岸辺のふたり(Father and Daughter)、Michael Dudok de Wit、うちだややこ訳、くもん出版、2004

悲しい本(Michael Rosen's SAD BOOK)、Michael Rosen文、Quentin Blake絵、谷川俊太郎訳、あかね書房、2004


岸辺のふたり 悲しい本

絵本の世界も、狭いながらも業界をなしている。二冊の絵本は、絵本業界では昨年来ちょっとした「話題の本」になっていると言っていい。二冊は、接近法は異なるものの、主題には通じるものがある。死とは何か、悲しみとは、何か。愛する者との別れは人に何をもたらすか。生き残るとは、どういうことか。こうした主題は、私自身をつかんで放さないでもいる。

二冊ともすぐ読みおえたものの、読後の感想を表すような言葉は見つからなかった。何を感じたのか、自分でも説明がつかない。正直、当惑した。何度も読みなおしてみて、その当惑した気持ちについて考えてみた。

この二冊を読んで私が感じたのは、たぶん、救いようのない気持ち。それは、これらの絵本を読む前から感じていたものから変わっていない。むしろ、その気持ちは補強された気がする。

『悲しい本』は、楽しかった頃の記憶で終わっている。その楽しかった時間は過ぎてしまった。つまり、作者の苦悩は最初のページに戻る。最後のページは、残念ながら私には希望や癒しには感じられない。悲しみには終わりがないことを暗示しているように思えてならない。


悲しみは、軽減される、つまり慰められることはあるかもしれないとしても、けっして癒されることはない。一度知ってしまった悲しみには、最終的な治癒や解決はありえない。なぜなら、終わりに終わりはないから

悲しみのなかに生きること、深い悲しみに向き合うことは難しい。だから人は、いや私は、悲しみを解消しようとするのではなく、悲しみを無理に忘れようとしたり、悲しみを感じさせる境遇から気づかぬうちに逃げようとしたりする。そうでなければ、せいぜい、悲しんでいる自分をなぐさめるだけ。

だけど、ほんとうに悲しいのは残された者ではない。去っていった人こそ、ほんとうに悲しいに違いない。彼らは悲しむことすらもうできないのだから。残された私は悲しみを誰かと分かち合うこともできる

それに気づかないうちは悲しんでいるとは言えない。それに気づいたとき、ほんとうに悲しんでいる人に寄り添い、その気持ちを分け合えたとき、そうして、純粋なかなしみに出会えたとき、同時にその悲しみは溶けていく。そんな予感がする。


『岸辺のふたり』では、一人の女性がそんな純粋な悲しみに長い時間をかけて出会うまでが描かれている。この結末には、わからないことが多い。

純粋なかなしみは、人生の終わりにしか見出されないものなのだろうか。それくらい長い時間逃げようとしたり、忘れようとしたりしなければ、純粋な悲しみにはたどり着けないのだろうか。この物語でも結局のところ、悲しみには生きている限り終わりがない。そう思うと、やはり絶望的な気持ちになる。

人生の終わりに純粋な悲しみに出会うということは、この絵本にあるように悲しみに出会う前の自分に戻るということなのだろうか。それではなんのために生き残らされた長い時間を過ごしていくのか、その間に感じた幸福は、悲しみというゼロの掛け算をしたような意味のないものなのか。

父と同じように自転車を並べて走った夫や、干潟で遊んだ子どもたちは、それ以前に出会った悲しみの前ではただの通りすがりに過ぎないのか。とすれば、純粋な悲しみをいくつも抱えている人は、いったいどこへ戻っていけばいいのか。

少女のまわりで流れた長い長い時間は、去って行った父親の側では流れていないのだろうか。父親のまわりに時間が流れていないとすれば、彼女は少女に戻らなければ父親に会うことはできない。かといって父親に再会するとき少女に戻るとすれば、父親と別れたあとの時間に意味がなくなってしまう。彼女にとって、生き残った意味がなくなってしまう。


ふと思い出すのは、以前読んだ梨木香歩の幻想的な小説、『裏庭』。この小説では、別れた「片割れ」のまわりでも時間が流れていた。だから別れたあとの時間にも意味が持たされている。私には、このほうが真実味がある。少なくとも、これから先生きていかなければならないという気になる。生き残る、そのことに意味が与えられているから

もし、再会するときに少女に戻ってしまうのであれば、父親が旅立ったときに一緒に行けばよかったということになりかねない。寓話としても説話としても、そうあってはならないはず。


見方をかえると、悲しみの最終的な癒しは、もし、そういうものがあるとしても、人生のさまざまな苦楽を乗り越え、自分の生命を全うした人にだけもたらされるという教訓を『岸辺のふたり』は残す。そう考えれば、この物語は生きる希望を残すともいえる。でもその場合でも、この先の長さが見通せないだけに、やりきれない気持ちがともなう。

少なくともこの二冊を読んで希望や癒しを私は感じることはできなかった。それでも、慰められはしたかもしれない、同じように悲しみを持ちつづけている人がまだほかにもいることを知ったという意味では。

何度も何度も繰り返し読んだのだから、理由はまだわからないけれども、二冊に引き込まれたことは間違いない。古傷が疼くような読後感ではあったけれど、実りある読書だったといえる。

心から悲しいと思えることが幸せ。言葉にすれば奇妙だけど、はじめてそんな気持ちを味わった。


そう思ってから『悲しい本』を読みかえしてみると、ろうそくの炎を見つめる男は、希望を抱いているわけではないにしても、悲しみに沈んでいるのでなく、心から悲しめる幸せをかみしめているようにもみえる。


さくいん:悲しみ(悲嘆)マイケル・ローゼン