烏兎の庭 第一部
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3.13.03

知識人とは何か(Representation of the Intellectual、1994)、Edward W. Said、大橋洋一訳、平凡社、1995


結局、知識人、インテレクチャルとは、自称するものではなく、優れた人に向けられる尊称ではないだろうか。これが本書を読んで考えた私の結論。本書だけでなく、これまでに読んださまざまな本が、そうした結論を導く。

荒川洋治は、詩人とは第三者が使う尊称であると言う。だから彼は自らを詩人と呼ばない。現代詩作家と呼ぶ。そこには謙遜と、到達できない理想を設定してそこへ向かって継続して努力する姿勢が感じられる。何かを成したから詩人なのではない。詩を書くことによって、つねに詩人であり続ける。この考え方は、丸山眞男のいう「である」ことと「する」ことの違いも連想させる。


知識人とは尊称であると思うようになったのは、本書でサイードが展開する知識人の定義が、いずれも客観的に見極めることがむずかしく、まして自己評価することがほとんどできないことばかりだから。サイードは知識人を資格や職種、業績ではなく、資質や生きる姿勢によって定義する。

虐げられている者を代弁する、その苦痛、危機を普遍的に表現する、自らを包む文化を相対化する、専門家の世界に閉じこもらず、「アマチュア」となる、権力に抵抗する。こうした資質や行動は、定量的に測定できない。またこれらの資質は、一回きりの表現、行動で果たされるものではない。

サイードの知識人論は性質だけでなく、実践とその継続を求める。この点から言っても、「する」ことの議論に近い。そもそも“intellectrual”とは、知的な人という意味。知的になろうとしているというのならともかく、すでに知的であると自ら名乗るのは、やはり怪しい。


多くの人が自ら知識人を名乗るのは、顕示欲からだけではない。責任感の表れでもある。とはいえ、現代詩作家と詩人のように、心意気と理想は別の呼び名で使い分けるべきではないか。本来、理想である呼称を自ら名乗ることで、心意気が薄れ、継続して努力する必要性を忘れてしまいかねないから。

自己を相対化する、客観的にみることの重要性をサイードは説く。この点からも、知識人を自ら名乗ることは、責任感に基づいていたとしても、誤った使い方と言えるのではないだろうか。

サイードは周辺的存在という言葉を使って、自己を相対化すること、客観的にみることを説明する。サイードだけではなく、多くの人が知識人は社会の中心ではなく、周辺から発言すべきだと述べている。

もっともな意見にみえるが、そもそも社会に中心や周辺があるのだろうか、という問いをしないではいられない。あるいは次のように問うべきかもしれない。中心にいるとか、周辺にいるとか、人がいる場所は固定して観察できるものなのだろうか。


ある学者が自分はずっと周辺で行動してきたと述べるのを聞いたことがある。体制の中では特異な存在で、慣行に逆らったり新しい試みをしたりしたことを「周辺で」という言葉で表そうとしたのだろう。それを認めないわけではないが、国立大学の正教授までしていた人に大見得切って「周辺にいる」と言われると、正直なところ嫌味でしかない。

教員は、複数の人を相手に何かを伝授し、評価する。それだけで権力者。本を書く人も同様に、不特定多数に対して自らの意見を発信すること自体、中心にいるのであって、周辺にいるのではない。

人は誰も、一つの立場だけにあるわけではない。親であったり、子であったりする。教える立場になることもあれば、教えられる立場にもなる。消費者にもなれば、販売者になることもある。ある一面からみれば、恵まれた先進国の一国民であり、別な面から見れば、会社に雇用され、使用される、言ってみれば搾取される労働者かもしれない。フラれたつもりが、フッているということもあるかもしれない。また、その逆も。つまり同じ場所にいても、見方によっては差別、抑圧、抑圧する側にでもあれば、差別される立場でもあるということ。


要するに、誰もが中心にいたり、周辺にいたりする。だから大切なことは、自分を周辺にいると思うことではなく、周辺にいたり、いなかったりする、いわば存在の複合性を自覚すること、さらに自発的に違う立場になる、あるいはなったつもりで考えることではないだろうか。

とりわけ、知識人と人に呼ばれるような人、呼ばれたいと思っている人ならば、自分は中心にいるかもしれない、周辺を差別、抑圧、収奪しているかもしれないという自覚を忘れてはなるまい。自分から周辺にいるといってはばからない自称知識人には警戒したほうがいい。

サイードの言う知的亡命とは、このような意味で理解すべきではないだろうか。亡命はけっして国家間の移動だけではない。中心、周辺の往復もある。だから知的亡命は、あらゆる立場を渡り歩く精神的な運動といわれる。

精神的な運動を行う主体、それは個人。つまり、知識人とはきわめて個人的な属性である。これがサイードの知識人論の単純明快な結論。知識人という階級や集団を彼は認めない。


本書では、さまざまな立場を肉体的にも精神的にも遍歴してきたサイードならではの、複眼的な考察が随所にみられる。日本語で表現する人にありがちな、極端な自文化肯定論や、極端な否定論に立つ他文化礼賛も、合衆国やイスラムにも見られる傾向であることが指摘されていて、目から鱗が落ちるような思いがする。このような見方ができるのも、サイード自身が、そういう境遇に置かれてきただけでなく、つねに意識的に知的亡命を続けているからだろう。

もっとも個人的で精神的な運動といっても、孤独であることや考えることばかりを意味しない。むしろサイードは連帯し、行動することも知識人の指標としている。ここに難しさがある。行動することは、自己を相対化する精神的な運動を一時停止しなければならないから。

