ウルトラマン・クロニクル(ウルトラマン生誕30周年記念)、高貴準三・イオン編、竹書房、1997

ウルトラマン白書 第4版、宇宙船編集部編、朝日ソノラマ、1985

大ウルトラマン図鑑 空想特撮美術体系、西村祐次(企画・構成)、
ヤマダ・マサミ(企画・構成・執筆)、ホビージャパン、1996

ウルトラマン昇天 M78星雲は沖縄の彼方、山田輝子、朝日新聞、1992

金城哲夫 ウルトラマン島唄、上原正三、筑摩書房、1999


5月の連休に買ったマグマ星人のソフビ人形をきっかけにして、ウルトラマン漬けの生活を送っている。朝な夕な「胸に光るマークは流星」から「レオ! ウルトラマン」まで歌を聴き、毎日怪獣の絵を描いて、図書館では「ウルトラ」と書名検索をして、あるだけ本を借りてきた。

最初に借りてきたのは、歴代ウルトラマンの図鑑。『クロニクル』は、円谷プロ公認、定価2万円の豪華本。すべてのウルトラマンと登場した怪獣の写真。テレビ番組などを特集した図鑑やムックでは、作品世界の批評と製作現場の解説がうまく切り分けられていないものが多い。本書も、「最後はアイスラッガーで倒した」というような記述も、ぬいぐるみに入っているのは誰某という解説も、混在している。ダンとセブンが並んで立っている写真は、説明に苦慮した。もっとも子どもは、自分だけが納得できる説明を勝手につくりあげている。

『白書』は、歴代ウルトラマンの特徴をまとめて、主題歌の歌詞とオープニング画面をコマ割りで紹介する。そして、白書という名前らしく、ウルトラマンの変遷を批判的に検証している。

『白書』によれば、特撮と怪獣とヒーローを統合したウルトラマンは、新しい型のテレビ番組だったものの、継続していくうちに低下する視聴率を盛り返すために強引な展開をしたり、玩具優先の設定により物語ではなくキャラクターが先行する番組作りに走ったりしたために、次第に陳腐な子ども向け番組に成り下がっていった。その変容はセブンの後半にすでにはじまり、エースでウルトラマン独自の世界は崩壊し、タロウで完全に堕落したという。

言われてみると思い当たる節はある。私が幼い頃は『タロウ』や『レオ』が放映されていたはず。でも、タロウやレオの顔は覚えていても、登場人物や物語はほとんど記憶にない。その一方で、再放送で見た『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』は、全体的に暗い画面や、怪獣が次は自分の近くにも現れそうな不気味な余韻を、今でも背筋が寒くなるくらい覚えている。初期の2作品には、何か特別な雰囲気があった。残念ながら、『ウルトラQ』は再放送でも見たことがない。

そんなことを考えながら、怪獣の写真を次々に眺めていた。ふと『ウルトラQ』と『ウルトラマン』だけを特集している『空想特撮美術体系』のなかに「ウルトラマンは金城哲夫という一人の男によって生み出された」という一文を見つけた。


ウルトラマンは一人の人間が思いついた。そんな話は初めて聞いた。ウルトラマンの背景には彼の出身地、沖縄の影響があるらしい。しかも、金城哲夫はすでに亡くなって30年近く経つという。何がどうして、どうなったのか

ネットで調べなおして、金城哲夫の伝記を2冊借りてきた。出版された順序どおり、『昇天』を読んでから『島唄』を読んだ。これは正しい順序だった。

二つの伝記は、対照的で、相互補完的。『昇天』は、金城を若いときから見知ってはいたけれど、やや遠くから見ていた人が書いている。『島唄』の著者は同じ故郷をもち、ウルトラマンをともにつくりあげた仲間の一人。遠近両景のなかに、一人の人物をみる。

『昇天』の著者は宇佐美承に師事していたと、あとがきに書いている。宇佐美承は、絵本作家、八島太郎画家、松本竣介の伝記で読んだことがある。有名無名の群像のなかで一人の人間の姿を浮き上がらせる宇佐美の手法を、山田も踏襲している。

敗戦後に新しい教育を夢見た学園で同じ時間を過ごしたという個人的な動機付けを通じ、山田は、後にウルトラマンに結実した金城の創作の原点を描くことに重点を置く。後半では、金城がなぜ沖縄に帰ったのか、そこで迎えた死は何を意味するのか、突き詰めていこうとするけれども、本書ではつかみあぐねているように見える。

