鶴見俊輔と希望の社会学、原田達、世界思想社、2001

知と権力の社会学、原田達、世界思想社、1994

戦争が遺したもの――鶴見俊輔に戦後世代が聞く、鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二、新曜社、2004


鶴見俊輔への私の関心は非常に両義的。この数年の読書をふりかえると、鶴見俊輔と関わりのある人物の本をたくさん読んでいる。鶴見との対談も読んでいる。ところが、鶴見本人の文章はあまり読んでいない。読んではいても、どちらかというと否定的な感想を残している。実は、『鶴見俊輔集』(筑摩書房、1991)も何冊か読んだ記録が残っているけれども、感想は残していないし、内容もあまり覚えていない。

要するに、私は鶴見俊輔と似た関心を持ちながら、鶴見俊輔本人には無関心であったり、むしろ反発するところさえある。これはなぜか。鶴見俊輔の中にある何が私を引きつけ、また遠ざけているのだろう。

ネットで検索し知識人論から鶴見俊輔を研究する本を著者自身のサイトで見つけた。そこで鶴見についての研究書と、その枠組みとなっている知識人論、そしてもう一冊、鶴見が自分史を語り下ろした新しい鼎談を借りてきた。

鶴見に対する両義的な関心の理由について考えることは、いわゆる戦後思想や知識人に対する私の、自分でも気づいていない意識に気づかせるのではないか。読みはじめる前には、そんな期待もあった。


これまで正面から向き合うことのなかった鶴見俊輔について、ひととおり三冊を読み終えて感じたことは、彼は徹底したアナーキストであるということ。アナーキズムとは、ここでは無強権主義、無権威主義、無制度主義のこと。反マルクス主義者で反唯物論者、そして強烈な唯名論者という印象も残った。

鶴見は、名前と顔を知っている人をとても大切にする。その人の作品よりも、その人と交わした会話や、その人と過ごした時間を大切にする。そして、名前と顔を知っている人については、ほとんど否定的な感想を残していない。

つまり、彼は人を属性で評価しない。たとえ目の前の人が社会的に差別される立場にあっても、そういう理由だけで同情したり憐れんだりしない。

たとえば金芝河のように、その人が尊敬に値すると鶴見が思えば、憐憫よりも先に尊敬の念が立つ。

   そういう人(金芝河)を相手にしていると、抽象的に朝鮮人を差別してはいけないとか、朝鮮人はかわいそうだとかいうのは、まったく超えてしまうよね。そんなことを考えているこっちのほうが、よっぽどかわいそうなんだ(笑)。(「第三日 アジアの問題と鶴見良行」『戦後が遺したもの』)

同様に、相手が自分を侮蔑している場合には、社会的に差別されている立場にある人であっても、そのような人間としてみない。たとえば、士官向け慰安所で彼を見下したジャワの女性に対する態度にこれがみえる。

よく知っている人を徹底的に擁護する一方で、面識のない人はばっさりと切り捨てる傾向もある。もっとも、直接に知り合い誤解が解けると、つまり、名前と顔を知ると、それまでの評価を修正する度量の広さもある。

ただし、この度量の広さは柔軟ともとれるし、軟弱ともとれる。あれほど反抗した父親でさえ、和解すれば「仁義」を切る相手になる。この点は鶴見の危うさであり、自らはタヌキを信奉する彼の人柄の魅力の源泉でもある。

人物をほめるときは名前で、けなすときは属性で、これが鶴見の基本。鶴見は、よく東大出はダメという定式を持ち出す。それでいて、丸山眞男は「いい人」と評価する。もちろん、そこには鶴見なりの基準があるに違いない。しかし、彼のように影響力のある「知識人」がこのような形で人物評価をすると、丸山眞男の偶像化を促し、ひいては個人崇拝のような事態を招きかねない。

丸山眞男を評価するなら、ただ丸山はいい仕事をしている、彼はいい奴だ、と言えば済む。どんな学校を出ても、いい奴とそうでない奴がいると言えばいい。それが言えないのは、鶴見の病的な反一番病のせい。「東大出はだめだけれど、丸山はいい」のような表現からは、個人の資質のいろいろな側面や個々の仕事ではなく、人物そのものを○×で評価する傾向が生まれかねない。

