土を掘る 烏兎の庭 第三部
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8.12.06

トラウマ・歴史・物語 持ち主なき出来事(UNCLAIMED EXPERIENCE: Trauma, Narrative, and History, 1996)、Cathy Caruth、下河辺美知子訳、みすず書房、2005

トラウマの声を聞く 共同体の記憶と歴史の未来、下河辺美知子、みすず書房、2006

二十四時間の情事(Hiroshima, mon amour, 1959)、Marguerite Duras原作・脚本、Alain Resnais監督、Emmanuelle Riva、岡田英次出演、Georges Delerue音楽、カルチュア・PB、1990


中井久夫にはじまった、トラウマについての読書の続き。いままで行くことのなかった精神医学の棚で、一冊の本から、一本の映画を知り、訳者の新刊を手に取った。

カルースと下河辺は、新しい医学用語であるトラウマを、文学や歴史、思想史の世界にも転用できる概念にしようと試みる。つまり、トラウマは言葉こそ新しいけれども、その考え方は古くからある、つまり、普遍的なものと二人は考えている。

この基本的な立場に異論はない。とはいえ、本来個人の病状を説明する医学用語を人文・社会科学の世界にそのまま用いることには、躊躇する。


大学生のころ、いまは文庫本にもなっている岸田秀『ものぐさ精神分析』(青土社、1978)を読んだ。政治や社会の事象を精神分析を通して説明してしまう鮮やかな論法にはじめは感心しながら読んでいたものの、次第に納得できないようになり、終いには胡散臭い感じすら覚えた。

アメリカはこう、日本人とはこういうもの。何でもばっさり説明するけれど、アメリカとは何か日本人とは誰かは、きれいに説明してはいない。政府なのか首脳なのか大統領個人なのか。国民なのか住民なのか。主語の概念をはっきりさせなければ、述語がどれほど明快でも、内容は怪しい。


カルースと下河辺にも、トラウマという概念を共同体に当てはめるために、人々のつながりを過度に重視しているように感じるところもある。そもそも共同体という言葉が、集団という言葉以上に精神的なつながりを重視していることを表している。

共同体の集約度はどれほどなのか。周縁は、ほかの共同体とどのように入り交じっているか。異端や逸脱はいないか、どのような立場にあるか。共同体について考えるには同時に共同体ではない度合いについても考える必要がある。

いずれにせよ、トラウマという概念を人文・社会科学の世界に置き換える作業ははじまったばかり。ほかにも留意すべきことはある。例えば、下河辺は、トラウマという医学用語が人の時間感覚をコントロールする権力として作用することを指摘する。

   現在という時間の中で観察できる症状と、過去に体験した出来事との間を結びつけ、その間に「発症」という脈絡を確保することは、医学という科学の欲望である。治療とは医学の権力の中に患者の症状を取り込み、その症状を軽減・消失させようとする行為なのである。医学という学問や治療というシステムの時間感覚は、現在の症状には何か理由があるという前提に支えられている。そのためには、過去で過去で滞っている時間を現在へ向けて流れるようにしなければならない。治療側の時間は過去から現在へ流れるものなのだ。(「1 PTSDをめぐる時間の旅」)

医学は、人の時間の感覚を支配する。そのうえ、似た症状の人々に病名を名づけて一絡げにする。人文・社会科学は、トラウマ概念の権力性に抵抗する足場になるだろう。

けれども、個人に目を向ければいいというものでもない。映画『二十四時間の情事』を見ていると、個人が、とりわけトラウマを抱えた個人が脆く、個人の尊厳をいともたやすく投げ捨ててしまう悲惨を思わないではいられない。


見慣れない実験的な映画も、カルースが一章を割いた詳しい解説のおかげでじっくり見ることができた。流暢に聞こえる岡田英二のフランス語が、意味も考えずに丸覚えして喋っていただけという事実には驚いた。

日本の広島とフランスのヌヴェール、家族の喪失と恋人の惨殺、戦場と占領、敗戦と解放、建築家と女優、男と女。いくつもの越えがたい違いがありながらも、映画のなかの二人は溝を埋めていく。カルースは、その過程と結末を好意的にとらえている。

