裏庭(1996)、梨木香歩、河合隼雄(解説)、新潮文庫、2001


記録的な猛暑。夏休みというのに子どもたちは外に出て遊ぶこともできない。陽が傾くまで涼しくした部屋で退屈しのぎをするために『千と千尋の神隠し』を買ってきた。去年の夏休みには『となりのトトロ』を見た。繰り返し見るうちに、子どもたちはすっかり台詞や仕草まで覚え、配役をして「トトロごっこ」をすることもある。

『千と千尋』は見たことがなかった。映画はほとんど見ないのに、宮崎作品は好んで映画館で見ていた。それも『耳をすませば』まで。世間一般で評価が高まることと反比例するように、いつのまにか足は遠ざかっていた。それでも数々の賞を受賞したこの作品は気になっていて、いつか見てみたいと思っていたところ。照りつける夏の午後をしのぐにも、宮崎作品を見る二作目としてもちょうどいい。優れた映画は、絵本と同じ。繰り返し見るほど、味わいが深まる。アカデミー賞受賞作にも期待が高まる。

幻想的な世界を子どもたちは堪能した様子。私はあまり楽しめなかった。発想、構想、技法、いずれをとっても画期的な作品であることはわかる。けれども受賞作品という先入観も手伝い、どの場面でも何が高い評価につながったのだろうと、つい分析をしてしまう。そのため最後まで物語に没頭することができなかった。そして見ている間、どういうわけか、二年前に読んだ梨木香歩『裏庭』のことをずっと考えていた。


ネットで調べてみると、『裏庭』と『千と千尋』を比べている人は少なくない。いわゆるファンタジーという分野で共通しているし、女の子がいなくなるという設定も似ている。もっとも『千と千尋』には下敷きになった児童文学作品が別にあるらしい。

『千と千尋』に残るもの足りなさやもどかしさを解消するために、『裏庭』の文庫本を買った。なぜ没頭できなかったのか、なぜ『裏庭』を思い出したのかもわかるかもしれない。以前読んだ本は、図書館で借りた単行本。ちょうどクアラ・ルンプールまで昼間の便に乗ることになったので、時間はたっぷりある。以前、クアラ・ルンプールへ行ったときには、宮部みゆき『蒲生邸事件』(文春文庫、2000)を読んだ。長旅のあいだは、幻想的な物語に浸るといい。

『千と千尋』には、もどかしさだけではなく、明らかに不満が残った。斬新な発想や、最新の技術によるアニメーションであることは間違いない。けれども、ところどころで陳腐な場面が私には気になった。そもそも白い竜という設定は、あまり評判は芳しくなかった映画『ネバーエンディングストーリー』で見た覚えがある。子どもが竜の頭に乗って飛行する場面は、その映画だけでなく『まんが日本むかし話』でも見た。

『風の谷のナウシカ』で、メーヴェを翼に飛ぶナウシカを背後から追いかける画面や、やはり飛行する怪物と洞窟で格闘しながら落下する場面のほうがずっと新鮮に感じられた。あちらは劇場で見たからとか、そういう映像に感動しやすい年頃だったとかいう理由だけではないような気がする。


活劇の場面以外にも、この作品では登場人物や背景にも過去の宮崎作品からの引用が見られる。そういう意味では、発想、構想、技法のいずれにおいても、『千と千尋の神隠し』は、これまでの宮崎作品の集大成といえるかもしれない。賞をとったのは、この一つの作品というよりも、この作品に結晶したこれまでの数々の作品を通じたアニメーション映画への貢献、と考えたほうが納得はいく。それでもまだ不満が残る。その不満は、おそらく『千と千尋』の主題に関わりがある。そして、『裏庭』の主題にも。

『千と千尋』では、名前が重要な鍵になっている。自分の名前を失う、新しい名前を手に入れる、あるいは勝手につけられる、古い名前を覚えておく。大切な名前を忘れる、思い出す、呼びかける。名前に関連したさまざまな経験を通じて千尋は自分の存在を確かめていく。気になることは、彼女が忘れていて、そして思い出し、心を込めて呼びかける名前が、人間の名前ではないということ。

この物語の主題は、人間と自然との関係。人間どおしの関係、あるいは自己と自己との関係、すなわち内面的自我の問題ではない。それはそれでかまわないが、自然と名前を結び付けることに、私は疑問を感じる。


名前をもつのは人間だけ。人間だけが名前をつけ、名前を呼ぶ。動物や植物、山や川にも名前はある。それらは人間のつけた名前。動植物や自然がつけた名前ではない。つまり、名前は人間の存在にとってのみ、不可欠なもの。動植物や、まして山川は、名前がなくても存在することができる。名前をつけられる前から存在している、と言ったほうがいいかもしれない。

『千と千尋』では自然のものが擬人化され、その名前に重要な役割が与えられている。その点が、私には不自然に感じられる。それが明らかにされる場面は、妙に性急で、説明がまわりくどいように感じた。

これまでに見た宮崎作品の多くは、人間と自然との関係を主題にしている。ときには対立、ときには共生が暗示され、必ずしも結論は一義的ではない。むしろその迷いを残す終わり方が、物語の後に思索をうながす余韻となっていたように思う。ところが『千と千尋』では説明が多すぎて、見た後の余韻が少ない。

もっとも、娯楽作品としては十分に面白いし、現に子どもたちは喜んでいる。この作品から自然と人間の関係について思いを深める人もいるに違いない。このような幻想的な寓話からは、ほかにも思索を深めるきっかけが見つかるかもしれない。まだ一度しか見ていない私は、自分の関心にひきつけてしまいがち。