このように鶴見には、個人をほめるときにわかりやすく刺激的な表現を使う。そうした表現は対談のなかでは活き活きと伝わり、また多少度が過ぎていても、会話のなかで修正されることもある。


ところが文章のなかでは、鮮明な図式が一人歩きしたり、かえって陳腐に見えたりすることもある。

たとえばしばらく前に読んだ『ハンセン病文学全集4 記録・随筆』の解説に見られる施設の内外を単純に分ける図式や、ハンセン病に関連して次に手にした『神谷美恵子の世界』(みすず書房、2004)にある「神谷美恵子管見」の「神谷美恵子は聖者である」という書き出しの断言。この一文を読んで、私は「山口百恵は菩薩である」という文章を思い出した。こういう文章は、名コピーとはいわれるかもしれないけれども、ここからある人物の聖俗や裏表まで抱えた真実の全体像が見えて来るとは思えない。

正直に言えば、私は鶴見の対談は面白いけれども、文章はあまり好きではない。結論を急げば、彼は文章の人というより会話の人という気がする。鶴見の言葉はつねに彼が名前と顔を知る誰かに向けられている。書き言葉であっても、不特定多数ではなく、名前と顔を知る人間に向けられている。

言葉をかえれば、鶴見の文章を理解しようとするならば、良くも悪くも、彼に名前と顔を覚えられるような人間にならないといけない。

鶴見俊輔が会話を重視するのは、彼が名前と顔を重視するアナーキストであることと同時に、彼がアメリカで知的成長をしたこと、そしてその後、異人として日本に帰国したこととも関係しているように思う。会話という行為は、きわめてアメリカ的な意味合いを含んでいる。

アメリカ的な意味での会話というのは、同質の相手と一つの主題について語り合うことではなく、異質な相手とさまざまな、あるいはばらばらなことについて話すこと。雑談とも言えるし、丸山眞男はこういう対話をすることを「だべる」と呼んでいる。

つい最近、リービ英雄のエッセイ集『アイデンティティーズ』(講談社、1997)を読んでいて、アメリカ的会話とはこういうものかと考えさせられた。

   文壇もなければ対談もない、しかも残虐なほどに話者と話者の間に大陸の大自然という名の距離のある国アメリカでは、逆に、大きなテーマについての電話の会話が、日本の「対談」以上に内容が充実していることは、まれだがときにはあるのだ。(「最後のエッセイ」)

鶴見はプラグマティズムを学んで帰国した後、日本政治思想史を研究している丸山眞男と出会ったとき、最初は用語や思考方法がまるで違うことにとまどった。やがて会話を通じて互いに学び打ち解けあったことを、鼎談でもうれしそうに回想している。

異質な相手と会話を交わしながら、名前と顔を覚え、「仁義」を果たしたくなる「いい奴」を見つけていく。これが鶴見流の知的交流と言えるかもしれない。


ところで、徹底的に名前と顔にこだわる鶴見に対し、人間は個人個人であると同時にある社会的な属性をもっているという批判ができる。そして人はその属性ゆえに戦争に動員されたり差別されたりする。上野千鶴子は鼎談を通じて、終始この立場から批判を加えている。しかし、上野の語る人間には顔と名前が浮かばないので、鶴見の活き活きとした人間観察の前では有効な批判になっていない。

また、特攻もいとわない生真面目な少年兵と新兵を殴らない怠け者の老兵ではどちらを好きなのか、小熊英二も鶴見に詰め寄るけれど、名前と顔のない属性で相手を判断することは、鶴見の流儀ではないだろう。問題は、鶴見がどのような人間を好むかではなく、彼が出会った人間に何を見出してきたか、にある。


鶴見俊輔の思想に対する私なりの批判は、戦争へのこだわりにある。彼は軍属として戦争に参加した体験から、「私は人を殺した。人殺しはよくない」という命題を戦後に生きる出発点とした。鶴見の命題は、目の前にいる敵を殺せるかという直接的な問題を指す。