   フランス人女性と日本人男性の対話の中で鳴り響いていたもの、そして、文化や体験の間にある溝を越えて二人を通じ合わせていたもの、それは二人が直接には理解しあえないという認識から来たものである。映画全体を通じて二人を結びつけることを可能としたものは、いまだ完全にはつかみとられていない体験、いまだ語りつくされていない物語の、謎に満ちた言語である。相手のことについて知っているというだけでは、二人が情熱的な出会いの中で語り合い、聴き取りあうことはなかったであろう。自分たちのトラウマ的過去について十分に知らないという基盤に立つとき、二人は語り合い、聴き取りあうことができたのだ。(「第二章 文学と記憶の上演」)

映画を見たあと、私に残ったのは、もっと悲観的な感想。

確かに二人は、理解しあえないと諦めた崖っぷちから歩み寄りはじめているかもしれない。しかし、その断崖は相手も同じ体験をしていると信じる、言わば同情という金網で守られてもいる。二人の語り合いは、トラウマという共通の体験、いや、体験そのものでなく、体験を共有しているという期待に基づいている。意地悪く言えば、傷の舐め合いでしかない。

二人は、実はそれぞれに家庭をもっている。もし、理解しあえない者が理解しあえないことに同意することで理解しあうことをはじめるというのなら、それぞれの、一度は誓いを立てた相手との間で同じことができないのだろうか。

映画の最後、二人は抱き合い、互いを呼び合う。でも、呼び合うのは相手の名前ではなく、ヒロシマ、ヌヴェールという地名。各々で異なる名前と経験をもち、かけがえのないはずの個人が、ここでは、地名で表される記号にすりかえられてはいないだろうか。あるいは、このとき相手は、深く見つめる対象ではなく、トラウマという共通項を通して結局は自分自身を見つめ返すための鏡でしかないのではないか。出身地の地名で呼んで、人間を理解することになるとは、私には思えない。

結末のあと、二人はどうなるのか。新たな秘密を抱えて、それでも身支度を整え、それぞれの日常に帰っていくのか。それとも、永遠に逃避行を続けるのか。想像は見る者に委ねられてはいるけれど、陰鬱な音楽は希望的な余韻は残してくれない。この暗い曲は始まりにも流れていた。音楽は、ジョルジュ・ドルリュー


トラウマを抱える者は、トラウマを抱える者としか通じ合えないのだろうか。しかもこの映画は、背徳的な関係を不必要に匂わせている。

確かに、さまざまなトラウマには、それぞれの自助活動がある。似たような体験を持つ人々と語り合うことに臨床的な意義もあるだろう。それでも、最終的には、まったく異なる体験をもつ人々のあいだへ入っていかなければ、社会に生きることにはならないのではないだろうか。

そのとき、同郷とか、同じ趣味とか、ただ気が合うとか、いろいろな形で人々と関わりあうに違いない。人と人を結ぶものは、体験の有無や共通項の多さだけではないはず。

体験が似ている、という感覚は主観的なものに過ぎない。ある体験は共通であっても、建築家と女優がすべての体験を共有しているわけでは、もちろんない。また、フランスに残してきた家族、雲仙に行っている家族が、似た体験をもっていないと決まっているわけでもない。しかも、カルースに従えば、似た体験がないのであれば、そこを出発点にして人は理解し合うことができる。あるいは、そうするよりほかない。

要するに、トラウマを治すにも癒すにも、あるいは傷を育てる庭を耕すなど、どう言うにしても、そのきっかけは非日常ではなく、日常生活に見出さなければならないし、実際のところ、きっかけは生活のいたるところに転がっているものに違いない。


人間には、体験を象徴化、普遍化する能力がある。それは記号化と紙一重で、それを通じて集団化を促す一面があることも否定できない。もちろん、象徴化、普遍化を通じてまったく異なる経験をもつ個人と個人が通じ合うことも、人間の営みだろう。

こうの史代『夕凪の街』で、男と女は、職場の同僚だった。戦争の体験はまったく同じではなかったけれども、まったく共有不可能なものでもなかった。打越は、自分の体験に引き寄せ、相手を思いやり、「気にすることはない」と皆実に言った。皆実は、その言葉を聞いて安堵した。


医学や社会科学は、それぞれ違うはずの個人個人を共通項でまとめて集団や共同体として扱う。その一方で、文学や映画などの芸術作品は、個人の体験を社会に還元できない固有のものとしてとらえがち。もしくは、主観的な相似に頼って近い人遠い人を決め込むこともある。

どちらも行き過ぎると、社会に生きる個人という人間のごく自然なあり方を見失う。

トラウマを治すべき病気としてだけでなく、人間が個人として存在する拠りどころと見るならば、なおさら、トラウマを集団の病理とみなす見方には慎重さがほしい。



uto_midoriXyahoo.co.jp