土を掘る 烏兎の庭 第三部
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7.29.06

心的外傷と回復(Trauma and Recovery, 1992)、Judith Lewis Harman、中井久夫訳、小西聖子解説、みすず書房、1996


心的外傷と回復

トラウマについての本を引き続き読む。本書は、トラウマ概念を知る基本書と言われている。読んでみると確かに教えられることが多い。著者は使命感にあふれていて熱意も感じられる。とはいえ、本書はあくまでも医学書。中井久夫のエッセイのように、医学の知識に基づいて思索を深め、そのうち医学そのものまで思索の対象としてしまう本とは性質が違う。一読して違和感が残ったのは、そのことに気づいていなかったから。

本書は、トラウマの定義、症状の事例、治療の方法、そして回復の過程と進む。ずっと平易な『トラウマを乗りこえるためのセルフヘルプ・ガイド』(白川美也子監修、山本知子訳、河出書房新社、2006)も、これと同じ構成だった。

本書の目的は明快。トラウマを治療すること。その目的を優先するために、トラウマの定義も回復の定義も暫定的なまま論述は進む。

中井久夫の場合、若い頃から、診断→治療→回復と直線的に進む、医学のイデオロギーに対しての疑問が見られる。

   このことと関係して重要なのは、現代が要求する人間の「性能」の厳しさのために、かなりのパーセントの人間が意義のある仕事に参加できなくなりつつあることである。たとえば、精神病の治療は今日非常に進歩し、多くの精神病が事実上治るようになった。しかし問題なのは、現代社会のさまざまな非人間的な側面にも耐えられるようにまで「治ら」ねばならないことである。社会復帰は、社会の方の壁が高くなってゆくために、ますます困難となりつつある。(「現代社会に生きること」『関与と観察』、みすず書房、2005)

これは著作の意図に違いがあると考えた方がいい。定義やイデオロギーのあり方を問題視する人文・社会科学的な視点から本書を批判することは的外れだろう。


本書は、「ここにその人の回復は完成し、その人の前に横たわるものはすべて、ただその人の生活のみとなる。」で結ばれている。著者の目標地点は、中井が模索する地点よりずっと低い。言葉を換えれば、日常生活もままならない患者が少なくないのだろう。事態は思ったよりずっと深刻らしい。

無数の事例は、気が進まず、あまり読まなかった。事実を多く知ることが、正しいとも、有益とも最近は考えていない。目を背けている事実は案外、身近にある。そちらに目を向けることのほうが、できそうでいてできていない。


明確な目的をもった医学書でありながら、トラウマという概念が、現代的で社会的で、政治的な性質を帯びていることが、本書を読むとよくわかる。

政治的ということは、集団的ということ。本来、個人個人が一人一人でかかる病気が、集団的に扱われ、それが精神に関わるがために、気の弱い人々を一まとめにして操作する。こういう危険性が、トラウマという言葉にはある。

最近では、事故や犯罪、災害が起きるたびに、トラウマやPTSDの懸念が報道され、「心のケア」が求められる。しかし同じ状況であっても誰もがトラウマを抱えるわけではない。

もともと健康だった人がもともと健全だった社会にいれば、深刻なトラウマを残さずに回復し、元の日常生活に戻れる可能性は高いはず。病気になるぞという暗示のせいで、弱った人がかえって病気になるようなこともあるのではないか。

しかも、ハーマンによれば、トラウマは遅れて発症する。ところが、マスメディアは事件直後にトラウマの懸念を騒ぐ。ほんとうにケアが必要になるのは、事件や災害の記憶が風化しはじめた頃。とくに子どもでは、数年単位で学校が変わるため、数年前にあった出来事の追跡は難しい。

また、トラウマの原因となる戦争、犯罪、災害などは、規模が大きいほど深刻な社会問題となる。問題を解決するため、と言って、いろいろな人々が関わりはじめる。一人が苦しむ病名が、集団を作ったり、運動を支えたり、要するに政治の言葉になる。

また、トラウマの診断も保険医療との兼ね合い、つまり経済政策と密接な関連があるという。この点でも、病気は容易に政治の言葉として使われる。


本書は、あくまでも医療の立場から日常生活もままならない一人一人の治療について考える。とはいえ、トラウマが医学の言葉から政治の言葉になる可能性は本書にも見て取れる。ハーマンの熱意が、皮肉にもそれを助長しているところもある。

本書を読んでいると、医療現場や、そこへ至る戦争や家庭内暴力の現場の激しさと、マスメディアが散布している俗流のトラウマという言葉のあいだには大きな隔たりがあることがわかる。


現代は政治化の時代。そして、世界経済化と情報化の時代でもある。

身近で些細な出来事も、政治的な意味を持たされ、金額に換算され、風と桶屋ほどに隔たりのあるところと関係のあることが、思いもかけない経路で知らされる。

純粋に個人的な出来事も、純粋に心の問題というものもない。心の病気は政治的に利用され、政治家は「心の問題」で政治的な問題を片付けようとしている。

まず必要なことは、政治、経済、情報の網に絡めとられている心を取り出すこと。心の問題は、一度、純粋な心の問題としてとらえたほうがいい。でもそれだけでは終らない。そのうえで、政治、経済、情報にまみれた現実世界に戻して、心の問題を人間の問題として考えなければならない。

人間は、一人で存在している。とはいえ、社会的な関係のない人間もいない。つねに両方の局面でとらえなければ、人間を理解したことにはならない。


本書を読んで気づいたことをもう一つ。加害者の有無という点からみると、トラウマは三種類に分けることができる。犯罪被害、災害被害、それから、強制収容所などの全体主義体験。

