硝子の林檎の樹の下で 烏兎の庭 第四部
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3.3.12

癒しとしての痛み―愛着、喪失、悲嘆の作業(Den nodvendlige smerte, 1987, Healing pain: attachment, loss, and grief therapy, 1991)、Nini Leick, Marianne Davidsen-Nielsen、平山正実監訳、長田光展訳、岩崎学術出版社、1998


平山正実の本を読んでから、彼のほかの著作を図書館で探してみた。単著は見つからなかったものの、彼が監訳をしている専門書を見つけたので、借りて読むことにした。

本書は喪失体験から生まれる悲嘆Grief)について、とくに身近な人の突然の死を体験した人の悲嘆を手助けするカウンセリング、悲嘆作業や悲嘆療法(Griefing, Grief Work)と言われるプロセスについて数多くの事例とともに深い考察が書かれている。密度の高い専門書なので、読むにも感想を書くにもかなり長い時間がかかった。


著者の説く悲嘆作業は四つの段階に分けられる。

  1. 1.喪失を現実のものとして受け入れる喪失の受容。
  2. 2.悲嘆の情緒に入る。怒り、恨みがましさ、罪悪感、恥辱感の表出。
  3. 3.新しい能力を身につける。新しい人々に対する不安を克服する。
  4. 4.新しい方法でエネルギーを再投入する。
  5. この段階や区分じたいは新しいものでも特別なものでもない。神父でキリスト教の視点から悲嘆に関する本を多く書いているのアルフォンス・デーケンはより細かく12の段階を提唱している。悲嘆もその一部に入るトラウマの治療でも患者はこうした段階を通過する


    読みはじめて気づいたことが二つ。

    一つめ。本書はカウンセリングする側から悲嘆を見て書いている。想定される読者は、やりきれない悲嘆を抱えている人ではない。そういう人に手助けする人、医師やカウンセラー、ソーシャルワーカーといった人々。悲嘆を抱えている人の側からは少し違った見方があるだろう。そこに焦点は当てられていない。

    二つめ。本書は現代社会の矛盾した状況を前提にしている。

    大きな事件や災害が起こるとメディアはすぐ「心のケア」と騒ぎだす。まるでそこにいた人すべてが病気になるのが当たり前で、「心のケア」を必要としない人のほうが異常のような扱いをする。これは間違っている。

    身近な人と死別しても、誰もが専門家の介入を必要とするような病的な悲嘆に陥るわけではない。もともと心身が健康で、豊かな人間関係(ネットワーク、あるいは人的資源などと本書では書かれている)を持っている人であれば、身近な人を突然に失くしたとしても、周囲の助けを借りながら、自力で悲嘆作業を完遂して、新しい人生を再開することができる

    その一方、現代社会では悲嘆作業の過程において重要な意味を持ついくつかの儀式が「因習」として排除されていたり形骸化している。また、往々にして人間関係が希薄である現代都市社会では、悲嘆の過程を自然に手助けしてくれるような人的ネットワークを持てる人はけっして多くない。

    むしろ、天地が転覆するような出来事が起きたにもかかわらず、本書で使われている術語を借りれば、当事者は悲嘆を「回避」したり「遅延」させたりしながら何事もなかったかのように日常生活に戻らなければならない。

    たとえば、本書では遺体を見ること墓参りの重要性が説かれている。それが死という覆すことのできない事態を表面的に事実として受け止めるだけでなく、精神の深い底で真実として受け止めるために必要不可欠と考えられている。

    ところが、このいずれもが、現代では、少なくとも私の周囲では積極的に実施されていない。それは、死体を見る機会が少ない、儀式が形骸化しているという理由だけではない。遺族、とりわけ子どもに遺体を見せることが憚られるような死に方や、墓参さえ回避するような悲嘆が存在していることも考えられる。

    現代社会、——といっても、生活と知識で私が及ぶ範囲で——は、悲嘆の受容という観点において矛盾を抱えている。


    回避や遅延、という言葉遣いこそ、介助する側が使う言葉で、悲嘆の当事者のものではない。当事者にとっては回避や遅延は自覚されないものだから。

    当事者から見た場合、回避や遅延は、本書では指摘されていない二つの様態が考えられる。それは、「秘匿された悲嘆」と「拒絶された悲嘆」。

    本書の舞台となっている場所は病院やカウンセリング・センター。そこで悲嘆作業を見守っているのは専門家と同じ境遇にある人々。そこには、悲嘆を抱える人の身内や友人のほか、学校の同級生や職場の同僚など、好き嫌いにかかわらず日常生活で関わらなければならない人たちはいない。専門家は確かに悲嘆作業を進める助けにはなるに違いない。同じ境遇をもつ人々とは語り合い、慰めあい、励ましあうこともできるだろう。

    しかし、人はいつかは自分の日常に帰らなければならない。専門家と、言葉は悪いが「相憐れむ同類」のあいだにいつまでも留まっているわけにはいかない。そこに安住してしまうことは、悲嘆作業の目的ではない。

       悲嘆がひとたび慢性化してしまうと、援助は困難になる。彼らは悲嘆療法を望み、自らの悲嘆について話し、自分を理解してくれると感じられる人々のなかでなら、共に泣くことも喜ぶ。しかし、慢性的に悲しんでいる者は、自分の悲嘆を取り除こうとする行動には反抗する。悲嘆療法のなかでは泣くことで癒されるのだと話すと、彼らはそれを悲しみ続けてもよいのだという励ましとして受け取る。最悪の場合には、治療は彼らを悲しんでいる者としての役割のなかに固着させることで終わってしまう。(第5章 危機介入と悲嘆療法の11例)