沖縄の深さを山田は意識している。それがかえって、沖縄対本土という、金城自身がとらわれた図式に彼女も引き寄せているのかもしれない。インタビューを試みた遺族にとっても、まだ言葉で話せる時期ではなかったのかもしれない。何年たったから話せるというものでもないだろう


金城とより親しく、沖縄というアイデンティティを共有する上原は、金城にとって沖縄に帰ることはどういう意味があったかという問いを伝記の中心にすえる。とはいえ、金城をよく知り、多くのシナリオを手がけてきた上原でさえ、出発の足取りは重い。

 (前略)だが実在の人物を書くのはむつかしい。私の知っている金城は、ほんのうす皮一枚でしかなく、従ってなにをどう書こうとも嘘っぽくなる。書きたいと思えば思うほど金城は遠ざかった。自分の非才では至難の業であることをイヤというほど思い知らされた。
   それでも次の三点についてはキチンと書きたいと思った。
   その一。金城哲夫は円谷プロでどのような創作活動をしたか。
   その二。金城哲夫が私に示してくれた友情と大きな包容力について。
   その三。金城哲夫は何故円谷プロを辞めて帰郷してしまったのか?
(序章 異次元の男)

実在の人物を描く困難に対し、上原は二重に大胆な手法を使う。まず、ウルトラマン創造の舞台裏を二人の交流を軸に描く前半とは異なり、後半は、金城が残した日記が多くを占める。金城が書き残した行動や思索の一つ一つに、上原は考え考え、自分の言葉を寄せる。ここでは、当時東京にいて金城とは離れていた上原から、時空を超えた対話が試みられている。

さらに金城の最期について、上原は思い切って、推理というよりも想像を多く含んだ書き方をしている。この部分は、伝記というより創作された小説のように読める。

おそらく金城と親しく故郷を共有する上原であっても、いや、そのような上原であればこそ、帰沖後の金城を描くには、本人の言葉をそのままたどるか、自分の思いを込めて創作するしかなかったのかもしれない。おそらく、それくらい思い切って書かなければ、伝記という、実在の人物を通じて何かを描く作品は生み出せないのだろう


金城の後半生について、少し抽象的に感想を書いておく。

アイデンティティは、自己同一性とも訳される。自分と一体、これこそ自分と思われる何かを指すのだろう。その何かが一つのものになってしまうことは、悲劇のはじまりではないだろうか。

人間は、一つの要素だけでできているわけではない。多種多様な属性をもっている。それはわかっていても、往々にして一つ、二つの属性に強くとらわれることがある。当然ほかの属性は見えなくなる。そこに責任感や使命感が加わると、さらに視野は狭くなる。視野が狭くなるとどうなるか。そうなると次第に、限られたアイデンティティを二項対立、二律背反でとらえるようになってしまう。

伝記を読めば、金城哲夫にはほかのさまざまな面があったことがわかる。男性、六人家族の長男、大卒、売れっ子シナリオ作家、円谷プロの一員、東京在住者、そして夫と父親……。彼が自己の多彩な面を捨象し、一つの属性だけを自分のアイデンティティと感じていたように読めるのは、きっと伝記の視点のせいばかりではない。金城の残した言葉に、彼の苦悩が読みとれる。

(一九七三年)九月十九日
七時半起床。朝の光があふれてる。
移民烈伝(仮題)をまとめたいという気持ちがフツフツと起こる。今浦島となって村へ帰ってきた一世たちの人生体験と心情を聴き、まとめておきたいと思う。移民とは? 人間と生きる場の問題を考えてみたい。人間の帰巣本能。故郷への憧れと挫折感。彼らに安住の地はあるのか?(第五章 沖縄にて・噴煙)

安住の地を探していたのは、金城自身だった。15歳で故郷を離れた彼にとっては、東京も言葉の違う異郷で、帰りついた故郷でも、彼は土地の言葉を話せなかった。

沖縄出身であること。それを本土との関係で考えること。それは、占領下の沖縄からパスポートを持って東京に留学していた金城にとって、避けることの難しい思考枠組みだったかもしれない。上原も『昇天』の終わりで、「沖縄に何ができるか、それが沖縄の知識人の課題なのです」と話している。


