という言葉に対する小林、森の批判を踏まえて、表現力と普遍性、つまり言葉以外の生活のすみずみにまで根ざした思想という意味を込められる点にある。スタイルを直訳すれば、容姿、服飾、文体などの言葉があてはまる。それぞれ身体による表現、装いによる自己演出、文章表現という具合に、表現の形態であり、それぞれに個人の思想が反映されないではいられないもの。

スタイルの対極にあるのが、preference。preferenceは無秩序で気まぐれ。経験主義的で歴史相対主義的。そのときどきの気分、環境、都合によって平気で変わる。スタイルは、それに反して、規範的で一貫性、統一性がある。めまぐるしく変わる気分、環境に自己を対応させるのではなく、スタイルは気分を律し、環境を変えていく。つまり、スタイルは、反省にもとづき行動を促す。

スタイルには、すわりのいい日本語がまだ見当たらない。英語では“the way one lives”と言い換えることもできるかもしれない。スタイルは思想を体現した生活そのもの。その意味では「生き様」という言葉が近い。「生き様」という言葉は、取り繕った思想ではない、意識せずとも行動、言動、文章に表されてしまう個人のものの見方の根幹という響きをもたせることができる。

その一方で、「生き様」という言葉には美的感覚が乏しいように感じられる。いずれにしても、大切なことはスタイルを見出していく、あるいは磨きだしていくこと。それに似合う言葉がもともと何語であるかはたいした問題ではない。

それではスタイルは、どのようにして身につけられるのか。スタイルの対極にあるpreferenceを究めることでしか、その道は開けないように思う。preferenceを究めるとは、自分の好き嫌いを徹底的に理解すること、自分の過去を詳細にたどること、そして自分を囲む現実を冷静に把握すること。いずれもやさしいことではない。自分自身を見つめることもさることながら、自分では気づかなかったり、忘れたりしていることを、他人の評価や残された記録から発見することも必要に違いない。

そして重要なことは、スタイルを身につけようと努力するすがた、それ自体がすでにその人のスタイルをあらわしているということ。その点でスタイルは自己の外側にあるのでもなければ、自己のうちに発見されることを待っているものでもない。スタイルは自己のうちにすでにあるものからしか生まれてこない。preferenceはその一つの萌芽。


碧岡烏兎