最後の手紙

烏兎の庭 - jardin dans le coeur

第五部

大学の散歩道

11/22/2015/SUN

グリーフケア入門: 悲嘆のさなかにある人を支える、高木慶子・上智大学グリーフケア研究所編著、勁草書房、2012

悲嘆の中にある人に心を寄せて -人は悲しみとどう向かい合っていくのか- 、高木慶子・山本佳世子、ぎょうせい、2014

トラウマ」という精神医学の専門用語は、阪神淡路大震災のあと、一般の人々にも広がったと言われる。、グリーフ、あるいは悲嘆、それを和らげるグリーフケアという言葉も最近は新聞でも見かけるようになった。東日本大震災が大きな契機になったのだろう。

新しい専門用語とはいえ、グリーフケアについてはすでに専門書から一般向けまで多くの本が出版されている。これまでに何冊か読み、専門書では『癒しとしての痛み―愛着、喪失、悲嘆の作業』『喪の悲しみ』ほか、何冊かについて感想文を残している

グリーフケアについても、急速に周知されたかわりに、正しい理解とはいえない見方も同時に広まった。また、グリーフケアの研究は、トラウマ研究に比べてまだ歴史が浅く、専門家のあいだでも十分に議論が尽くされてないところもあるようにみえる。そうしたところにひっかかりを感じてしまい、「グリーフケア」そのものを拒絶するような人もいる


重要なポイントが二つある。一つ目。グリーフ、すなわち、大切な人や物(ペットや長年使ってきた品物でも)を失くしたときに悲しい気持ちになるのは、人間にとっては自然なことで、正常な反応ということ。

上記の二冊のうち、前者は、グリーフ研究の最新成果をまとめた、やや専門的な本。後者は、それを踏まえたうえで一般向けに、研究の成果を噛み砕いて書いている。


トラウマ同様、喪失の受け止め方も乗り越え方も、人それぞれに異なる。多くの人は、グリーフケア、ないしは専門家の介入がなくても、悲嘆を乗り越えて新しい生活をはじめることができる。葬儀や法事や墓参は、新しい生活を始めるために一歩ずつ登る階段になる。

その一方で、悲嘆が長引いたり、秘密にされていると、悲嘆は人間の心を内側から侵食する。例えば、自死や同性カップルの死別のように社会的に「公認されない死」がそれにあたる。

   通常、死別の直後に感じるような激しい喪失体験が、一周忌(研究者によっては六ヶ月)を超えて遷延している場合、「病的な(pathological)」悲嘆ないしは「複雑性(complicated)」悲嘆と言われ、心理学的ないしは精神医学的援助の対象とするのが一般的である。近年では病的悲嘆という言葉よりも、複雑性悲嘆という言葉の方を用いることが一般的である。というのは、このような状態は質的な異常ではなく、正常な悲嘆と同一線上にある量的な異常であると考えられているからである。
(『グリーフケア入門』、第5章 臨床心理学における悲嘆、横山恭子)

悲嘆それ自体はまったく異常でも特別でもない人間の生理的反応。ただ、その人の置かれた環境や、喪失の状況によっては、特別な支援を必要とする。


今回読んだ2冊の本では、グリーフケアの実践方法や専門家の養成法についても詳しく論じていている。

私が注目したのは、『グリーフケア入門』の「第6章 グリーフケア研究の動向」(森俊樹)。

これまでの研究では、悲惨な出来事の体験から回復することは、一方通行で考えられてきた。研究者や宗教者により、段階の数は違えど、悲嘆は複雑なものであっても、いずれは解消され、人は回復し、新しい人生を生きはじめる、そう考えられてきた。

『グリーフケア入門』の「第6章 グリーフケア研究の動向」で紹介されている新しい考え方は、一方通行の段階ではなく、二つの心境を行ったり来たりしながら回復に向かうとする。

二つの心境は「回復性コーピング」「喪失志向コーピング」とそれぞれ呼ばれる。「コーピング」とは「取り組む」ということ。悲嘆と向き合う心の持ちよう、ということらしい。

   回復志向コーピングは、死別体験がもたらす二次的なストレスに対して取り組まれるコーピングであり、死別体験後に訪れるさまざまな生活の変化に適応するためのものである。これには、家計や家事などの生活に関わる問題に対して立て直しをはかることや、これまで妻や夫、親といった立場の役割から新たな立場へと自らの新しいアイデンティティーを発展させていくことなどが含まれている。
   喪失志向コーピングは、故人との関係や絆について為されるコーピングであり、例えば、故人や生前の故人との生活、そして死別という出来事について反芻(rumination)することや、故人について思慕(yearning)し写真などを眺め、故人について思うあまり泣いてしまうことなどが含まれる。
(第6章 グリーフケア研究の動向 5 二重過程モデルの意義)

二つのコーピングを行き来しながら、悲嘆は少しずつ「複雑な」、そして自分では制御できない感情から、自分を支える「思い出」に変わっていく。


本書の要旨を離れて、二冊の読後に私が考えていることについて書く。

中井久夫、は『徴候・記憶・外傷(sign, memory, traum』の中で、トラウマの解消について次のように書いている。

   敢えて言えば、言語的な語りとして自己史を統一することは絶対的に必要ではなく、また必ずしも有益でもない。むしろメタ記憶の総体の連続感をほぼ満足できる程度に維持する、あるいは修復することが現実的な目標であり、ある意味ではより高次な目標ではないだろうか。(「発達的記憶論」)

この考え方は、悲嘆との向き合い方についても言えると思う。悲嘆はなくなるものではないし、なくさなければいけないものでもない。とりわけ死別の悲嘆の場合、故人の思い出はいつまでも大切にしたいものだろう


前にも一度書いたこと。最近、事件や災害が起きると、マスコミや行政はすぐに「心のケアが必要」と言い出す。しかし、「心のケア」は喪失体験のすぐ後だけに必要なものではない。むしろ、半年や一年、場合によっては何十年も過ぎたあとでも、心の奥底で燻っている悲嘆こそ、丁寧で親密な支援を必要とする。その頃には、マスコミはもう違う事件を追いかけている。

冒頭に書いたように、悲嘆は段階的に「解消」されるべきものとみる考え方が、「グリーフケア」という言葉とセットになって広がっている。本書のような新しい研究が、わかりやすく、そして広く伝わってほしいと思う。

マスコミには、そういう役割を期待したい。


さだまさしは、「SUNDAY PARK」(『私花集』、1978)で、「こんな密かな悲しみ方があってもいいだろう」と歌っている。

“Grief”や「悲嘆」という言葉は知らなくても、その気持ちを表現する言葉を、30年以上前から私は知っていた。