さよなら日本 絵本作家・八島太郎と光子の亡命、宇佐美承、晶文社、1981


さよなら日本 絵本作家・八島太郎と光子の亡命

絵本作家であり画家でもあった八島太郎の評伝。この本をもっとも簡潔に言い表そうとすればそうなる。著者もそのつもりで準備を始めたに違いない。ところが、本書はそれだけでは終わらない。多面的な構造をもち、多くの人が登場し、多くの史実が盛り込まれている。その多くは、これまで知らなかったこと。

この本は、いろいろな面をもっている。激動の時代を日本国外で過ごすことになった八島太郎を通じて、正史の陰にある、いわゆる、もうひとつの昭和史を描き出す。

大正時代の誇り高い地方名士の豊かな暮らしと高い教養、戦前のプロレタリア運動、日中戦争の開始後に異常な激しさをもちはじめた特高の取り締まり、日米戦争開始前のニューヨーク、貴族的な日本人の生活と戦争への怯え、八島も参加した対日情報活動とその内紛、敗戦処理のために将校として来日した八島の眼を通じて描かれる荒廃した戦災後の神戸。

題名にあるとおり、本書は八島一人の評伝ではない。太郎と光子の夫婦、あるいは二人の異なる性格と表現力をもっていた芸術家の評伝でもある。

光子についても多くの逸話を盛り込み詳しく書かれている。大正時代の神戸の女学校の雰囲気、瀬戸内海の島々を船で伝道していたアメリカ人牧師、因島での暮らし、文化学院の講義風景。


実はこの評伝の主人公は太郎でも光子でもない。主題になっているのは彼らの父親たち。太郎の父親は鹿児島の郷士であり医者であり、また文人でもあった。光子の父は造船技師であり、企業幹部であり、クリスチャンだった。この二人を通じて、明治から大正時代を生きた、いわゆる中流階級の多面性と矜持、そしてその脆さがていねいに描かれている。

中間層は政治史や政治思想史にはあまり取り上げられないし、社会の下層部に比べると意外に社会史でも扱われない。その点で、これまで見たことがない切り口に感じられた。

八島太郎を書くために、妻の光子を書く。八島夫婦を書くために、彼らの父親世代を書く。そうした評伝の重ね塗りをしているのは、最終的に宇佐美が自分の父親と自分が生きた時代を描こうとしているから。

もっとも、宇佐美はそのことを多くは語らない。個人的なモチーフについては禁欲的で、あくまで主題は絵本作家となった夫婦の生涯である。その謙虚さが、重層的で多面的な人物像と歴史観を映し出している。


本書には数え切れないほど多くの人が登場する。よく知られた人物が、意外なところで太郎と光子と関わりあっていたり、また、歴史の教科書に登場しない人たちが、歴史の重要な場面で大きな役割を与えられたりしていることも明らかにしている。

宇佐美は有名な人も無名な人も同じようにとりあげる。そして、誰も褒めず、誰も非難しない。その姿勢は太郎や光子に対しても変わらない。

周囲が一人の人間をつくり、そして一人の人間がまわりの世界を変えていく。言葉にしてしまえば簡単なことを、実際、言葉を紡いで織り出される物語の文様としていくのは簡単なことではないだろう。それを読み、理解し、自分の言葉で織りなおすのは、なおさら。

けっして長い本ではないけれど、読むにも書評を書くにも、ずいぶんと時間がかかった。それでも本の感想なら書ける。この本が取材する一人の歴史、一つの家族の歴史、一つの国の歴史となると、理解するまでに、まだまだ時間がかかりそう。


碧岡烏兎