硝子の林檎の樹の下で 烏兎の庭 第四部
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2012年6月


6/2/2012/SAT

君と僕の挽歌、さかいゆう、アリラオジャパン、2012

フォローしているツィートに教わった。さかいゆうの名前は知らなかった。

さかいゆう「君と僕の挽歌」。悲嘆を率直に歌っている。PVでは誰もが亡くした人を想い、全身で悲しむ「手放し泣き」をしている。しっとりと涙が流れるのではない。横隔膜が揺さぶられ、しゃくりあげるような嗚咽。制作者は深い悲嘆についてよく観察し、よくわかっているのだろう。

そんな泣き方を私はほとんどすることがない。そんな風になるのは、飛行機に乗り、懐かしい音楽を聴いたときだけ


言ってみれば、過去の出来事、とりわけ喪失体験について「心の整理」ができていないと、こういう作品は作れないだろう。作者もインタビューでそう答えている。思いだけが突っ走ると単なる感情の吐露になってしまう。

どんなに深い悲しみも、心の整理ができなければ、目に見える、音に聴こえる「作品」に仕上げることはできない。

しかし、作品に託すことは悲嘆の終わりと直結するわけではない。作品化するということは、表現とは、思いを自分の外へ押し出すということ。ドイツ語では文字通り“Ausdruck”、「外へ押し出す」という。つまり、思いが作品にされるとき、その思いは自分の身体からも心からも出て行ってしまう。これは、悲嘆の表現に限ったことではない。

「悲嘆」という個人的な体験ではとりわけその落差は大きい。その作品が世の中に受け入れられればなおさら、作品は独りで歩きはじめ、作者自身から離れていく。

悲嘆を形にすることは、心の整理を意味する、と同時に、それは新たな悲嘆のはじまりも意味している。『土佐日記』を書いた紀貫之は、「書いても書いても悲しみを書きあげることはできない、破り捨ててしまおう」と記した。特攻隊の生き残りだった吉田満も、「書いても書いても」という題名で亡くなった戦友の追想を書いている。


「精霊流し」をはじめとして1970年代に発表されたさだまさしの初期作品には喪失と悲嘆をテーマにしたものが多い。おそらく、強烈な実体験があったものと想像はしていたものの、私が熱心にさだまさしを聴いていた70年代から80年年代にかけては、私の知るかぎり、表立って語られることはなかった。少し前の朝日新聞土曜版で若いときに親しかった従兄弟を亡くしたと記事になっていた。

こういう逸話、いわば、「創作の源泉」が具体的に明かされるということは、心の整理がついたということなのだろうか。


「精霊流し」というと、つい最近になってオフコースの「忘れ雪」(1974)という曲を知った。まだ売れていなかったころの二人にレコード会社が「二匹目のドジョウ」を狙い無理矢理に歌わせたらしい。小田和正と鈴木康博には気にいらなかったらしく、ライブでも歌われなかったと聞く

ところが、この曲、作詞は松本隆、作曲は筒美京平、そして歌はオフコース。私には絶妙の取り合せ。この冬にはよく聴いた。本人は気に入らない曲がヒットしたり、思い出深い曲になることはよくある。


「君と僕の挽歌」についてもう一度。

PVの制作者だけではなく、作者のさかいゆう自身も悲嘆についてよく考え、そのうえでこの曲を書いたのだろう。たとえば、「どんな大人にボクは見えるかな」という言葉や「キミならどうした」というフレーズに共感を覚える。「こちらは空見上げるばかりさ」という歌詞もいい。耳心地がいいので、ここのところしばらく、毎日繰り返して聴いている。

ちょっと違うな、と思うところもないわけではない。

歌い出しの歌詞、「淋しさは続くだろう/この先も」とある。続いていくのは「さびしさ」ではなく「悲しみ」ではないか。いや「ここにいない」事実を深く思うとき、感じるのは「悲しみ」より「さびしさ」なのかもしれない。「悲しみ」と「淋しさ」はどう違うか。即答はせず、考えてみることにする。