それにしても「知識人としての行動」ということがありえるのだろうか。考えてみれば、人は行動するとき、その行動にふさわしい資格をもった者として行動するか、さもなければ、ただの人として行動するものではないだろうか。選挙で一票投じるのは、選挙権をもつ国民の一人としてするのであって、一般人と知識人で一票の重みに違いはない。だから投票は、知識人としてするのではない。

学校で教えるのも、教員としてするのであり、知識人としてするのではない。戦争反対のデモ行進も、政府の行動に反対する国民の一人として参加するのか、一人の人間として参加するのかのどちらかだろう。「一体文学者として銃をとるなどという事がそもそも意味をなさない。誰だって戦うときは兵の身分で戦うのである。」という小林秀雄の言葉も同じ文脈で理解できるだろう(「戦争と平和」『全集 第七巻』)。


このように考えると、「知識人としての行動」とはありえない、矛盾したものに思われてくる。「知識人としての行動」があるとすれば、やはり純粋に知的な行動、つまり考えること、表現すること以外にはないのではないだろうか。

例えば、今起こりそうになっている戦争について、ある作家は新聞に反対の意見広告を出し、別の作家は終わるまで何も言わず我慢するのだと嘆いている。どちらも知識人らしい行動とは言えないように思われる。戦争は確かに深刻な問題ではある。始まれば多くの人が犠牲になるかもしれない。

それでも敢えて言いたいのは、戦争が唯一の問題ではないということ。戦争が始まる前から、すでに虐げられ、抑圧され、殺されている人は数え切れないほどいる。そうした忘れられた人々の苦しみを多くの人に知らせることこそ、知識人と呼ばれる人の役割ではないか。

いまさら何をしても戦争を止めることはできないとあきらめるのは言語道断としても、戦争という一つの政策に対する態度表明が知識人の証であるかのように振舞うのもどうかしている。戦争だけが新聞や、テレビのトップニュースになっていることに対する疑問が微塵も感じられない。

さらに言えば、意見広告を出す人々は、政治的行動の意味を取り違えているように思われる。政治家は政策と信念を掲げて、まがりなりにも選挙という審判を経て、議員になる。彼らは託されて、立法活動を行っている。その行動に不満があれば、自らが政策を掲げて民意を受けて立法活動に参加すればいい。

そうでなければ、それ以外の政治的行動は、すべて国民の一人、あるいは一人の人間としてなされるものであって、その他のどのような資格にも基づいてはならないし、実際、そのようにしか行動できない。会社に待遇改善を求める労働者は、従業員として要望するか、人間として要望するかのどちらかであり、知識人として会社と交渉するということはありえない。


もしある人が、自分が作家や学者、ジャーナリストとして世の中に知られていることを利用して、自分の政治的信念を、民意の審判を受けることもせず広めることができると信じているなら、それは影響力の間違った使い方である。そのような自らを知識人と名乗るような人は、社会の周辺にいると気取りながら、実は社会を自分の思い通りに動かしたくてたまらないだけではないか。あるいは、そういうつもりがなくても、著名人が政治的行動をとる場合には、そうした性質を帯びずにはいられない。

その危険性と責任を自覚せず、大衆を自らの信念で誘導できると信じているとしたら、どんなに純粋な気持から発する発言であっても、デマゴーグのそれと変わるところがない。


今日、深刻な政治問題、社会問題を背景に、知識人はいなくなったという議論とともに、知識人を待望する声もやはり根強い。ところが、知識人を待つ側にも、知識人になろうとする側にも、政治的指導者と知識人との相違があまり意識されていないように思われる。人々は優れた表現者に政治的意見と行動を期待する。また表現者も無自覚に政治的行動と指導までを担おうとする。

そうした一見、無垢に見える行動に隠された政治性を暴く、メディアに設定された問題の裏側を見せる、それらの問題以外の問題を知らせる、そうしたことのできる人こそ、今切実に求められているのではないだろうか。そして、そういう人こそ、サイードのいう意味での知識人という称号にふさわしいのではないだろうか

その知識人の役割は、過酷で孤独。なぜなら人々が解決しようとしている問題設定に疑問を投げかけ、人々が見ていない、見ようとしない問題をあえて表に引きずり出すから。知識人が受けるのは、羨望と賞賛ではない。嘲笑と罵倒。あるいは、そうした反応があるだけましかもしれない。たいてい、そういう人の言葉はまったく無視される。にもかかわらず、その道をすすむ人。自らを名乗らず、懐疑と暴露を続ける人間。知識人への報酬は、天涯孤独な境遇だけ。


いや、サイードの議論に素直に従えば、知識人という概念を悲劇的な英雄のようにとらえることは間違っている。異なる立場になったつもりで考えること、自分が差別、抑圧、収奪する側にいるかもしれないと点検すること、ほかの人が気づいていない苦しみや悲しみに気づくこと、それを必ずしも言葉でなくても自分の方法で表現し、ほかの人へ知らせること、そして行動すること。これらは特別な訓練を受けた人間や、特殊な境遇にいる人間しかできないようなことではない。

少しの想像力と少しの知識、少しの感性と少しの自覚。それさえあれば、誰でも知識人になる一歩を踏み出せる。サイードは特別な人間ではない。その一歩を踏み出した先人の一人にすぎない。彼も、はじめは子どもだったのだから。




uto_midoriXyahoo.co.jp