犯罪被害には、明確に加害者がいる。この場合、トラウマ患者は医学だけではなく、法律からも保護を受ける必要があるし、その権利もある。本書は、フェミニズムの立場からこの種類のトラウマに多くのページを割いている。

災害被害の場合、明確な加害者はいない。犯罪のように加害者を訴追することはできない。その代わりというわけではないけれど、災害被害者は集団で発生するので、被害者のあいだに助け合いが起こりやすい。また、この場合、行政の保護の対象になる。

問題は、三つ目のトラウマ。本書で複雑性PTSDと言われるような症状を起こす収容所体験や搾取の体験、前線、銃後に関わらず戦争体験もここに入る。

このトラウマの場合、患者は被害者でもあり、実は加害者でもある。つまり、両義的な性格をこの種類のトラウマはもっている。

もとよりトラウマ患者は、恥と罪の意識にさいなまれると言われる。全体主義体験者の場合、何らかの事実(他人には何でもないことに見えても)にもとづいて意識されるため、より強迫的になるのかもしれない。その事実はたいてい、法律や行政によって解決されない。道徳や倫理の問題として残る。

このトラウマは、病気だろうか。症状としては生活を脅かす病的なものかもしれない。しかし、中身を取り除いて片付くような問題ではない。

三つのトラウマは便宜的な分類に過ぎない。犯罪被害者や災害被害者にも罪責感はあるという。三つの性質と言いかえたほうがいいかもしれない。被害でも災難でもない、要するに単なる負の出来事ではすまされない何かがトラウマには残るような気がする。


トラウマの三番目の性質について、ハーマンは症状の観察から、複雑性PTSDという新しい概念を提唱している。犯罪や災害のように一度の出来事ではなく、長期にわたり抑圧的な状態にあると、対人関係がなくなり、将来を思い描けなくなるという。空間的にも時間的にも世界が極端に狭くなる。もちろん、犯罪や災害でも、事後の救済が遅れれば同じような状態になる。

生き延びた喜びと生き延びてしまった後ろめたさ。悪を暴露したい意志と悪に染まった恥辱。長い時間が、傷つけるというよりは、心を押しつぶしてしまう。ハーマンは、こうした両義的な感情を「心理的外傷の中心的弁証法」と呼ぶ。

   身の毛のよだつ怖ろしい事件を否認したい意志とそれを声を挙げて言い触らしたい意志との相剋は心理的外傷の中心的弁証法である。残虐行為を生き延びた人々はしばしばそのストーリーを非常に感情的に、矛盾を含み、断片的に語るので、その信憑性が下がるが、信憑性を下げることによって、<真実を語れ、されど秘密を守れ>という双子の絶対的命令に奉仕しているのである。(「序」)

こうした感情が強まり、極端に世界が小さく感じると病的な状態、つまり、日常生活もままならない状態になる。もっとも、病的なのは症状だけであり、心的外傷の弁証法そのものが病的なわけではない。だから、回復の後、叫ぶか黙るかは自動的に決定しない。治療過程では、叫ぶ、語る、表すことが、原則として密室の状態で行われるにしても。


2006年9月8日追記

トラウマには、犯罪や被害だけでは片付けられない何かがある。その何かは、医療や法律や政治では解決できない。それは、ただ不幸な出来事だけではなく、より一般的な意味で、過去をどのように受け容れるかという普遍的な問題と重なっている。

こんな風に考えるのは、最近読んだ、島崎藤村の評伝『知られざる晩年の島崎藤村 島崎藤村コレクション2』(青木正美、国書刊行会、1998)にハーマンのいう心理的外傷の弁証法によく似た言葉を見つけたから。

   思へば、過去は何時活き返らないともかぎらない。わたしの「破戒」の中には二つの像がある。あるものは前途を憂ふるあまり身をもつて過去を掩はうとし、あるものはそれを顕すことこそまことに過去を葬る道であるとした。この二つの間を往復するものもまた人の世であらう。(「再刊『破戒』の序」)

この言葉は、最初の原稿に、追記した別の原稿用紙を丁寧に貼り込んであるという。

藤村は、過去にこだわることがそれ自体病気とは考えていない。しかも、忘却暴露、いずれが正しいとも即断していない。藤村の立場は、それを考えることに大きな意味を見出している。

過去の出来事について語りたい気持ちと隠したい気持ち。告白と秘密。こうした二律背反は、人間が人間であるかぎり持っていて何の不思議もない心理ではないか。だからそのどちらかを追求するばかりではなく、そのあいだにとどまり、あえて両端を往復することも、人間的な営みと藤村は考えている。

過去を葬るとはどういうことか。評伝によれば、藤村は晩年、「過去を忘れるんじゃあないんだね。過去を葬るということをようやく気がついたんだよ」と妻に語ったという(「14 藤村七十一歳」)。

「葬る」という藤村の言葉の意味が、私にはまだわからない。


中井久夫は、トラウマをしばしば失恋にたとえる。もし恋愛が対等で、充実したものであればあるほど、失恋は一方的な加害や被害ではない複雑な感情を残すだろう。そして、その思い出は痛みであると同時に、心の糧にもなるに違いない。

病的な症状から脱したあと、目の前に横たわる「その人の生活」。ようやく抜け出した重苦しい記憶は、そこでどのようにして心の糧となりうるのか。日常生活のなかで過去を葬ること、と言い換えることもできるだろう。

トラウマという言葉は新しい。でも、過去を葬る道は多くの人がたどった古い道だろう


さくいん:中井久夫



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