烏兎の庭 第一部
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10.29.03

反ナショナリズム、姜尚中、教育史料出版会、2003


反ナショナリズム

『ナショナリズムの克服』(集英社新書、2001)の共著者による論文集。在日韓国人という立場は、「いくつもの引き裂かれた記憶」を生きるほかない立場であると姜はいう(「あとがき」)。そうした立場からのナショナリズム批判、とりわけ日本国の外交政策、単一民族観などに見られる「日本人」のナショナリズムへ激しい批判が繰り返される。その主張には、共鳴するところも少なくない。それでも微かな違和感が残る。違和感の元はおそらく、「反」と名づけられた書名、彼の明確すぎる態度。

作用・反作用という言葉がある。ゴムを一方に引っ張れば、ゴムは伸びる。それは引っ張っていない方向にも同時に同じ力が加わっているから。一方にしか力が加わらなければ、ゴムは伸びずに同じ長さのまま、引いた方へ流れていく。

姜は、引かれた方へ流されていくことを許せないのだろう。それゆえに彼は反対の方向へ力強く引く。それは確かに自然な反応であり、また理にかなった行動であるかもしれない。それは認めるとしても、かえって元の引く力を際立たせる効果をもたらしてはいないだろうか。あるいは、過激な減量のあとのように、押さえつけたナショナリズムがあとで暴発することはないだろうか。


書名は「反ナショナリズム」であって、「非ナショナリズム」でもなければ、「脱ナショナリズム」でもない。空でも虚でも、治でもない。強い語調は、対立的な図式を否が応にも浮かび上がらせる。

ハイブリッドなアイデンティティ、多文化主義、クレオール。そうした言葉を政治学者が使うとき、韓国人か日本人か、あるいはその間に揺れる在日韓国人か、という並列的な選択問題のように感じられる。アイデンティティ、個人の成り立ちとは、箇条書きのようなものではないはず。もっと立体的で、不定形で、流動的で、早い話、もっとぐにゃぐにゃしたものではないか。

政治的な問題に対して政治的な接近をすると、問題はさらに政治化する。今日、ナショナリズムの問題は、高度に政治化しつつある。私は、姜の戦術を批判するつもりはない。彼のような立場からの発言はこれまであまりに少なかったし、正面切った「反」という対峙の仕方も意味がないわけではない。それどころか、公然とした圧力に対しては公然と反意を見せる必要もあるだろう。


だから、姜には援軍が要る。政治化するナショナリズムに対して、正面から大上段から攻めるだけでなく、背後から、足元から、石で、素手で、叩いたり、引っかいたり、くすぐったり。彼が批判的に継承しようとする丸山眞男の言葉を借りれば、彼に必要なのは「非政治的な立場からの政治的関心」による援護射撃ではないか。

一例をあげると、あまんきみこ『車の色は空の色』(ポプラ社)にある一連の物語。これらはもともとナショナリズムとはまったく関係がない童話。けれども読んでみると、超ナショナリズム対反ナショナリズム、日本人対外国人、その間に揺れる在日外国人という図式に凝り固まった頭をほぐしてくれる。

主人公のタクシー運転手、松井さんが乗せる人々は、見慣れた紳士や医者。ところが彼らは、実は日本人、外国人どころではない、ほんとうは山猫や熊。松井さんもほんとうは猫かもしれない。


本来、それぞれ違った個性をもつ一人一人の人間を、既存の制度に固く結び付けるところにナショナリズムの強さと同時に、恐ろしさがある。日本人とは何か、韓国人とは何かを考えるだけではなく、ときどきは、熊や山猫かもしれないと笑い飛ばすくらいの度量があってもいいのではないだろうか。

硬軟とりまぜてみせても、敵の攻め方は結局のところは一面的。こちらを一絡げにするのが、向こうの狙いなのだから。アイデンティティが立体的であるように、こちらの反撃はぐにゃぐにゃするのがいい。そのほうが、案外倒れにくいかもしれない。


さくいん:姜尚中



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