多様性を受け入れることはやさしくない。二律背反は論外としても、二つのあいだの往復や架け橋も、それを克服したことにはならない。そうかといって、世界を混沌のまま受け止めることもすぐできることではない。混沌のまま受け入れられないから、何かの塊にして自分を託すのだから。

僚友を失った上原は『島唄』で、金城と異なる方法を試す。二律背反ではなく、両者をともに含むことを目指し、そのような態度こそが「沖縄」であるという考えにたどりつく。

『島唄』は、いきなり琉球語、彼らのいうウチナーンチュの会話ではじまる。それ以降金城と上原の会話は主に琉球語でかわされるけれど、カタカナで書かれた会話に一切注釈はない。東京語訳をつければ、琉球語を従とみなすことになるから。きっと上原はそう考えたに違いない。わからないまま、それが彼らの言葉と思って読み進める。

那覇の商店街で、人々は日本語と琉球語と英語とを混ぜながら話す。それが沖縄の地場の言葉。厳しい気候と、幾多の侵略、占領の波をかぶっても、しぶとく、しかしのんびり暮らす沖縄人。そういう態度を上原は「テーゲー主義」と呼ぶ。二律背反や、ましてそれを克服しようと躍起になることは、本来、沖縄人の生き方ではない。

サンゴの呼吸に合わせ、ゆったりと呼吸して生きてゆける人が本物のウチナーンチュだ。アメリカの艦砲射撃のせいか、ヤマトから忙しない暮らしぶりが入り込んだせいか、最近本物のウチナーンチュがめっきり少なくなった。
(終章 ユンタク・タイム)

では、思春期に沖縄を離れた金城は、ほんとうのウチナーンチュではなかったのか。だから、そんな生き方ができなかったのか。そう考えるのも、硬直したアイデンティティのとらえ方。金城は、沖縄か本土か、そんな対立図式に陥らない考えも持っていた。

(一九七五年)四月十二日
子供たち元気よく学校と幼稚園へ。
夕方、パチンコをやり、そのパチンコ屋の隣り、八重洲苑で森口豁さんの送別会。十六人集まる。楽しくも名残惜しい送別会。森口君の15年間の沖縄生活を思うと感慨もひとしおである。泣いて挨拶した森口さん。沖縄を彼ほど愛した大和人も珍しい。いやそういう云い方自体が彼を悲しませるだろう。彼ほど沖縄人らしい沖縄人もいない。……というべきだろう。(第五章 沖縄にて・噴煙)

沖縄は沖縄を思う人の心にある。そこまでわかっていながら、なぜ金城は自分を追い詰めなければならなかったのだろうか。上原は、戦争で片足を失った母との戦中体験に金城が抱える心の闇を見た。

上原は書いてはいないけれど、戦争を生きのびながらも、戦後すぐに栄養失調でなくなった妹への思いも、彼の沖縄への思いと、幾重にも重なっていたのではないか。あるいは、それは私の思いを含んだ創作か。兄のように慕っていた円谷一が、41才という若さで早世したことも、彼に精神的な危機をもたらしただろう。しかしそこから先は、誰にもわからない。

人間というものはそんな単純な生き物ではない。人間はおのおの心に闇を抱え込んでいる。その闇に他人が踏み込むことはできない。その闇は、本人ですら知覚出来ない未知領域の多い宇宙空間、果てしなく深いブラックホールなのだ。(序章 異次元の男)

どうすれば、心の闇に引きずり込まれないでいられるか。特効薬は、思いつかない。おそらく、上原の言うとおり、サンゴの呼吸に合わせるように、あせらずゆったり過ごすことが、遠回りのようでいて実は近道ではないか。だが、これも上原が指摘するとおり、沖縄でさえそれができる人は減っている。

沖縄では戦争から占領、復帰、復興。東京では映画からテレビ、ウルトラマン、そして視聴率。金城の伝記を読んでいると、彼が生き急いだというより、時代が一人の人間が追いつけないほどの速度でめまぐるしく過ぎていくように感じる。


金城は、自分からブラックホールに飛び込んでしまったのだろうか。そうではなくて、それを出来合いの枠にはめ込もうとしたので、足をすくわれたのではないだろうか。

いや、彼はけっして自分を追い詰めて、破滅したのではない。手記「ヘルス・ノート」の最後には、苦しみながらも、立ち直ろうとする壮絶な自己との闘争が書かれている。

すべてをやりなおすつもりでいた矢先、彼は光の国に呼び戻されてしまった。それはなぜか、誰にもわからないだろう。一つ、はっきり言えることは、これは身体的な事故であり、精神的な事故ではなかったということ、その限りにおいて、悲劇だったと思う