    慰めてくれる人がいるとそれに甘えてしまう。その一方、甘えられる専門家や仲間がいなければ、悲嘆を抱えていてもまるで何事もなかったように日常生活を送らなければならない。そういう状態が、外からは「回避」と見える。

    当事者からすれば、意識して回避しているわけではない。察するに、回避ではなく、知られてはいけない、表に出してはならないという防御的な心境に近いのではないか。知られたところでわかってもらえないから、そうでなければ奇異な視線を浴びるだけだから。そういう心境から、悲嘆は「秘匿」され、さらには「秘匿」しなければならないものとなる

    この状態はよくない。このような心理状態がつづくと、悲嘆は内面でいびつな形をとりはじめ、当事者の日常生活までをも脅かすようになる。

       しかし、実際的な仕事にあまりにかかずらいすぎて、悲嘆をいつまでも後まわしにしておくわけにはいかない。もしそんなことにでもなれば、生活に質の低下をきたしたり、不安、抑うつ、強い罪悪感、体調不良、希死念慮などといった代償をはらうことになるだろう。(第5章 危機介入と悲嘆療法の11例)

    こうした状態になったら、専門家の介入が必要になる。しかし、すでに書いたように専門家の介助を得て悲嘆作業を無事終えられたとしても、悲嘆者はいずれ日常世界に戻らなければならない。しかも現実には本書で紹介されているような専門的な悲嘆療法が幅広く普及しているとも思えない。

    だから、悲嘆を抱える者は皆、自分が生活している現実世界のなかで、隠すか話すか、秘密にしておくか打ち明けるか、ほとんど毎日逡巡しているといってもいい。もっとも、これは私自身の周囲の観察結果にすぎないが。


    「秘匿」された悲嘆を、専門家や同じ境遇にある人々、いわゆる自助グループではない場で打ち明けるとどうなるか。前に書いたように、現代の都市社会では人間関係が希薄。具体的にいえば、学校の同級生や会社の同僚であっても、家族構成や住んでいる場所を知らない場合も多い。まして、どのような境遇で育ってきたのか、その場所にたどり着くまでにどんな出来事をくぐり抜けてきたのか、知ることは滅多にない。

    そういう人間関係のもとで、「悲嘆」を抱えているという秘密を打ち明けると「拒絶」されることがある。相手は専門家のように悲嘆の受け止め方を知っている訳でもなければ、当事者のこれまでの境遇や、いってみれば人生全体を知っているわけでもないから、受け止めようがない。だから、できることはせいぜい「いろんなことがあったんだね」と言い返すことくらい。そういう対応はまだましなほう。

    「秘匿」されていた悲嘆を打ち明けられたとき、打ち明けられた人はしばしば「受け止められない」と返答する。言葉でそう言うことは稀で、よくある反応は困惑、沈黙、最後には無視、無関心。本人に悪気はないのだろう。突然、秘密を打ち明けられてとまどわない人はいない。しかも、それが深刻で悲惨な経験であればなおさら。

    打ち明けるほうに責任がないとも言えない。心の準備もできておらず、自分のことについて深く知っているわけでもない人から突然「秘密」を打ち明ければ、相手が困惑することはむしろ当然のこと。「秘密」を打ち明けるためには、その前にその人と十分な信頼関係を築いておく必要がある。

    そうして、秘密を打ち明けたときには「わかっていたよ」と言ってもらえるくらい、言葉以外の態度で自分を理解し、受け入れてもらわねければならない

    当事者にも責任の一端があるとはいえ、悲嘆を抱える者には、「秘密」を受け止めてもらえなかったことや、無視されたことは「拒絶」と映る。「秘匿」は「拒絶」と密着し、悲嘆者の心の奥底に沈み、定着する。本書で「慢性悲嘆」と言われている様態は、このような経緯で行き着くものではないだろうか。


    本書では、泣くことの重要性も説かれている。泣くことが重要なのは、新しい人生をはじめるために、体内に蓄積されたエネルギーを一度放出する必要があるから。発散されるエネルギーは悲しみだけではない。やり場ない怒りや自責の念も含まれる。そうして一度、心身を空の状態にしてから、新しいエネルギーを注入、もしくは自らのなかから生み出していく。

    ただし、ただ泣けばいいというわけではない。泣き方には二種類あるという。浅く、呼吸の速い「呼びかけ泣き」と、深く、身体の底から涙が溢れ出て全身を震わせるような「手放し泣き」。悲嘆作業に有効なのは後者の「手放し泣き」。これも、悲嘆が「秘匿」され「拒絶」されている場合には難しい。


    一度、固着した悲嘆は、悲嘆作業を行う前に、まず心の底から引きはがすことから難しい。本書でも指摘されている。

       喪失後数年して送られてきたクライエントの場合には、ほとんど援助の可能性はなかった。恐らく、執拗な転移や死者との共生関係の根底にある子供時代の経験などに焦点を合わせた長期にわたる悲嘆療法をすることによって、はじめて最終的な別れが可能になるのだろう。(第5章 危機介入と悲嘆療法の11例)

    私が知りたいのは、まさにそのような長期、それも何十年にもわたり「秘匿」され、「拒絶」されてきた悲嘆に建設的な悲嘆作業は可能なのだろうか、ということ。

    本書は悲嘆作業について多くのことを教えてくれた。でも、一番訊きたかった問いに対しては悲観的な、いや、私にとってはほとんど絶望的な回答しか与えてくれなかった。



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