戦争の残した心の傷は直接的な殺人だけではない。遠藤周作『深い河』に出てきた仲間の屍を食った兵士、こうの史代『夕凪の街』に出てきた瀕死の人たちを踏み潰して逃げた少女、吉田満『戦艦大和ノ最期』に出てきた特攻隊の生存者、そして米倉斉加年『大人になれなかった弟たち』に出てきた、赤ん坊のミルクを飲んでしまった兄。

彼らは敵を殺すかどうかを問うことはなかった。そのかわり、生きるために人を、しかも名前も顔も知っている人を犠牲にして生きのびた。このような間接的に人を殺す、救いを求めている人を見殺しにすることに対する苦悩は、戦場の友敵体験とは少し違う。

鶴見俊輔が何を生きる課題にしていたかは問題ではない。それは彼個人の問題。問題は、彼が表現し、活動した戦後思想の場では、直接的な殺人の問題ばかりが脚光を浴びたために、間接的な殺人の問題がひょっとすると見過ごされたのではないかということ。

この疑問は、彼の思想の問題というより、戦後に生まれ育った私の思想の問題。なぜなら、いわゆる平和憲法下の日本国に生れた私にとっては、戦場で直接敵を殺すことよりも、競争や管理のなかで名前と顔を知っている人を虐げながら生きのびることのほうが、より切実な罪の問題となっているから。

私は、本来自力で考えなければいけないものを見過ごしてきた。戦中世代には、戦争が大きな実体験だった。だから、そこを思想の出発点にした。でも私はそうではない。戦後生まれは、直接戦争を知らないにもかかわらず、戦争体験者の「戦後思想」に引きずられる形で戦争を、「兵士として敵を殺す」点を、すこし重要視しすぎたのではないか。

ひと言だけ、言い過ぎを承知で書けば、直接敵を殺さない、という戦後思想が目指した命題は、戦場で殺さなければいいという原則に曲解されて、いわゆる一国平和主義と揶揄される考え方に収斂された。また、強硬な経済進出や現地での不当労働を正当化させた一面もあるのではないか。

例えば、朝鮮戦争の特需が戦後復興を早めたことを肯定的にとらえる考え方も「間接的な殺人」を見落としている。

幸福なことに、現代の日本において戦争は「日常の思想」を占領していない。「日常の思想」とは、自分の身近に思想の主題を見つけること。鶴見に見習い、名前と顔のある人とともに生きる思想を探そうとするなら、鶴見の日常ではなく自分の日常に問いを見出さなければならない。


では、自分の身近とは何か、そもそも自分は何者か。名前と顔のある自分は、世の中でどこにいるか。ここから「知識人」と「民衆」の問題がでてくる。

鶴見は民衆を「人びと」と呼ぶ。「人びと」は群れではない。なぜなら、そのなかに彼が名前も顔も知り、自らの生活を切り開いている個人がいるから。そういう人は、必ず一人一人の名前で呼ばれる。

「人びと」という見方は、民衆のなかに知識人的な個人がいることを想定している。ということは、この考えを裏返せば、「知識人」と呼ばれる「人びと」のなかに、「群れ」のような感覚をもっている人がいることも想定できる。

   「心象によって物ごとを考える」群衆は、もはや思考の「論理的関連」をうしない「支離滅裂さを示す」のであり、だから「理性の力にたよることのできない」かれらは、「激しい感情に活気づけられて」容易に「暗示」にしたがうことになる。(「第四章 知と心情の世紀末 言語の危機」『知と権力の社会学』)

ル・ボン『群集心理』の一節を援用しながら原田は民衆の一面を抉る。しかし、この一面はそのまま、ある「知識人」たちの行動を説明できる。思想的な対決が行き詰り、「とにかく自分がこのままじゃ耐えられないと思うと、もう殴っちゃうんだね」と鶴見に言われる思想家や、ある時を境に扇動的な作品ばかりを繰り返す漫画家は、知識人や表現者というより、この群集の説明にあてはまる。

