最後の手紙

烏兎の庭 - jardin dans le coeur

第五部

公園のすすき

11/29/2015/SUN

心的外傷後成長ハンドブック: 耐え難い体験が人の心にもたらすもの(The Handbook of Posttraumatic Growth: Research and Practice, edited by Lawrence G. Calhoun, Richard G. Tedeschi, 2006)、宅香菜子清水研監訳、医学書院、2014

マイ・レリジエンス、中島幸子、梨の木舎、2013

PTG(Posttraumatic Growth)の概念自体はわからないことはない。逆境をバネにして強くなる、ということはトラウマ体験だけに限らず、日常的にもあることなので、驚きはしない。

しかし、それを人に押し付けてはいけない。「いい経験になった」と自分で思い返すのはよい。苦しんでいる人に向かって、ほかの人が、まして高いところから「いい経験だった」「ここから成長できる」と諭すことは苦しんでいる人をさらに苦しめることになりかねない。

前にも書いたことがある。強制収容所から解放された人に「いい経験だったね」とは言えないだろう。戦場から帰還した人に「戦争がよくわかったから平和の重みがわかったでしょう」とも言えない。

大切な人を失くした人に、「生命の大切さがよくわかったでしょう」と言う人はいない。いないでほしい。しかし、実際は、そんな風に逆境に耐えることや、それを克服することを押し付ける人は少なくない。

例えば、喪失体験のあと悲嘆に苦しんでいる人に「もう忘れなさい」「これだけ時間が経ったのだから、しっかりしないといけない」など。言う方はほんの軽い励ましのつもりでいても、聴くほうにとっては苦しみを倍増する効果しかない


PTGは両刃の剣。本書に関わった医師や研究者も認めている。

PTGはある程度錯覚なのかもしれない。しかし、このような錯覚は、影響力がありかつ人生を豊かにするものでもある。人生の暗黒期における、人間としての成長の体験は、スピリチュアルな体験の始まりへと進展しうるが、それはわれわれの世界観を根底から変えるかもしれないし、そうではないのかもしれない。
(第9章 死別と心的外傷後成長 総合的考察)

スピリチュアルな体験」となると、ますます医療からは遠ざかる。学問としても別の扱い方が必要になるだろう。


PTGの研究に意味があるとすれば、どのような性格、生活環境や人間関係を持つ人がPTGを得やすく、どのような人が得られにくいかを分類する要件を明らかにすることではないか。

本書は、PTGが起きるかどうかは、外傷体験以後の環境ではなく、それ以前の環境や生活に依存すると指摘している。

予想されていた人生の行路がふさがれると、本当に重要な問題と折り合いをつけ「開眼する」ことが必要になる。しかし、筆者は、人間として成長を遂げるためには、その前に成長の基盤が築かれていなくてはいけないということを主張したい。また、考察する際は、対処、特に感情焦点型対処の機能を過大評価すべきではない。他者からのサポートを見つけられる、他者に心を開ける、寛大で希望に満ちた態度でいられる、といった個人の資源をもっていることは重要であり、これはPTGが生じるための必要条件である。
(第9章 死別と心的外傷後成長 総合的考察)

その要件がわかると、PTGを得ることが難しい人がわかる。そこから、そのような環境下にいる人に対し、どのような特別な介入・支援が必要か、わかってくるだろう。

その場合、介入や支援はPTGを促すために行うものではない。PTGが得られない状況にいる人に、緩やかに「日常生活への回復」を助けるものになるだろう。


レリジエンスという言葉は、PTGと同様、トラウマグリーフ(悲嘆)ほど、知られてはいない。簡単に言えば、自己治癒力ということだろうか。意味合いはPTGに近い。従って、この言葉を使うときの注意点もPTGについてと同じになる。