『島唄』は、不思議な場面で終わる。唐突にも感じられるけれど、上原が感じやすい性質であることは前のほうに書かれていて伏線になっている。この場面が事実だったかどうかは問題ではない。おそらく上原は『ウルトラマン島唄』を書き上げて、金城哲夫が目の前によみがえったように感じたに違いない。

そう確信するのは、この一編の伝記を読み終えて、私の心に、会ったことはなくても、金城哲夫という一人の人間が映し出されたから。その姿は、『ウルトラセブン』のオープニングのように、色鮮やかな混沌のなかに影のように浮かび上がる。


ウルトラマンについてもう一度。宇宙から来た巨大な正義のヒーロー。知ってしまえば何ということはない。これを最初に思いついたことがすごい。確かに当時すでにスーパーマンはいた、SFドラマも特撮もあった。しかしウルトラマンというコンセプトを生み出した功績は大きい。一からあとはいくらでも数は続く。ゼロを一にする仕事が非凡。

ウルトラマン・シリーズは、いまも続いている。似たようなヒーローは星の数ほどある。これほど多くの派生や亜流を生んだ理由は、最初の構想がしっかりとしていて、それでいて想像の広がる余地を残す柔軟性をもっていたからだろう。

金城が関わった『帰ってきたウルトラマン』までには、その後とは違う独特の雰囲気がある。それは60年代の空気のせいもあるだろう、そこでSFや特撮のもっていた力もあるだろう、テレビという新しいメディアがもっていた発展途上の魅力もあっただろう。

もちろん、ウルトラマンをデザインした成田亨や、金城個人の思い入れが色濃く反映されているからに違いない。当時をふりかえる回想や写真を見ていると、初期の作品の製作現場は、学園祭の準備のような、職人の工房のような、手作りの熱気にあふれた空間だったことが伝わってくる。

たとえば主題歌。「ウルトラマン」から「帰ってきたウルトラマン」までは監督でもあった円谷一が東京一という筆名で手がけている。「A」から「レオ」までの作詞は、阿久悠

物語の設定を歌詞の言葉に埋め込んでしまうむ阿久の職人技には、ただ感心する。でも、東京一の歌詞にも味がある。「オレたちのつくったウルトラマン」の歌という気概が感じられる。


ウルトラマン・シリーズ、ひいてはテレビ・ドラマ全体の質が70年代を通じて変化していった背景には、制作組織が巨大化・複雑化・分業化して、作り手一人一人の思いが伝えにくくなったことも関係あるのではないか。ウルトラマンの歴史は、テレビがメディアとしての鮮度を失っていく歴史でもある。

金城をきっかけにして、ウルトラマンを生み出した円谷プロにも興味をもち、円谷一や円谷英二についても調べてみた。

円谷英二は、映画の世界に関わる前、羽田にあった日本航空学校に在籍していた。羽田がまだ湿地だったころ、一機しか飛行機がなく、その練習機の事故とともにあっけなく終わったこの最初の民間飛行学校のことは、絵本『羽田の空に飛行機がとんだ』(野村昇司文、阿部公洋絵、ぬぷん児童図書、1987)で読んだことがある。

いくつかの線が、金城哲夫から円谷親子を通じて、過去の読書に帰っていく。しばらく深刻な読書が続いていた。ウルトラマンなら少しは息抜きになるだろうと思って読みはじめたのに、いつのまにか同じ場所にたどり着いてしまった。

金城哲夫が再起を待って過ごしていた部屋は、いまもそのまま残されているという

沖縄に興味があるかと問われれば、間違いなくあると答える。とはいえ、私のなかの沖縄は断片的で、しかも時間的にも地理的にも遠い広島、長崎の戦跡をみたあと、『観光コースでない沖縄』という本を片手に旅行したのは、もう15年以上も前のこと。その二年後、湾岸戦争の影響で海外旅行に行くのに怯えて、かわりに石垣島へ遊びに行った。このときは帰りに今帰仁まで行った。いま沖縄といえば、絵本歌のなか

沖縄は私には遠い。代わりになるわけではないけれど、円谷親子の墓が思いのほか近くにあることを知ったので、たずねてみることにした。