民衆と思われている人のなかにも、知識人のように思索し、行動する人がいる。一方、自称他称にかかわらず知識人と呼ばれる人の行動にも、群集心理で説明がつくものがある。これは、民衆と知識人がモザイクをなしているからではない。

問題は誰が民衆で誰が知識人ということではない。自称他称はどうであっても、一人一人の中に思索したり行動したり仁義を大切にしたり、無意識に流されたり沈黙したり、平気で人を殺したりする何かがあるということではないか。

そのように考えると、鶴見は、知識人的な民衆を発見したとは言える。ただし、なぜ彼らは行動したのか、何が彼らを「転向」させたのかについて、あまり深く追究しない。この理由は、彼自身が「転向」に抵抗することで精一杯だったからかもしれない。鶴見は行動する知識人。思索と表現に沈潜する思想家とは違う。彼は、原田の言葉を借りれば「聞くこと」に、より大きな喜びを見出した。

だから、彼が発見した「人びと」の中に、あとで彼が意図しない方向へいった人がいても、彼はけっして非難をしない。彼は人の欠点をあげつらうことよりも、別の人の長所を見つける仕事を選ぶ。鶴見の仕事は、ホームランの飛距離や本数より、打率や出塁率、ひょっとすると犠打数で評価されるものかもしれない。


総じて鶴見俊輔とは、思索するというより行動する人で、表現するというより発言する人で、評価するというより発見する人、と私には映る。編集者、映画や音楽の世界ではプロデューサーと呼ばれる役割を、鶴見俊輔は戦後の日本語での思索、表現の場で果たしてきたと言えるのではないだろうか。

原田は『知と権力の社会学』で、知識人のありかたを民衆との距離感を基準にサディスティックな知識人とマゾヒスティックな知識人とに分類する。そして、知識人や権力者の立場を卑下し、その特権的地位を放棄して、民衆に近づくマゾヒスティックな知識人の一典型として鶴見俊輔をとらえている。そして原田は、鶴見に肯定的な評価をしていることからも、マゾヒスティックな知識人をサディスティックな知識人よりも高い評価を与えているようにみえる。

サド・マゾという枠組みは示唆多い。この図式は、人間の社会に対する態度を客観的に分析する。このような客観的な枠組みに加えて、知識人の態度を彼らの主観的な視点からみるとさらに興味深い分析ができる。

民衆を見下さないまでも、彼らと距離を置く知識人として、これまでの読書のなかに探すと、大学を離れたあとの丸山眞男フランスに留まりつづけた森有正戦後の小林秀雄、などが思いつく。

彼らは明らかに民衆とは異なる部類でありつづけた。一方で、彼らはそういう自分の位置づけを苦悩ととらえ、まさに自虐的にしかそれを楽しめなかったようにもみえる。彼らは、いずれも自らを知識人とは名乗らなかった。一人の思索者であることにこだわった。だから彼らの目に民衆は存在しない。

ところが鶴見の立場からみると、そういう「人びと」は知識階級の特権を享受したままで民衆を詐称しているようにみえる。

   そうです。小林秀雄についていえば、彼は東京工業大学の教授の息子として、また東大仏文科の卒業生として、特権を得ていたことをもう少し考えてもらいたかったな。
   それに、彼はアルチュール・ランボーを日本に紹介した人なんだ。ランボーは別の生き方をしているんだよ。理性を疑って、知識人ぶった特権的な判断をするのが嫌だというにしても、どうせ開き直るならもっと別の方向に開き直ってほしかったね。昔の中国の知識人とかには、「帝王我にとってあにかかわらんや」という言い方があるでしょう。政治がなんだ、国家がなんだ、「太閤様も死んだげな」という、そういう開き直り方をしてほしかったな。(「二日目 占領改革と憲法 知識人の責任」)

非政治的な表現を貫くことで、そういう開き直りを小林はした、と私は感じている。鶴見も小林秀雄を直接知れば、そういう見方をしたかもしれない。鶴見は丸山眞男に対しても同様の誤解をしている。この小さな誤解は小熊英二が対談のなかで解いている。ただちに、彼はこの修正を素直に受けいれている。

