烏兎の庭 第一部
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7.21.02

だれのための仕事―労働vs余暇を超えて、鷲田清一、岩波書店、1996


だれのための仕事

鷲田清一は日経新聞の夕刊一面「あすへの話題」で知り、以前から読んでみたいと思っていた。本書の前半で論じられている、将来のことばかり心配し、現在を楽しむことを忘れた生き方、著者のいう「前のめりの生活」については、以前から実感をもって別な比喩を自分のなかで何度も考えていた。

道を歩いていると前の信号が点滅している。少し小走りすれば間に合いそうだ。ちょっと駆け足で横断歩道を渡る。ほっと一息つくと前方に次の信号が点滅しているのが見える。走らなくちゃ。渡りきると次の信号は、まだ青だから安心だ。でも歩行者向けではなく自動車向けの信号が青から黄色になっている。もうすぐ歩行者向けも点滅しはじめる。走らなくちゃ……。


受験のための学校生活、老後資金のためのサラリーマン生活。現在の楽しみを犠牲にしなければ将来の安心が得られないように思うのはいったいなぜだろうか。「前のめりの生活」の原点は、労働と余暇を対峙させてきた産業社会の基本思考にあるという指摘は鋭い。

さらに現在のサラリーマン生活において、労働の大部分が肉体労働ではなく、知的労働に向けられている点に問題がある、と鷲田はみる。ここでいう知的労働とは、肉体を使わないという意味に過ぎず、創造的という意味ではない。実際にサラリーマン生活では、エネルギーの大半が人間関係をやりくりすることに費やされている。


サラリーマン生活=人間関係」という構図は、『昭和二十一年八月の絵日記』(山中和子、トランスビュー、2001)の解説で養老孟司が指摘していた。終戦直後、小学生が疎開先で書いた絵日記には食べ物の記述があふれている。子どもは本来“モノ”、食べ物や生き物との関わりから自己を確立し、それから他人との関わりを学びはじめるべきではないか。ところが現代では、小学生からすでに、モノから疎遠で「人間関係」にどっぷり浸かった生活を送っている。

鷲田が指摘するように、震災時にボランティアに参加した人々には、打算にあふれた人間関係から脱出したいという期待があったに違いない。だからこそ知的労働より肉体労働に関わりたいという希望が多かったのだろう。

モノに関わることは、新しい労働観や対人関係の見方をつくりだすきっかけにできるかもしれない。


問題は、そこを起点にして今までどおりの打算に満ち溢れた関係ではない、それでいて安っぽい宗教体験のように全人格を預けてしまうような関係でもない、自立した個人対個人の関係が築けるかということ。

この論点は、丸山眞男によっても指摘されていたように日本社会に生きる人間には古い問題だけれども、これまでにそうした関係を訓練してなかっただけに、自分自身に関しても、どちらかというと悲観的になってしまう。


さくいん:鷲田清一労働丸山眞男



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