作品に自然との関わりではなく、人間関係や、さらには自己のあり方について思索のきっかけを求めてしまうのは、いってみれば私の癖。問題は私にある。『裏庭』を思い出して、もう一度読んでみたいと思ったのも、きっとそのせい。


再読した『裏庭』は、初めて読んだときとはだいぶ印象が違う。二年前には、内容は盛り沢山である一方で、まとまりきらずに不安定な構成にも感じられた。ゆっくりと読みなおしてみると、裏庭という概念をめぐるさまざまな要素が整然と配置されていることがわかる。

前回は、裏庭という妖しく切ない響きに魅惑され、隅々まで行き届いた構成に気づかなかったのかもしれない。今風の文章には、前回と同様ところどころ閉口したものの、それも全体にわたって一貫しているようにも感じられた。

『裏庭』でも、名前は重要な役割を与えられている。このことも前回は気づかなかった。ここでは名前は人間の名前。しかもかつては親しく呼んでいたのに、辛い思い出を残しているために、いまでは声に出して呼ぶことができない名前。

その名前を思い出し、もう一度、声に出して呼べるようになるまで、主人公の照美は裏庭をさまよい歩く。その過程で、彼女は今まで気づきもしなかった自分自身の残虐性や凶暴性を思い知らされる


名前を呼べなくなってしまったのは、悲しみにくれていたからだけではない。名前を失くした「片割れ」を見殺しにしたのは、彼女自身。忘れようと封印していた悲しみに気づくとき、彼女は怒りに我を忘れるような自分の凶暴性も知る。

この場面は映画『風の谷のナウシカ』の一場面を思い出させる。父を殺されたナウシカは、怒りを暴発させ何人もの人を殺してしまい、泣きながら、「怒りにまかせて何をするかわからない」と老練の戦士ユパにすがりついた。

裏庭は、心の傷「傷を恐れてはいけない」「傷に支配されてはいけない」「傷を育てていくこと」。これら三つの言葉は、それをつぶやく三人の魔女とともに『裏庭』を支える主柱になっている。傷についての三つの言葉が柱とすれば、裏庭こそが庭、すなわち傷ついた心こそが人間、という考えが、柱を支えるこの作品の土台をなしている。

これらの言葉は、近ごろ流行している「癒し」という姑息な安心感とは違う。心の傷を直視し、それを携えて生きていくことを促すから。しかし傷とは自分が受けた傷ではなく、自分が切りつけた傷でもあることに気づかなければ、これらの言葉はやはり安直な清涼剤で終わるに違いない。


心は癒されるものではないということに気づくだけでもやさしいことではない。まして傷ついたのは自分ではないということに、ほんとうに心から気づかされることは、どれほど辛いだろう。しかも、それをしなければ、傷を育てることも、裏庭を耕すこともできない、というのでは。

全ての人が私と同じように感じるわけではないだろう。誰もが裏庭に分け入る庭師になるわけではないように。私の庭は私の裏庭、私は私の庭の庭師。それを知るために、『裏庭』をはじめて読んでから二年の間、読むこと、考えること、そして書くことを続ける必要があった。そのことも、二度目の『裏庭』は教えてくれた。

教えてはくれたけれども、これからどうしたらいいのか、私にはわからない。途方に暮れて、庭の片隅に腰を下ろす。もうどこへも出て行くことはできない。はじめからここが私の裏庭、すなわち、隠された場所ではない表の庭なのだから。


もう一つ、これからの思索の種として心の奥底深くに埋め込まれた場面。

裏庭に奥深く分け入る旅の終わりに、照美はかつて別れた自分の「片割れ」に再会する。このとき「片割れ」は別れたときの姿でなく、別れてから時を重ねた姿で現れる。ということは、つまり、この「片割れ」は思い出ではない。いま、生きている。

亡くなった人は年をとらない。よく言われることであるし、紛れもない事実。ところが、ここでは亡くなった人が自分と同じように齢を重ねている。悲しみにくれていたり、その気持ちを封印したままでは、そう感じることはないだろう

傷を育てる、裏庭を耕す、ということは、この真実を実感するための苦労かもしれない。それにしても事実としてはありえないこういうことが、物語の一場面ではなく、真実として実感されることがほんとうにあるだろうか。わらかない。


草に腰を下ろし、空を見上げる。こうするよりほか今は何をすればいいか思いつかない。目の前には静かな川の流れ。遠くからオルガンの音が聴こえてくる。「汝の大いなる罪を嘆け」。川上の礼拝堂で誰かが弾いているのだろう。聖堂は木々の生い茂る黒い森のずっとむこう。音色だけが低く響いてくる。

しばらくはこうして草に腰を下ろすことも悪くはないかもしれない。罪とは、「こうして草にすわればそれがわかる」というものとすれば。たぶん救われるということは、罪を意識したものだけに訪れるものではないか。罪を感じなければ、救われる必要も赦される必要もない。そこまでは今でも思いつく。そこから先は、やはり途方に暮れる。草に腰を下ろして考えるしかない。

草の上に寝転べば、心は空に吸い込まれる。吸い込まれる心は、かつて抱いていた、そして、今の今まで持っていると信じていた、無垢な心。草に腰を下ろすことは、無垢であることの終わり、End of Innocense。

無垢の終わる先に何があるのか、その先に、もう一度無垢を取りもどすことができる場所があるのか。まったくわからない

今は、ただ途方に暮れているだけ。陽が傾き、闇が近づいている。しばらく、このまま草に腰を下ろすことにする

夕闇をひとり。