サディスティックな状態をマゾヒスティックに受容する知識人は、鶴見からの批判がよくわかる。よくわかるから、ますます内向的になる。その結果、破滅に自ら突き進んでしまうこともある。

一方、サディスティックな知識人からは、鶴見のような態度は、結局上の者が下に降りているとみえる。この問題は、鼎談でも原田の論考でも扱われている。多くの場合、そうしたマゾヒスティックな知識人は、ヴェイユのように「自虐的快楽に酔うことによってしか特権を拒否し自我をささえることができない、という危機感」をもつことになる(『知と権力の社会学』「第一章 現代知識人論にむけて 知識人の精神構造ーーサディズム的性格」)。鶴見和子にも同じことが言えるだろう。彼らは民衆に同化するために、苦労を重ねる。

裕福な家庭に育ったあと、貧民街に生きた「アリの街のマリア」こと北原怜子も、「下りていく苦しみ」を通じて自分の居場所を見つけた。

このような態度が病的になる、あるいは徹しきれずに破綻すると、民衆の中でマゾヒスティックな自分をぶちまけることになる。連合赤軍のリンチに関わった者には、裕福な家庭の出身者もいたときく。彼らは「降りていく」ことに固執し、結局「降りきれない」自分を爆発させたと見ることはできないか。もちろん、恵まれた環境を捨てて社会の底辺へ飛び込み、そこで生き抜く人もいないわけではないが、きわめて稀なこと

では、鶴見俊輔はどうか。彼は確かにマゾ的に民衆との距離を縮めようとするけれども、そこにはまったく悲壮感がない。むしろ、それを存分に楽しんでいるようにみえる。この点こそ、鶴見俊輔がほかの知識人や活動家と違うところ。

鶴見は自分の享受したさまざまな特権や資本をマゾヒスティックな活動に活用した。病的な一番病嫌いだったから、父親の一番病のおかげで手に入れたものは散財してしまおうくらいに思っていたのかもしれない。


現代は、大衆社会。その担い手は、実際は知識人ではなく、大衆自身。大衆を先導するのも大衆。ロック歌手、俳優、コメディアン、漫画家、スポーツ選手。大衆の感情に訴え、生活を刷新するのは、必ずしも高学歴者ではない。

そういう状況に、知識人を自称する者はどうするか。いくつかの方法がある。一つは、大衆に距離を置き、わが道を行く。伝統的な知識人のあり方。

次は、大衆にわかる方法で伝える。対談、新書、テレビ。三つめの方法、大衆のまねをする。漫画や歌謡曲について語る。批評して、それがわかる自分を誇示する。そして四つ目、大衆的指導者を知識人と呼ぶ。対談の相手にする、大学の教員にする。賞をあげる。

芸術家、とくに初めから大衆と距離のある古典芸能の表現者も大衆社会に対しこのような態度をとる。もちろん問題はその程度。テレビに出て名前を広めたり、自分の世界に話題を集めたり、ほどよくマス・メディアを利用する人もいれば、いつの間にか、本業を離れマス・メディアに呑みこまれる人もいる。

鶴見は早くからラジオのコメンテーターもしていたらしい。漫画についても、早い時期に語りはじめている。鼎談ではべ平連の活動にテレビを利用したことも明らかにしている。鶴見は、いわゆるタレント文化人のはしりといってもいい。

彼が、現在の多くのタレント文化人と違うのは、誠実なプロデューサーであることをやめなかったところ。鶴見俊輔以降、彼のスタイルを模倣する人は多い。けれども、彼のように誠実に仕事をこなしているか、疑問のわく人も少なくない。

各界の異才と次々対談して本を量産する。話が弾むのは、アメリカ的な会話のせいでなく、互いを褒めあうだけのトーク・ショーだから。辛口というキャラを身にまとい、ばっさり人を評価する。でも、ほめるときには属性で、けなすときには名前で、というのでは、新しい才能を見つけ出すことはできない。

誰か一人というわけではない。そういう「群れ」をちらほら見かける。彼らも確かに楽しそうにしている。でも、マゾヒスティックな状態を楽しんでいるようには見えない。むしろ、彼ら自身が大衆の一人に溶け込んでいるようにみえる。

