12/6/2008/SAT
生きるかなしみ、山田太一編、ちくま文庫、1995
職場の近くにある図書館は小さい。図書室と呼んだほうがいいくらい。通路もせまく、立ち読みもしづらい。ここでは背表紙を眺めながら本を選ぶ楽しみがない。だから最近では、新聞の書評や広告で目に止まった本をネット経由で予約してから借りることが多くなった。
この本は例外。一番端にある文学総論の棚で書名に目がとまった。
かなしみは、不幸とは違う。貧困、病気、喪失、老化。本書に集められたエッセイでもそうした不幸なことが書かれてはいる。でも、不幸なことがすべてかなしみを生むのではない。
不幸から逃げようとしても、ますます不幸になるばかり。自分の不幸に向き合ったときかなしみがあらわれる。本書に編まれた文章はどれも、不幸を嘆いているのではない。自分の不幸に正面から向き合った者だけが知るかなしみを書いている。
だから「生きるかなしみ」は「生の深み」と言いかえることもできるだろう。森有正ならば同じ心持ちを苦悩(アンゴワッス)とさらに言い換えるかもしれない。
「幸福な家族はみな似ているけれども、不幸な家族はそれぞれに違った不幸をもっている」などとよく言われる。原作は読んでいないけれども、トルストイがそう言ったらしい。本書の編者、山田太一も引いているし、最近では雑誌『通販生活』2008年秋号(カタログハウス)で、姜尚中が落合恵子との対談のなかで引用していた。
人にはそれぞれ違った不幸があるとすれば、それを裏返したときに、あるいはそこを突き抜けたところに、似たり寄ったりではない、その人だけが見つけられる幸福があるのではないか。
とすれば、自分に固有の不幸を見つめたときにあらわれるかなしみは、自分に固有の幸福への扉でもあるかもしれない。かなしみを深く感じることが幸せなこと、ということはあり得ると私は思う。
しかし、己だけにある不幸を見つめることはやさしいことではないし、見つけてしまったかなしみに耐えて生きていくことはさらにむずかしい。
本書に集められた文章は、どれも短い。しかし長さに関わらず、いずれも、かなしみと苦悩に耐え抜いた重みが感じられる。
蛇足と余談。最近の姜尚中と茂木健一郎のメディア露出度には目を瞠るものがある。とくにNHKへの出演が著しい。紅白の審査員でも狙っているのか。ナンシー関が存命であったなら、どんな文章を書いて、どんな表情とどんなひとことを彫り込んでいただろう。それが読めないのは残念でならない。
写真は、宵闇に浮かぶ富士山と御殿場のほのかな街灯り。11月の終わりにいつもの宿で休んだ。今回は、シアタールームで“E.T.”を見た。
冗談半分で書いたつもりが、本当に姜尚中が紅白歌合戦の審査員になっていたのでとても驚いた。次は何をするだろう。ニュースキャスターか。
12/13/2008/SAT
三つのコンサート
冬になって三度、コンサートに行った。
一つめは、ドイツのクラシック・ア・カペラ・グループ、アマルコルド・シンガーズ(Ensemble Amarcord)。古謡からバッハ、70年代のポップスまで、幅広いレパートリーと歌にあわせて趣向を凝らした演出がとても楽しかった。
チラシを読んでクィーンやビリー・ジョエルの作品も歌うことを期待してたのだけれど、ポップスからの選曲は、Chicago,“If You Leave Me Now”とSupertramp, “Breakfast in America”だった。2曲とも気に入っている曲だったので、期待どおりではなかったもののうれしい選曲だった。
驚いたのは「ヨハンの解体」(ダリー・ランズウィック作曲、マティアス・ツェラー編曲)と題された一曲。有名な作品のさわりの部分をコラージュというかメドレーというか、ごちゃまぜににした作品。よく聞き取れなかったけれど、コーラスでは、「トッカータ」など曲名を連呼しているように聞こえた。
昔、新聞の三面記事をオペラのメロディで読み上げるという芸があった。そんな風に冗談と真面目が絶妙に取り合わされた見事な舞台だった。
次に行ったのは、同じ会場で、市内の小学校高学年が集まった連合音楽会。聴いたのはスタジオ・ジブリの映画『耳をすませば』の主題歌、日本語の「カントリー・ロード」の合唱と、The Boom「風になりたい」の合奏。「風になりたい」では、みんな見事にサンバのリズムにノッていた。
