ナショナリズムの克服、姜尚中・森巣博、集英社新書、2001


ナショナリズムの克服

姜の語り口には独特の魅力がある。低い声色で滑らかにドイツ語や専門用語を繰り出す姿は学生たちにも人気だろうし、加えて学者離れした装いもテレビ受けする理由の一つだろう。確かにテレビや新聞などでの発言も少なくないけれど、やはり彼の発言や文章は難しい。そこで同じ問題関心を持ちながら、活動分野も表現方法も異なる森巣を対談相手に選んだのは、編集者の慧眼と言える。

森巣のざっくばらんな発言は堅苦しい姜の説明をわかりやすくし、お返しに森巣の柔らかな発想に姜は学問的な後ろ支えを与えている。そうすることで難解になったり、演説調になったりしがちなナショナリズムの問題をときほぐして読者に提示している。そうした意味で、本書は何より企画の成功といえよう。

二人の主張に異論はない。とりわけ、はじめて発言を聞く森巣については、「民族は幻想だ、だからこそ時代に合わせて、また直面する問題に合わせて再想像することができるはず」という意見などには、これまで読んだ自由主義史観に対する批判に比べてずっと建設的な発想に思える。一点、首肯できないのは少数民族のアイデンティティに対する理解。森巣は次のように言う。

非対称的権力の構図の中で、民族というスティグマを付けられ、西欧近代的な『進歩』の時間軸から取り残された者とされ、一方的に抑圧され収奪された(そして現在もされつづけている)少数民たち、および『在日××民族』という名で排除され差別されつづけた人々は、当然のように民族概念を正のベクトルを持つ力として立ち上げうるし、また、立ち上げるべきだと私は考えます。

この意見には同意できない。この考えは第一次大戦後にいくつもの独立国家を生み出した民族自決主義と何ら違わない。第一次大戦後、ドイツ=ハンガリー帝国の支配から独立した東欧諸国で少数民族、外国人はどのような扱いを受けたか。そして、いま現在、台湾や中国で少数民族はどのような扱いを受けているか。

そうしたことに思いを馳せれば、民族自決の名の下に独立した国家は必ず、内部でより小さな集団に対する抑圧装置として働いてしまうことを理解するのは難しいことではない。

森巣は、抑圧された民族の一例に「沖縄民族」をあげる。確かに沖縄の歴史は抑圧された歴史であるとしても、同時にそれは抑圧する歴史でもあったことを見逃してはならない。琉球は中国や日本に抑圧されただけでない。八重山諸島を支配し、さらに八重山諸島の中心、石垣島は周辺の小島を抑圧、収奪してきた。悲しいことに世の常として、抑圧された弱者は、より弱いものを抑圧することで不満を解消しようとする。

帝国はその内部に小さな帝国をもつと姜は指摘する。帝国はマトリョーシカのように幾重にも連なる。重要なのは、抑圧や差別は究極的には個人を標的とすること、その要因は政治的アイデンティティにとどまらないこと。

抑圧の構造を具体的にたどっていくと、日本のなかの沖縄、沖縄のなかの八重山、八重山のなかの石垣、石垣配下の島へと下り、最終的には島に住む個人に到達する。そして個人は、政治的要因だけではなく、性別、容姿、健康状態、能力、などさまざまな要素によって差別、抑圧される。

姜に限らず、政治学ではすべてを政治的問題に集約しがち。これは政治学の問題というより、人文、社会科学が細分化された結果もたらされた悪弊といえる。一つの学問から世界をのぞくだけでは、その学問の方法論でしか世界が見えないか、その学問で見える問題だけに焦点が合わさってしまう。ナショナリズムは確かに病理かもしれない。しかし、それは現代人の抱える病理の一つであってすべてではないはず。

個人を規定するのは、必ずしも政治的、集団的な要素だけではない。つまり、個人を規定する要素――それは場合によっては病理の要因ともなりうる――そうした要素は、他人と連帯できる集団的な性質をもつものもあれば、きわめて個人的なものもある。

在日韓国人は抑圧されている。それは事実だとしても、在日韓国人という仲間で連帯できるではないか。現に姜は、苦しみながらも指紋押捺拒否などの活動を通じて仲間を得てきたと述べている。では、在日の女性はどうか。在日のハンセン病患者はどうか。在日の老人や障害者はどうか。在日の同性愛者はどうか。

いや、こうして並べ立てたスティグマはいずれもまだ連帯できるスティグマ。姜はいみじくも「告白する」ことが少数者の証であると述べているけれども、それでは誰にも告白できないスティグマをもった孤独な個人はどうすればいいのか

性質や病気、家庭環境、個人的な体験などは、似た要素を持っている他人がいたとしても、告白することはなかなか難しい。場合によっては自覚することさえ難しい。従って連帯もしにくい。

個人が政治的な、言葉を換えれば集団的なアイデンティティに集約されないアイデンティティをもっている場合、しかも、それがスティグマとして内面に焼き付けられ、無理に自覚させられるとき、いったい、そのような個人はどのようにすれば正のベクトルを持ちうるのだろうか。

森巣の発言に戻れば、いかなる集団でも個人を抑圧、差別する可能性がないとはいえない以上、必要なことは小集団なら団結することを認めるというのではないのではない。どのような集団であれ集団は個人を抑圧する可能性を秘めていることを自覚しながら、集団に自己を帰属させることではないか。言ってみれば、アイデンティティに予め風穴を空けておき風通しをよくしておくことが必要なのではないだろうか。

それは必ずしも難しいことではないはず。なぜなら政治的なものや固定した要素だけが個人のアイデンティティを規定しているわけではないから。文学者でもある森巣はそれを認めている。