自己治癒力という考え方は、新しいものではない。医学以外でも、格言めいた表現で使われている。

(人生におけるつらい体験は)どんなにその人にとって受け入れがたく、つらく、苦しいものであっても、その人の魂はそれに取り組む力を内包している。それに取り組むことこそが、その人の人生の道の仕事。その仕事あってのその人なのだ。それに取り組んでいく過程すべてが道であり、それによって自分を表現し、生活し、文化をつくり天と地とつながり、自分の精神、魂を自由にしていくことを可能にしていく。
親のしごと 教師のしごと――賢治の学校の挑戦、鳥山敏子、法蔵館、2000

言葉で理解することは、難しいことではない。しかし、精神的に参っているとき、「あなた自身のなかに回復するための力がある」と言われても、励ましととるか圧力ととるか、いろいろな条件によって微妙に変わってくる。いつ、誰が、どんな会話の流れで、言うのかによって、受け止め方は大きく違うだろう。専門家はもちろん、親しい間柄でも、安易に口にすべきではないと思う。

過酷な体験をもちながら、自身の力で道を拓き、同じような苦しみをもっている人への支援をするまで強くなれた著者には敬服する。でも、同じようにできる人は、私を含めて多くないだろう。

もともとスポーツ選手だった人ならば、病気や怪我が治ればスポーツ選手に戻れる。もともとスポーツ選手ではなかった人が病気や怪我をしたのなら、スポーツ選手になるためには怪我を治したうえでさらに努力をしなければならない。

病気や怪我を治すだけでアスリートになれるはずがない。PTGを支持する人は、病気を克服するだけで、強い心が持てるかのように説く。それは、自然の理に合わない。


回復は、それぞれの方法で、それぞれ必要な時間をかけてすればいいと思う。

医療は、何よりも、患者の立場から考えてほしい。それは、心の病気に限ったことではない。


12月2日追記。

書店でPTGとレジリエンスに関する新刊を見つけた。書名は:

  1. レジリエンスの教科書: 逆境をはね返す世界最強トレーニング
  2. レジリエンスは身につけられるか: 個人差に応じた心のサポートのために
  3. 目次と中身をすこし立ち読みした。私が懸念していたことが、すでに起きている。

    前者は、PTGを生産効率や、社会衛生の面からとらえている。これは非常に危ない。

    休息を必要としている人を無理やり、競争に飛び込ませるか、PTGを目指して努力しない人は「怠け者」として放置されかねない。あるいは、PTGが起きない人は、ただでさえ不安定な心境にあるのに、PTGが起きないことで自分を責めてしまうかもしれない。

    『心的外傷後成長ハンドブック』でも、その懸念はすでに書かれている。

    PTGは普遍的なものではない。既存の量的な調査によると、PTGの出現率は3〜100%と幅があり、PTGを遂げる人が少数派になることもあれば、多数派になる場合もある。
    <中略>
    また、悲劇を体験するとPTGがもたらされるという考えが広まることによって生じる負の影響も存在する。たとえば、心的外傷を経験したにもかかわらずPTGが起こらなかった人が「なぜ自分以外の多くの人はPTGというすばらしい体験をしているのに、自分はそうではないのか」と考えてしまうことなどが挙げられる。
    (第1章 心的外傷成長の基礎 どの程度の正の変化が「成長に値するか?)

    後者の本は、自己治癒力を普遍的にとらえるレジリエンスの考え方に疑問を投げかけている。

    トラウマ概念の嚆矢と言えるハーマン『心的外傷と回復』は、「ここにその人の回復は完成し、その人の前に横たわるものはすべて、ただその人の生活のみとなる。」と結ばれている。治療の目標は、「ただその人の生活」であり、ストレス社会で何も感じない心をもつことではない。

    トラウマ患者が回復後に、さらに強い心を持ちたいと思うことはあるだろう。それは、治療とは別の作業であり、治療の延長線上にあるものとは思えない。

    PTGとレジリエンスには、要注意。軽々しく語る人や本には警戒したほうがいいだろう。


    2016年1月16日。PTG再考