すこし前に、映画『スィング・ガールズ』を見た。子どもたちは、見ているうちにたちまちスイングのリズムを覚えてしまった。サンバもスイングも、ロックもクラシックも、生まれたときから身のまわりにあって、知らず知らずに聴いている今どきの子どもたちにはフュージョン的な感性をもっている。あとは、それをどうして自分だけのスタイルにしていけるかしかも楽しく、できれば愉快に。それができれば「何一ついいことなかったこの街」でも、風のようになれるだろう。
三つめのコンサートは年末の恒例、ハンドベル。15年くらい前には毎年、ハンドベル・グループ、チェンバーリンギングソロイスツのコンサートを聴きに行っていた。そのあと、主要メンバーだった大坪泰子が中心になって新しくきりく・ハンドベルアンサンブルというグループができた。新しいグループができてからは、また毎年聴きに行くようにしている。そういうアーティストはほかにはない。
パイプオルガンはその規模の大きさや音域の広さから楽器の王様と言われる。ハンドベルも、倍音の広がりや、集団ではじめて一つの楽器となっていることを考えるとパイプオルガンとはまた違った意味で究極の楽器と呼べるのではないか。コンサートホールで聴いてみると、可聴帯域を超えたずっとずっと低い音、ずっとずっと高い音が身体のすみずみにまで広がっていくような感覚にとらわれる。ホールで聴いたときとあとでコンパクトディスクで聴いたときの落差は、オルガン以上に大きい。
一曲、演奏が終わると拍手の前に観客がため息をつく一瞬の間がある。こんな曲までハンドベルでできるのか、毎回驚かされる。「剣の舞」や「ずいずいずっころばし」などは、見ているとハラハラしてしまう。超絶技巧という言葉がときどき音楽では使われる。まさに彼らの演奏には常識や想像を絶するものがある。今年の演目ではルロイ・アンダーソン「そりあそび」とモンティ「チャールダーシュ」に、会場は静かな驚嘆の声と大きな拍手に満たされた。
もちろん、彼らの魅力は速さや激しさばかりではない。CRS時代からの定番とも言っていい“O Holly Night”の深く広々とした響きに身をまかせていると、どうにかこうにかまた一年が過ぎ去ろうとして、クリスマスと年の瀬が近づいたことをしみじみと感じさせる。
写真は「公園の手品師、老いたピエロ」が落とした銀杏の葉。小学生たちの音楽会が行なわれた市民会館と図書館前の広場は一面、黄金色に染まっていた。
さくいん:バッハ、ビリー・ジョエル、きりくハンドベル・アンサンブル(大坪泰子)
12/20/2008/SAT
処女懐胎――描かれた「奇跡」と「聖家族」、岡田温司、中公新書、2007
聖書外典偽典 第六巻 新訳外典Ⅰ(ヤコブ原福音書ほか)、八木誠一・伊吹誠編訳、講談社、1976
神の道化師 聖ヨセフの肖像、石井美樹子、白水社、1991
捏造された聖書(Misquoting Jesus: The Story Behind Who Changed the Bible And Why, 2005)、Bart D. Ehrman、松田和也訳、柏書房、2006
マルコ福音書のイエス――最初の福音書の新しい読み方、Pierre Mourlon Beernaert、伊藤慶枝訳、原書房、2007
今年の後半に読んだキリスト教関係の本。クリスマスの前に、ごく簡単に感想を書き残しておく。今年、春にはイエスの父、ヨセフについての本を読んだ。
夏が過ぎ、もう秋になってから、図書館の宗教の棚で『処女懐胎』を見つけた。副題にあるように美術作品を通じて、それぞれの時代で処女懐胎や聖母信仰がどのように受け止められてきたかを探る。それから、この本で再三引用されている新約聖書の外典と、ヨセフについての参考図書として挙げられていた『神の道化師』を続けて借りた。
聖書以外に、外典や民間伝承があることは知ってはいたものの、これほどさまざまにまた活き活きとした物語があるとは知らなかった。とりわけ「ヤコブ原福音書」は、岡田や石井も指摘しているように、聖典として書かれたとは思えないほど、俗っぽい人間臭さにあふれていて、物語としても十分に面白い。一時代、神学からは遠い人びとがこちらの文書を歓迎し、正統な教義を守ろうとする教会当局がこの文書を排除しようとしたこともよくわかる。
幼稚園で聖誕劇を見たとき、聖書に書かれていないエピソードがどこに由来したものなのか、不思議に思った。なるほど、イエスのみならず数々の聖人たちについて外典や伝承をもとにして、サンタクロースやクリスマスツリーを含め、ヨーロッパのキリスト教の思想と文化をつくりあげてきた。そういうことがようやくわかりはじめてきた。