現代では名前が顔ではなく、属性を代用する。小林秀雄という名前は、一人の文学者ではなく、その名前で奉られている偶像を指す。坂口安吾は、「教祖」という言葉で名前の属性化を非難した。その後のマス・メディアの加速と拡大は、民衆にまでもキャラという属性を押しつけている。


陰か陽か、といえば、鶴見俊輔は間違いなく陽の人。伝記を読めば苦労は多く、うつ的な気質ももっているけれども、外に向けた態度は、いつもあっけらかんとしている。どちらかといえば、内向的な表現を私は好むから、こういうところが鶴見に対するわだかまりを残すのかもしれない。

しかも楽しげに、圧倒的な文化資本をハイ・ローラーのギャンブルに惜しげもなく賭けている様子を見ていると、みすぼらしいわが身をふり返り、意味もなく恨めしく思ったりもする。

それでは大臣の息子で、ハーヴァード大卒で、外向的なマゾ的知識人から学ぶものはないかというと、そんなことは全くない。小熊英二よりも若い私の世代は、日本で生まれ育った人であればそれだけで、世界のなかでみると全員が知識人といってもいいくらい恵まれている。実際、途上国の人びとと会って、鶴見やそれ以前に永井荷風が感じたような引け目を感じる人は、日本での学歴に関わりなく少なくないだろう。


原田は『知と権力の社会学』のあとがきで、次のように書いている。

   いまやわたしたちは「大」知識人にはなりえない。いかほどか制度の網の目のなかで生きつづけるしかないのが、現代の「知識人」である。ただそのばあい、「知識を武器にする」ことの意味だけは最低限押さえておきたいと思う。すくなくともそのような「反省性」を、わたしのような「知識人」でももちつづけてよいのではないか。

私は、原田の自省に敬意はもちながらも、私自身については違う感想をもつ。

いまや私は「群れ」の民衆ではない。教育と経済成長のおかげで自分を生きることができるのが、現代の「民衆」。そうかといって、どれだけ努力をしてみたところで「大」知識人になれるわけではない。そんな人はもうどこにもいない。まず「知識を武器にする」可能性を探る「冒険」を、私のような「民衆」は持ちつづけてもいいだろう。

だから私が目を背けてはいけないのは、原田が自戒する「知識を武器にする」ことのダークサイドではなく、私自身に潜む「群れ」のダークサイドのほう。

「知識人」対「民衆」という図式じたいが古いという見方もあるかもしれない。人間を属性から見るかぎり、それは当たっている。原田も指摘するとおり、典型的な「知識人」も「民衆」はもうどこにもいない。おそらくは、いままでもいなかったはず。

人間を属性で分ける図式に意味はない。しかし、人間の資質として考えれば、「一人」対「群れ」という図式は、今でも、というより、社会の全体が大衆化し、同時に成熟している現代にこそ意味がある。「知識人」対「民衆」という図式は、このような読み替えができると思う。

そして鶴見俊輔は、徹底的に「群れ」のなかから「一人」を見つけだすことにこだわり、それを楽しんだ。とすれば、鶴見俊輔において、すでに図式は単なる図式では片付けることのできない躍動的な性質をもっている。

人間の資質として「一人」と「群れ」を考えるなら、原田が提起するサド・マゾも個人に潜む病的な資質とみることができる。自分のなかにいる「一人」や「群れ」に対してどのような立ち位置で接するか、サド的な面もあればマゾ的な面もある。また、その位置とは別に主観的な態度にもサド、マゾがありうる。

その際、サド的マゾ的、どちらに傾くか、それはおそらく自分の意志だけでは決められない。どちらに行っても、「一人」に到達する道もあれば、「群れ」に落ち込んでいく恐れもある。

「知識人」ではないのにサド的に「民衆」を見て、それでいて内向的にくずれやすい私のような性格には、まったく反対の性質をもつ鶴見俊輔の姿を意識することが崖っぷちで命綱になるかもしれない。

鶴見俊輔の思想が「希望」を表わすとすれば、私にはそういう意味だろう


さくいん:鶴見俊輔