雨ふり花 さいた、末吉暁子文、こみねゆら絵、偕成社、1998

弔いの哲学 シリーズ 道徳の系譜、小泉義之、河出書房新社、1997


出張のあいだに読んだ本の続き。

『雨ふり花 さいた』はこみねゆらの絵を見ようと、『白いねこ』といっしょに借りてきた小説。作者の末吉の名前は知らなかった。どんな話かもわからないまま、出張にもっていく鞄に入れた。

小泉義之の本は出張前に偶然図書館で手に取ったもの。彼の名前は『現代思想 2004年11月号 特集 生存の争い 医療・科学・社会』(青土社)にあった立岩真也との対談で知った。立岩真也は、気になる本や言葉をインターネットで調べているうちによく当たる。『自由の平等 簡単で別な姿の世界』(岩波書店、2004)は読んでみたけれど、少しむずかしかったので書評は残していない。小泉の本もやさしくはないけれど、薄いのですぐ読み終えた。充分とはいえないまでも、ある程度の基礎知識があるおかげで、社会学よりも思想史のほうが、私には読みやすい

往路の機内では夏川りみがこれまでのシングルを集めた新盤を紹介する番組と小林克也が案内役をつとめ往年の音楽番組が蘇る『ベストヒットUSA』を見た。食事のあとは『吉田満著作集』に続いて読みはじめた『大和の最期、それから 吉田満 戦後の軌跡』(千早耿一郎、講談社、2004)を読んでいるうちに眠ってしまい、そのまま到着した。


帰路のフライトを待つ間に『雨ふり花 さいた』を開いた。読みはじめてすぐ機内で読むにはちょうどいい幻想的な物語であることに気づいた。

主人公は小学六年生の女の子。家族にも学校にもなんとなく溶け込めないでいる。こういう物語によく出会うのは、どういうわけか。児童向けではありふれた設定なのか。私ははみ出した劣等生といえるような子どもではなかった。むしろある時期までは正反対の立場を装っていた。けれども、こういう物語を読むと、胸がしめつけられる。私のなかにあって押し殺していた、「引きこもりたかった自分」が疼くのかもしれない。

タイム・トリップという設定も、めずらしいものではない。以前、同じように海外出張の機内で宮部みゆき『蒲生邸事件』(1996、文春文庫、2000)を読んだことがある。平凡な受験生が、2・26事件に遭遇する話。タイム・トリップを通じて「家族」をあらためて「実感」するという意味では、舞台はまったく違うけれども、映画“Back to the Future”にも共通するものがある。

読みごたえのある物語という意味では、本書もエンターテイメントといえるけれども、推理小説や娯楽映画よりも、文学的ともいえる主題、つまり、生と死についての真剣な問いかけを含んでいる

ユカにとって、生と死の問題は、本当は身近なものだったのに、六年生の彼女には、まだその問題をまじめに考えるきっかけがなかった。それに考えようとしても、生と死はあまりにかけ離れていて、つながりようがないように思えていたのかもしれない。

身近にある生と死、遠い歴史の彼方にある生と死。夏休みの不思議な体験は、死について考えるきっかけを彼女にもたらし、やがて彼女は自分自身の「生」について考えはじめる。


まるで無関心でいて、しかもつながりようがないと思われていた生と死の間をとりもつのは、名前。梨木香歩『裏庭』のように、本書でも名前は重要な役割をもっている。

人は誰でも名前をもっている。名もない人という人はいない。けれども、人間はつい、知らない人は「名もない人々」といって、「その他大勢」にまとめてしまう。過去の人々については、特にそうなりやすい。

名前を知ったり、何気ない逸話を聞いたりして、顔も知らない昔の人物が急に身近に感じることがある。そうなると博物館に置かれた人形も、ただの人形にはみえなくなってくる。名前を知ることは、その人を知りはじめること。というよりも、名前を知るとき、もうその人を「知っている」ことになる

もちろん、名前が名前として響かなければ、人を知ることにはならない。店内の呼び出し案内は、たいてい人の名前に聞こえない。でも、知っている人の名前は、聴こえる。この物語でも、知らない人の名前が、聞き覚えのある人の名に変わっていく。そうして、忘れられない名前になる。

そのとき過去は、名もない人々がいた、現在とは切り離された「むかし」ではなくなる。あの人が生きていた、そしてその名前が今も自分の中に息づいている「時間」になる。


小泉義之の本にも、同じことが書かれていた。次の文章は、そのまま『雨ふり花』の解説にもなる。

だからこそ、死者の名を唱えることは、死者を亡霊化しない唯一の道なのである。もしも亡霊が名で呼び出されるならば、それは亡霊でも死者でもなく生者であることになるからだ。亡霊を追い払って忘れるには、死者の名を唱えさえすればよい。(Ⅴ 忘却論)

死者の名を唱えれば死者が甦るとか自分が救われるなどと小泉は言いたいのではない。彼の主張は、おそらくもっと控えめ。名前も知らない人の死について、同情したり責任を感じたりすることはやめようということ。なぜならその思いは、どれほど深くても、名のある人を「その他大勢」にくくることになるから。私がまずしなければならないのは、名を知っている人の死を思うこと

死者を弔うためには名前を呼べばいい。だから小泉は、死者を悼む作品ついても否定する。そうした作品は、確かに存在するとしても、書き上げて捨てられるためだけに書かれる。書いても書いても、死者を悼むことはできない。書ききれない気持ちが残る。書ききれず残る気持ちは名前に集約される。つまり、名前によって示される。その真実を知るために表現者は作品を創りつづけるのではないだろうか。小泉の考えを私なりに書きなおせば、そうなる。

だから、私は思う。書ききれないことを明らかにするために作品は書かれる


ユカは、三人の死にめぐりあわせ、そのうち一人の死を救う。あとの二人は、どうすることもできなかった。怒ったり、悲しんだり、自分を責めたり、どうしても何も変わらない。「雨ふり花」は、次々と咲いていく。だから彼女にできることは、二人の名前を記憶にとどめておくこと。そのことに気づいたとき、彼女自身も救われた。もう忘れてもいい、という気持ちにさえなれた。

単行本なので、こみねの絵は表紙カバーをのぞき、すべて白黒。遠い記憶のような、ゆうべ見たばかりの夢のような、ぼんやりした色あい。これが色つきになったとき、夢も記憶も、人にはどうでも、自分の中では真実といえるようなものになるのかもしれない。それを「証しする」というのだと思う言葉には出さなくても、ユカは確かに証しした

こうして心に描かれ、「証し」される真実は、小泉が徹底的に排除した妄想とは違う。妄想は、想像力の飛躍をともなう。真実は、想像力の途切れのない折り重なりと隙間のない積み重なり