「調子どうですか」という節も面白い。もし私が歌詞を書いていたら、音符に合わせて「調子はどう」としてしまうだろう。「どうですか」を短い音符に切り詰めることで日本語らしくない、あえて言えば日本語が外国語のように聴こえる「逆空耳」効果がある。“what'ya doin' in the sky?”と聴こえなくもない。最近のいわゆるJ−POPではそのような言葉遣いが多い。

「逆空耳」の始まりはどこにあるか。私の音楽体験では桑田佳祐『KEISUKE KUWATA』(ビクター、1988)、とくに「路傍の家にて」だろうか。荒削りではあるけれど、さらに前の佐野元春『VISITORS』(epic, 1984)も「日本語に聴こえない日本語」だった。ラップを日本語に取り入れた開拓的なアーティストはほかにもいるだろう。私はあまり知らない。

この歌では、「別れの瞬間」に込み上げてきた言葉は「ありがとう」だったと歌っている。荒井由実は「けれど幸せ」と歌っていた。それを嘘とは言わない。彼らにとってはそうなのだろう。

私にはまだ、「なぜ?」という言葉だけが延々と響いている。


6/4/2012/MON

シングルコレクション 2002-2008、ハンバート ハンバート、ミディ、2010

ギターとコーラス、ときどきハーモニカ。シンプルで楽しい。「椰子の実」島崎藤村作詞)に「生活の柄」(高田渡)、それから「プカプカ」(西岡恭蔵)

カバー曲の選択に共感できるということは、彼らの音楽に私の好みがちょうど合っている、ということなのだろう。

そこからはじまり、オリジナル曲もどんどん好きになっていく。


6/9/2012/SAT

優しい音、三輪優子、せきねゆき絵、小峰書店、2010

ある中学三年生の進級から卒業までの一年間の物語。去年の春に読んだときは感想を書けなかった。最近、ふと読み返したくなり、図書館でもう一度借りた。中学三年生の話を読みたくなったのは、娘が中学三年生になったこともあるかもしれない。彼女と同じように私も5月に京都・奈良へ修学旅行へ行った

読み終えて最初に思ったことは、こんな中学生いるのかな、という軽い疑問。主人公の女の子、千波はどこにでもいそうな女の子だけど、もうひとりの主人公「潮風」は、大人びている、そして、冷静すぎる

同じことを映画『耳をすませば』を見たときに思った。主人公の雫は、将来に悩み、友情に悩み、そして恋に悩む。でも、もうひとりの主人公、聖司は中学生とは思えないほど落ち着いている。バイオリン作りの職人を目指すという設定も常識的な中学生のイメージとはかけ離れていた。

でも、それは自分の尺度でしかない。中学生の子どもに聞いてみると、勉強も運動も抜群にできて、そのうえリーダーシップもあり皆に尊敬されている“スーパー”な人もいるという。


私自身の中学時代を思い出してみると、千波の気持ちがよくわかる。同級生の言葉、一つ一つに気を揉み、それでいてクラスで起きている人間関係の相克には疎いまま、大きな事件があったことをあとで知ることも少なくなかった。

この性格は大人になっても変わらない。会社のなかでの複雑な人間関係をリストラのあとで知ったりしていた。

本書を読み、中学三年生の頃のことを思い出しながら「友達の片思い」というどこかで聞いた言葉がよぎった。

体育や音楽の授業のように別の場所である授業の前には、友だちの準備が済むまで私は待っていた。ところが、私が遅れて支度をし、気がつくともう教室には誰もいなかった。

桜田淳子も歌った中島みゆき「しあわせ芝居」に「電話してるのは私だけ/あの人からくることはない」という言葉があった。大人の恋ではないものの、気持ちはこの歌の言葉と同じだった。

そんなことに気をまわすことじたいが自意識過剰なのだろう。この癖も大人になっても変わらない。「飲み会」を提案するのはいつも自分、ほかの人が誘ってくれることはない。そんなことを気にしている。

さみしがり屋で人に会いたい癖に、自分ばかりが声をかけていると「片思い」なのかなと心配してしまう。幹事役を引き受ける「言い出しっぺ」「世話役」がいると、同窓会でも何でも関係は長くつづく。そういう人は「いつも自分だけが声をかけている」と悩んだりはしないのだろう。