これまで私は、キリスト教に限らず、宗教はもっと出来上がったものが金科玉条として受け継がれて来たもののように考えていた。キリスト教一つをとっても、そこには絶え間なく論争があり、時代の精神を帯びた解釈の流行り廃りがあり、高尚な神学とは無縁な平信徒たちの素朴な思いがある。あるいは、中近東のユダヤ社会で生まれ、そののち、ローマやゲルマン、ケルトなど異なる文化をもつ人びとが住むヨーロッパ大陸へ広がっていったキリスト教は、伝播とともに否応なくその土地、時代、人びととのあいだに摩擦や葛藤を直面してきたと考えるべきなのかもれない。
キリスト教は、伝えられてきた宗教。聖書学の研究書『捏造された聖書』でも、緻密な精読を試みる『マルコ福音書のイエス』でも、キリスト教とはできあがった何かではなく、絶えず読み返され、書き換えられてきたものであることがわかる。
だから、聖書のなかには奇跡のような科学的に不可解なことばかりでなく、物語として辻褄の合わないことも多い。『マタイ福音書』冒頭にあるアブラハムからイエスまで下っていく系譜と処女懐胎は典型的な例。イエスは、ヨハネの嫡子ではないから、アブラハムの子孫とは言えないし、マリアをアブラハムの系図に入れれば、男性嫡子の系図が崩れてしまう。
こういう矛盾はほかにもある。それを嬉々として指摘するような本もあまたある。でも、問題は聖書に矛盾が溢れているということよりも、数々の矛盾を承知の上で、人びとはなぜ、何を、ほかの人々に伝えようとしたのか、ということにあると思う。
さまざまな矛盾は、神学的、あるいは民俗的な解釈により、それぞれの時代で、それぞれに受け止められてきた。それでは聖書の解釈は時代とともに移り変わっていくものとすれば、キリスト教に不変なものはないのか。それとも、その奥底に変わらずに何かがあるのか、あるとすればそれはいったい何か。いま、私が思うには、それはイエスという一人の人間の生と死をどう受け止めるか、という問いかけ。ペテロやパウロの時代からそれだけはずっと変わっていない。私はそう考えている。
ところで、森有正は日本文化と西洋文化とのあいだで葛藤したと、しばしば言われる。ちくま学芸文庫のカバー裏には、長く一息で次のように書かれている。
近代日本の宿命、西欧との交わりのなかで、その思想・文化の単なる知的理解ではなく、自己の内面から西欧を血肉化し、それに対応した日本認識を自らの命題とし、日々の生活を通して西欧という現実に食い入りながら思想経験にまで高めた森有正。
この理解は、もちろん正しい。彼が20年以上かけて書いた無数のエッセイや日記に、「日本人」「ヨーロッパ」という言葉は、それこそ数え切れないほど登場している。そこに彼の問題意識の核があったことは間違いないだろう。
それはそれとして、5年前に森有正の文章と出会って以来、彼の作品を読み返すうち、難渋で硬質な文章の表に生々しく描かれている「日本対ヨーロッパ」という葛藤とはまったく異なる問題が、文章にはほとんど直接的には書かれないまま、それでも彼の思想のより深いところにあったのではないか、と私は思うようになってきた。
その一つは、カトリックとプロテスタントとの葛藤。森有正は牧師の息子でありながら、カトリック系の学校に幼少から寄宿し、カトリックの空気を吸って育った。しかし彼自身は父にならい、プロテスタントに入信した。長じて彼が移り住んだフランスは言うまでもなくカトリック信徒が多い国であり、カルヴァンが創始した改革派プロテスタントは圧倒的に少数派だった。
カトリックへの改宗について、彼は何度か記しているけれど、多くは語られていない。
この点について、これ以上書くことはキリスト教の知識に乏しい私にはできない。ただ1950年代のフランスにプロテスタントの日本人として暮らすという森有正が抱えた異郷と異教の二重の苦悩を想像することは、フランスでも習慣的に教会へ通う人が減り、新教・旧教という呼び方もされなくなった第二バチカン公会議以降の時代に生きる現代人にはもうほとんどできないように思う。
もう一つ、森有正の思想において、文章の表面で議論されているわけではないけれどその底辺に初めから終わりまで流れている問題がある。それは死の問題、より具体的に書けば、14才のときに亡くした父の死と、終戦直後、疎開先で亡くした長女の死。
