創作方法に関する現在の問題、批評家への希望、方法と世界観、レアリズムと唯物論、森山啓、日本プロレタリア文学評論集・7(後期プロレタリア文学評論集2)、新日本出版社、1990


昨年の春、石川県小松市をはじめて訪れたときに、森山啓を偶然知った。市立図書館にある記念室で、森山啓はプロレタリア作家と紹介されていた。

プロレタリア文学というと、何年も前に小林多喜二『蟹工船』を読んだことがある。『蟹工船』よりも同じ文庫本に収録されていた「党生活者」という、地下活動家の人目を忍ぶ暮らしぶりを描いた小説のほうが記憶に残る。

詩人、荒川洋治も北陸を代表する作家の一人として森山啓を紹介していた。

そんなことから森山の作品を読んでみたいと思っていながらも、なかなか手にとる機会がない。記念室では、新聞に連載された談話が印象に残った。できれば、ふだん好んで読む随想や批評のような文章を読んでみたい。行きなれた図書館で検索してみると、1930年代のプロレタリア文学評論を集めた本の中に森山の評論が収録されていることがわかり、さっそく借りてきた。

二つの論文は、小林多喜二が謀殺された1933年に書かれた。いずれもマルクス主義の小難しい専門用語が多くて読みづらい。解説を読んでも、歴史的資料として以外に価値はないかのようにあしらわれている。

それでも、プロレタリア文学史という知識を持たずに読んでみると、むしろ、その方が森山の批評が意図するところの普遍性が見えてくるようにも思う。

図式化は、ただ「人間の本質は社会関係の総和である」といったようなことを、現実の人間生活に関する生きた知識への努力とは切りはなして、形式的に玩弄するときに起こってくる。事実そのような傾向は、「創作方法における唯物弁証法のための闘争」の途上で、作家のなかにも批評家のなかにも起こって来た。
   だが、実際においては芸術家たちは、与えられた現実のなかでの社会的実践――芸術家としての社会闘争への参加ーーを通してはじめてその「世界観」なるものを発展させ、徹底させてゆくものなのだ。だから「最初に完備した世界観」ではなしに、芸術家たちがそれぞれの程度に実現しうる所の、社会主義建設に協力する作品行動が必要なのである。(「創作方法に関する現在の問題」)
すなわち芸術家が創作上リアリズムの方向をとるか否かは作家の哲学によって、ましてや唯物論や可知論一般によって決定されるものではなくて、その作家の社会的・階級的実践によって与えられるものである。――ここで作家の「階級的実践」という言葉によって作家が動きまわって仕事をする姿だけが抽象されて考えられるおそれがあるが、しかし実際においては作家の実践というものは、一定の時代の社会状態のなかで作家が創作したり、行動したりして社会と公称する全生活をいうのだから、一口に実践といっても、我々はその作家の時代、社会発達の程度、芸術の状態、代表する階級の現実などとともに、それにむかって働きかけながら発展するその作家の天分と、その仕事を思い浮かべねばならない。つまり作家の実践のなかにその時代の客観的現実と作家の世界観や天分の発展が、統一されて実現するからである。(「批評家への希望、方法と世界観、レアリズムと唯物論」)

社会主義とは何か、唯物論とは何か。そういうことがどうでもいいようにさえ感じられてくる。どうでもいいどころか、森山は既成のマルクス主義芸術論とはまったく正反対の立場にいる。

彼は、世界観は外から誰かに与えられるものとは考えていない。世界観を築くことが創作活動、すなわち芸術と考えている。このような芸術観は、いわゆる教条主義的な唯物論を根底から覆す。

「プロレタリア文学」といった先入観を排して森山啓の文章を読みなおすと、仲間内でしかわからないような偏狭な用語は暗く沈んでいく。そして作家、森山啓の言葉だけが静かに聞こえてくる。

作家は、作品を通してのみ社会に関わる、しかし、その作品には、その作家が人間としてどう社会へ関わっているかが、すべてが反映される、という奥の深い人間観に支えられた芸術論だけが、浮かび上がってくる


碧岡烏兎