「いつまでも静止し固定したままのアイデンティティよりも、当然にも常に変化しつづける私――「セルフフード」を出発点にすべきではないか」という発言には、そうした意図があるとみていいだろう。森巣は上野千鶴子から似た意見を引用しているが、鷲田清一による次の一文も同様の内容を意味しているものと思われる。

特定の国家に属する者としてのわたしたちは、その「自国」の成立と不可分の関係にあった(あるいは、ある)他のひとびと、他の国家との関係の歴史ならびに現在へと想像力を十分にはせなければならないが、そのときにこの「わたしたち」は、同時に、そしてつねにくりかえし、複数の特異な声たちのそのつど一度かぎりにおける「わたしたち」へと送り届けられるものでなければならない。(「全体という擬制 13 過程」『時代のきしみ <わたし>と国家のあいだ』、TBSブリタニカ、2002)

森巣は、おそらくは鷲田とも共有できる個人の水準におけるアイデンティティの複合化、重層化という理解をもっていながら、本書では姜が展開する政治的アイデンティティとしてのナショナリズムの議論に引きずられているように見える。それは姜の問題というより、政治学という集団の行動、精神を前提にした学問が不可避的にもっている発想の傾向であるように思われてならない。

そうした政治学の本質的傾向について思いを寄せると、政治学の術語、思考方法でナショナリズムを批判することには限界があるのではないかと思われてくる。集団を前提とする政治学の方法論では、もっともラディカルになったとしても、森巣が姜に提案した「抑圧された小集団には自決を認める」という程度までかもしれない。

それ以上進むことは、集団を考察対象とする政治学では踏み込めないのではないだろうか。あるいは見方を変えれば、それ以上進もうとするならば、従来とは異なり個人を起点とする政治学を初めなければならないとも言えるだろう。

ともかく、森巣と姜は帯と題名にあるように、ナショナリズムは病気であって、治療、克服ができるという点で一致している。それではどのようにして克服ができるのか。その問いに対する回答は対談そのものが明快に答えている。ナショナリズムの克服について対談している二人のようにすればいい。ただし、それは簡単に真似できる方法ではない。結局、二人は数少ない世俗的な意味での成功者だから。

姜はドイツ留学を経て政治思想の研究者、大学教員となり、そして現在は東大教授の任にある。森巣は、競輪が大当たりしたからと韜晦をこめて語るけれども、ともかく現在はオーストラリアと日本を往復する生活。また、本書で紹介されている反グローバリズム運動に参加したという森巣の息子はオックスフォード大学を卒業した後、カリフォルニア大学で教鞭をとり、現在はウォール街で働いているという。

彼らが苦労も努力もせず成功したなどというつもりもない。二人とも言葉には出さなくても俗人の想像を越える努力をしたからこそ、大学教授になったり、風来坊のような生活を続けたりできるのだろう。それでも疑問に残るのは、世の中の大半を占める海外に飛び出す元手もなく、アカデミックな世界で生きる技量もない人間はどうすればいいのか、ということ。

こういう設問をするのは、二人が問題にしているネオ・ナショナリズムはまさにそうした人々のあいだにはびこり、根を張り始めているから。香山リカ『ぷちナショナリズム症候群ー若者たちのニッポン主義』(中公新書クラレ、2002)の分析をはじめ、経済失速とともに中産階級下部が雇用、生活、安全という現実的な不安から安直な外国人排斥や集団的行動、カリスマ的な指導者への過剰な支持へと走りはじめている現状が、あちこちで指摘されている。

これは日本国に限ったことではない。グローバリズムに対する接触について、格差は世界中で急速に広がっている。合衆国では、これから戦争をするかもしれない国の位置すら知らない人が少なくないという報道を聞いた。そうした人々は、日本国の若者がファースト・フードを祖国の懐かしい味と思うように、多国籍企業が作り出す製品を自国製品だと信じ込み、政府とメディアから流れる情報によって外国や外国人に対するイメージを固定させていく。これに対して、世界中を飛び回り、外国語を読み書きし、海外で講演をするような人は、国家に対する偏狭な感覚を捨てるのが、むしろ当然のなりゆきだろう。

グローバリズムに自発的に関わる術のない人々は、移民や工場の海外移転により職場を奪われ、一部の外国人の犯罪により日常の安全まで脅かされている、少なくともそう感じている、あるいはそう感じるように仕向けられてさえいる。そうした人々をグローバリズムの侵食とナショナリズムの呪縛から救い出す方法を見つけなければ、姜が危惧する世界の帝国化は避けられない。

本書は読みやすく含蓄のある好著ではあるけれども、同時に楽観的に過ぎる一面も否定できない。リゾート地での対談や満開の桜を眺めながらのホテルで対談するという舞台設定は、堅苦しい話を和らげる効果をもつ一方で、いささか浮世離れした雰囲気も醸し出している。自らを「チューサン階級」と森巣は呼ぶが、それはアカデミズムに身を置く姜に対する謙遜であって、自らの知的能力、生活感覚に対する卑下ではない。

また東大教授、姜尚中が森巣につられて「ちんぽこ」論議をするあたり痛快ではあるが、その一方で自分の指紋押捺拒否運動を支持した人々について「知的中間層」という呼び方をしている。「知識人の終焉」という枕詞を使うこと自体、驕りとまでは言わないが、自分を「知的中間層」の上に立つ身と任ずる強い自負の裏返しと言わざるをえない。

結局、ナショナリズムを克服する方法の肝心なところは、著者二人から引き出すことはできない。それは読者の一人一人に委ねられている。それは、ナショナリズムといえども、つまるところは集団の病理ではなく、個人の内面的な問題だからといえるのではないだろうか


碧岡烏兎