この二つの死への思いは、ほかのどんなことについて書いていても、つねに彼の心の底から消えることはない。これこそが、彼が生涯を通じて向き合った問題だった。最近になって私はそう確信するようになった。とはいえ、これについても、それを指摘する以上、今の私に書けることは何もない。ただ、そう気づいたということを書き記しておくことだけでも、何か意味はあるだろう。
一つだけ、森が言うところのレゾナンス、つまり、私の心の襞を激しく震わせた部分を書き写しておく。
いま、ふり返って考えてみると、私の中にあるすべてのものは、すでにその昔にみな私の中にあったようである。ただそこには、父が死んだあと、私を“見る目”(原文傍点)が欠如していたように思われる。だからそれは時の流れとなり、なつかしさになるのであろう。父がずっと生きていたら、それはなつかしさ、というようなものではありえなかったような気がするし、また父の死を私が生れる時まで押しやって、幼少年時代全体になつかしさを流れさせているような気もするのである。そしてそれは相当に強い私の生きる姿勢であったように思われる。ある意味で、成人してからの私の生活というのは、この消え失せた父の目が少しずつ再現し始め、生きるということが単なる時の流れではなくなる過程であったように思われるのである。(中略)つまり父の死は、私の中における経験の“自覚”(原文傍点)を少なくとも十五年おくらせたのである。私において、自分の経験の起源を問題にするならば、それはフランスへ渡ったことではなく、父の死をめぐる私の姿勢の中に求められなければならない、と思うのである。(「遥かなノートルダム」『森有正エッセー集成3』)
ここに書いたことは、クリスマスには何も関係がない。私はまだクリスマスに誕生とは正反対のことを考えている。
写真は、冬の散歩道、“Hazy Shade of Winter”。
12/27/2008/SAT
二十世紀、海野弘、文藝春秋、2007
70s 日本の雑誌広告、(広告に記録された70年代、泉麻人)、ピエ・ブックス、2007
80s 日本の雑誌広告、(「キラキラ」としたものが愛された時代、サエキけんぞう)、ピエ・ブックス、2007
The Stranger (1978) 30th anniversary edition, Billy Joel, Sony, 2008
I AM YOUR SINGER、サザンオールスターズ、ビクター、2008
今年最後の文章。今年最初に読んだ本の感想を結局まるまる一年かけて書くことになった。
20世紀から1970年代へ、70年代から1978年へ。焦点は、段階を経て絞られてきた。70年代について深く考えるようになったきっかけは、原武史『滝山コミューン一九七三』。70年代は私にとって何だったのか、この本を読んでから、そういう問いかけをはっきりと意識するようになった。この本を読んでから、海野弘『二十世紀』をもう一度借りて読み返し、まず20世紀のなかでの70年代の位置づけについて考えてみた。
時間は十分すぎるほどかけたにもかかわらず、どの文章もよく書けてない気がする。まとまりもないし、掘り下げることもできていない。踏み込みも足りない。
でも今の気分ではこれ以上のことは書けないだろう、とも素直に思う。今年はほとんど充電切れのような状態で一年を過ごした。知力、体力、気力、注意力、集中力………、その他ベストセラーの題名になっているあらゆる力について、自分がもっている容量の小ささを痛感させられた一年だった。
来年は、まず気力と体力を取り戻さなければならない。といっても、いまはまだそれを取り戻すために休息をとっている状態。もう少しエネルギーを蓄えられたら、書きなおすこともできるかもしれないし、本文でも予告しているように79年、80年について書くなかであらためて70年代について考えなおすことができるかもしれない。
70年代、という言葉を「庭」のなかで最初につかったのは、おそらく映画『太陽を盗んだ男』の感想。この文章は、『烏兎の庭』という名前でウェブサイトを開く前に「日記鯖」というサイトで書いたメモが元になっている。「70年代」は、確かに私が文章を書きはじめるきっかけだった。
このサイトは移転しており、メモは『庭 第一部』に転載した。
写真は、夜の公園、空っぽのベンチ。ここに座り、私は夜明けを待っている。
さくいん:海野弘、70年代、80年代、原武史、『太陽を盗んだ男』
uto_midoriXyahoo.co.jp