閑話休題。『優しい音』について。

この作品にはいろいろな文学や音楽の作品があちこちで登場する。「あの素晴らしい愛をもう一度」「チボー家の人々」「戦争と平和」「赤毛のアン」そしてモーツァルト作曲の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」。

こうした作品の名前が、いまの中学生にどんなふうに響くものなのか、あまり楽観的にはなれない。ただ、もともと読書が好きでこの本をとった中学生なら、こうした作品を知る機会にはなるのかもしれない。

私自身も「アヴェ・ヴェルム・コルプス」をこの作品で知り、今ではいつでも聴けるようにスマートフォンに常駐させている。


思い出してみれば、中学三年生の頃、私も濫読していた。世界文学こそ読んでいなかったけれども、明治から昭和までの日本文学を好んで読んでいた。

『破戒』『草の花』、『橋のない川』などを読む中学生というのも、そう多くはなかったかもしれない。

すでに放映を終了していたNHK少年ドラマシリーズの原作を読み漁っていたのもこの頃。


本書について苦言を一つ書いておく。千波の独り言で「母ったら」と書かれている。これはおかしくないか。独り言ならば「ママったら」、そうでなければ「母さんったら」だろう。

細かいことだけど、最近書かれた児童文学の作品を読んでいると、文体の一貫性が欠けているように感じることがある。説明のための「である」調と主人公の使う「イマドキ」の言葉が混同されていることもある。

もしかすると今の若い読者は「母ったら」と書いてあっても「ママったら」とルビを想像して読んでいるのかもしれない。そうであるなら、私の読み方が古臭いのかもしれない。

いずれにしろ、今の児童文学作家は“伝えたい”日本語と“使われている”日本語のあいだで悩んでいることは想像に難くない。


中学三年生のとき、もうすこし、ほかの人の気持ちを考えることができたら、もうすこし、自分の言葉がどんな結果をもたらすことになるか、思いを至らせる余裕があったら……。その空想には意味はないことはわかっている。

私がすべきことは、過去について「こうするべきだった」と嘆くことでなく、「ああなってしまった」過去から、現在の自分を建設的に振り返ることだろう。もちろん、それは過去を疑いなく全肯定することではない。

とはいえ、全肯定でもなく全否定でもなく、過去を「現在に至る行程」として受け止めるということが私にはいつまでたってもできない


6/16/2012/SAT

自死遺族を支える、平山正実、エム・シー・ミューズ、2009

さよならも言わずに逝ったあなたへ―自殺が遺族に残すもの(No Time to Say Goodbye: Surviving the Suicide of a Loved One, 1999)、Carla Fine、飛田野裕子、扶桑社、2000

「自死遺族」という言葉が一般に知られるようになったのは、『自殺って言えなかった』(自死遺児編集委員会・あしなが育英会編、サンマーク出版、2007) が出版されてからだろう。それより前に、主に自死遺族を読者に想定した本書の著者、平山正実とグリーフケア・サポートプラザによる『自ら逝ったあなた、遺された私——家族の自死と向きあう』(朝日選書、2004)が上梓されている。

著者は「自死遺族」という言葉が広く知られる前から自死の防止だけでなく、残された遺族のケアにも力を注いできた。著者は自らの意志で死を選ぶいわゆる責任自殺と区別して、さまざまな要因から視野狭窄となり自分の意志を抑制できなくなった結果を「おのずから」死ぬという意味で自死と呼ぶ

この言葉が普及したことは著者の功績が大きいと思う。切腹や殉死など形式的には自殺であっても、本質的には刑死や社会的な抹殺もある。これもこれで重い問題を含んでいる。とはいえ、平山が防止に取り組んできた現代的な自死と彼が援助してきた遺族は、そうした場合とは異なる。

本書は著者の活動のまとめ。想定されている読者は自死遺族をケアする医師やカウンセラーなど。自死遺族が読んで無益とまでは言わないけれど、読んでみたところ自死遺族を読み手として想定しているわけではなさそう。

実際のところ、自死遺族に向けて書かれた本はひじょうに少ない。自死遺族が書いた本も多くはない。もっとも、ネット上では自らの体験をつづったサイトや掲示板は増えている。


