夕凪の街 桜の国、こうの史代、双葉社、2004


日ごろ読んでいるブログのどこかで話題になっていたのか、『夕凪の街』という書名はいつの間にか覚えていた。最初にどこで知ったか、もうわからない。「夕凪」という言葉が急に気になりだして、書店へ行ってみると平積みになっている。ビニルで包んであるので立ち読みもできないし、コミックは図書館にないかもしれないので、買って読むことにした。

この本の書評を書くときは、この物語についてどう思うかよりも、この物語を読んだあとで何を思ったかを書いたほうがいいように思う。著者もそう期待している。

 そして誰より「夕凪の街」を読んで下さった貴方、このオチのない物語は、三十五頁で貴方の心に湧いたものによって、はじめて完結するものです。これから貴方が豊かな人生を重ねるにつれ、この物語は激しい結末を与えられるのだと思います。そう描けていればいいと思っています。(「あとがき」)

小説でもマンガでも映画でも、すぐれた作品は針穴のようなもの。具体的な表現から普遍的な何かが見えてくる。具体的な出来事を誇張する拡大鏡ではない。普遍的とは、どこにでも当てはまるということではない。どこにでもあるということに過ぎない。


そう考えると、あとがきの期待は言わずもがなにも見える。でも私がそれに気づいたのは、ごく最近のこと。作品は、小さな出来事や埋もれた人々を拡大して見せるものと考えている人は、今でもきっと多い。とくに本書のように戦争を題材にすると、あまたの体験談の一つに数えられて、「そういう人もいたのか」で終わることがある。体験を直接していない人は、特にそういう感想をもつ傾向があるように思う。

一方、体験した人は、実際はこうではなかったと表現と体験を比較するだけに終わりがち。それでいて、直接的な体験談は体験を誇張しただけのネタや語りになりやすい。大切なことは、見聞きしたり、学んだりしたことも含めて体験がどう表現されているか、その表現から何が導き出されるか。

こうのは、作品が陥る罠をよく知っているのだろう。あるいは、彼女自身、多くの戦争物語や体験談が内容は多種多様であるにもかかわらず、ありきたりな表現で画一的な読後感ばかりを押しつけているようでうんざりしてきたのかもしれない。だから彼女は、その罠を避け、複雑な感想をもたらすために緻密な作品をつくりあげた。


2017年1月15日追記。

本書に続く「広島」と「戦争」の物語、『この世界の片隅に』のあとがきで、実際、こうのは書いている。

   わたしは死んだ事がないので、死が最悪の不幸であるのかどうかわかりません。他者になった事もないから、すべての命の尊さだの素晴らしさだのも、厳密にはわからないままかも知れません。
   そのせいか、時に「誰もかれも」の「死」の数で悲劇の重さを量らねばならぬ「戦災もの」を、どうもうまく理解出来ていない気がします。
(あとがき)

網の目のように張り巡らせた伏線、繰り返される同じ構図、行ったり来たりの複雑な時間の流れ。密度の高い作品は、物語のこちら側、すなわち、読者である自分の内側にある何かへ読者を誘う。

ここまでは、言わずもがなの蛇足。ここから感想。35ページの白紙のなかに私が見たもの。同じ体験のなかにある多様と別の体験のなかにある相似、そして、その先にある多様。どちらもこの話には書かれていない。でも、想像してしまうほかの人たちのこと。


「夕凪の街」では、皆実と打越は結ばれずに話が終わる。今度は、打越が生き残った後ろめたさを背負う番。

愛する者を失い、ヒロシマという街の名前の重みと生き残る後ろめたさを受け継いだ打越は、どのように戦後を生き抜いただろう。「桜の国(二)」の遠景に登場する髪の薄くなった男の表情から、いろいろなことが想像できる。

少なくとも原民喜「心願の国」のような悲痛な結末ではない。物語の中のこととはいえ、それだけでもほっとする。

もし皆実が生きのびていたとしても、それで即"happily ever after"というわけではない。気持ちを受け止めたはずの打越が、ふとついたため息を耳にしてしまい、皆実が絶望的な気持ちになるというドラマも想像できる。そして、そのわだかまりを乗り越えて絆を強めるドラマも。

戦争体験、被爆体験と括ることができても、内容は人それぞれに違う。この物語でも皆実と母親の8月6日の行動は違う。とすれば、その受け止め方もそれぞれ違うはず。

皆実は生き残ったことに後ろめたさを感じ、それが恋愛をためらわせていた。同じように後ろめたさを感じていても、ためらいより恋の歓びを先に感じる人もいるかもしれない。

恋は、するものというより、してしまうもの。そうして、戻れないところまで行ってから、本来、健全な恋愛感情を、後ろめたさを忘れていたことと、生きる歓びに図らずも満たされてしまったことの二重の罪悪感を感じてしまう人もいるのではないか。

つまり、「私が忘れてしまえばすんでしまう事だった」と皆実が思ったことと同じことを、「私はどうして忘れていたのだろう」と、後になって戦慄とともに気づく人もいるだろう。生きのびることで精一杯の生活をくぐりぬけた人には、そういう人のほうが多いかもしれない


今年の夏、被爆60年の特集記事のなかで、在米被爆者の記事に目がとまった。戦後いろいろな経緯から渡米した人のなかには、終戦直前、広島や長崎にいたことを黙っている人も少なくないという。意図して隠してきたというよりは、語る暇もなく過ごしてきたというほうが実情に近いのではないか。

彼らは、秘密の露見と病気の発症の二重の恐怖に怯えている。記事では触れていなかったけれど、皆実と同じような生き残った後ろめたさを抱えた人もいるに違いない。忍び寄る病い、老いの恐怖、そして、目に見えなくても消えていない偏見。それを和らげるのは、身近な家族の理解と記事は伝えていた。

このような多重の苦悩を抱えているのは、被爆遺族に限らないのではないか。秘密を隠しとおさなければいけないという切迫感同じ病気にとりつかれているのではないかという不安、そして生き残ろうとした自分の狡猾さと、自責の念を封印して生き続けている自分の傲慢さに耐えかねる苛立ち

そんなふうに幾重にも重なる苦悩を抱えている人は戦争以外の場面にもきっといる。そして、その数はおそらく少なくないし、現代では増えてさえいるのではないか。彼らは白紙のページで、名づけられるときを待っている。


社会的弱者は、共通点を見つけて名前をつけることで、団結したり、制度的な救済を受けたりできる。しかし、名前は両刃の剣。もともと一人一人違うはずの体験や境遇が名前をつけることで一括りにされてしまう怖れもある。

個人の体験から抽出したはずの名前が一人歩きしはじめ、学問の言葉や政策の言葉になり、個人個人を括り、縛るようになる。やがてメディアの言葉、さらに流行の言葉になり、人々を分類し、区別し、切り分ける刃物になる。

そして、言葉が消費され、疲弊し、磨耗し、衰退するとき、一人一人の体験は消えていないのに、言葉は捨てられる。経験が置き去りにされる。癒えていない傷跡に、さらに切りつけられた深い傷が残る

在米被爆者の場合、救済制度がある日本が遠いために、ヒバクシャという名前だけ重くのしかかっているようにみえる。


あるいは、こう考えることもできる。ある人々に名前がつけられるのは何かの問題を抱えた人が無視できないほど多くなったから。つまり、このような場合、名前ははじめから個人を救うためではなく、集団を囲い込む目的でつけられる。この場合、名前は個人の質ではなく集団の量を表わす

こんなことなら、名前をつけられないでいたほうがいいのではないか。

ヒバクシャ以外にも、アダルト・チルドレン、不登校、ニート、LGBT、それから、あれもこれも

どの言葉も、社会的な弱者一人一人を守るために作られたはずなのに、いつの間にか、たくさんの人をまとめてポイと投げ入れるクズ籠になっている。名前があって助かった人と同じくらい、名前をつけられて苦しんでいる人もいるのではないか。



読後、まだ名前のついていない感情があなたの心の深い所を突き刺します。

本書の帯にある言葉。この作品の魅力を的確に表現している。白紙のページを見て湧いてきた感情は、こうして感想を書き残すことで、形が与えられ、名前がつけられる。こうのが予告したとおり、私の中に湧きあがった感情は激しいものだった。そう思える人は豊かな人生を重ねてきたという彼女の言葉を信じたい。

つけられた名前は、もう一度、白紙のページを開くときに、名前のない感情にもどる。そうして何度でも、名前は白紙に返る。言葉は名前のない感情に帰る。言葉にならない生々しい感情が、読み返すたびに湧きあがり、名前を求める

この本は、何度も忘れ返し、何度も読み返す作品になる。そう描けている。