著者は自死について、「公認されない死」と説明している。「公認されない」とは、まさに「自殺って言えない」ということ。

ここには二つの意味がある。社会的に認められないということと、誰とも、親しい間柄の人とのあいだでも共有されないということ。自死遺族同士でも、そのことについて語り合うことはないということも聞く。おそらく、故人との関係も自死の原因の受け止め方も違うことを知っているため、あらかじめ傷つけあわないように、また互いに自己嫌悪に陥らないように暗黙のうちにそのことを話題にしない。

確かに「分かち合いの会」のような場では、同じような体験をした人々が慰めあい、励ましあうこともできるだろう。一方、こうした場は優れた調停者ないしファシリテータがいないと、容易に「不幸比べ」の場になりやすい。

その意味では「分かち合いの会」は自然にできあがるものと期待できるものではなく、注意深く計画され、慎重に運営される人工的な場と言える。もちろん、「分かち合い」をきっかけに何でも話せる間柄の友人を見つけ出す人もいるかもしれない。その人たちが語り合う場は、すでに「分かち合いの会」として設定される場はないだろう。

『癒しとしての悲しみ』の感想でも書いた。自死遺族の体験は、同じ体験を持たない人とはもちろんのこと、同じ体験をした遺族のあいだでも、そして、きわめて親密な間柄の人とさえ共有されない。その経験は「拒絶」され、それゆえ「秘匿」され、心身の奥底に封印される


2013年6月1日追記。

2冊の本をブクログからこのページにつながるようにした。一冊は何年か前に初めて読んだ平山の編著作、もう一冊は最近何気なく図書館で手に取った本。「何気なく」こういう本を私は手に取ることがある。

本の内容はそれぞれ、少しずつ違うものの、感想は同じところに行き着いたので同じところへつながるようにしておく。

自ら逝ったあなた、遺された私―家族の自死と向きあう、平山正実・グリーフケアサポートプラザ編、朝日新聞、2004

遺書、編集プロダクション Verb、サンクチュアリ出版、2005

自殺で遺された人たちのサポートガイド―苦しみを分かち合う癒やしの方法―(Healing After the Suicide of a Loved One. 1993)、Ann Smolin, John Guinan、柳沢圭子訳、高橋祥友監修、明石書房、2007


6/22/2012/FRI

今週はつまらないことでやる気を失くして、水曜日の夜にはラム酒をしたたか呑み、挙句のはてに木曜日はサボって寝てた。それでも、午後には布団のなかでパソコンから仕事をした

いまどきのビジネスマンは分単位でオンオフできないと、と誰か言っていた。一週間単位で気分が乱高下してるようでは、とても勤まらない。実際、まったくできてない。


6/23/2012/SAT

雨ふり花 さいた(オーディオドラマ)、末吉暁子原作、堀絢子脚本・演出、比呂公一音楽、スタジオデュオ、2004

雨ふり花 さいた、末吉暁子文、こみねゆら絵、偕成社、1998

星に帰った少女(1977)、末吉暁子、こみねゆら絵、偕成社、2003

中学生を主人公にした小説『優しい音』を読み終えたとき、ふと、何年も前に読んだ小学六年生を主人公にした末吉暁子の作品『雨ふり花 さいた』 『星に帰った少女』を読み返したくなった。想定している読者はおそらく同じ12歳から15歳くらいだろう。

図書館で借りなおそうと検索してみると『雨ふり花』にはオーディオドラマがある。そちらも一緒に借りてきた。

オーディオドラマは、予想以上に面白かった。物語は原作通り、読んだときに想像していた雰囲気もそのまま。原作では、冒頭のある場面が最終章につながる伏線になっている。文章でそれを印象づけることはなかなか難しい。あからさま過ぎては物語の先が見えてしまうし、読み手の印象に残らなければ、結末での感動につながらない。小説では「ここが伏線です」と書くわけにもいかないし、太字にすることももちろんできない。

音響作品では、さりげなくその部分を際立たせることができる。この作品では物語の鍵ともいうべき場面がその場で印象づけられているので、最終章の展開がより劇的になっている。

この作品は、末吉暁子のデビュー作だったことを再読して知った。『コロボックル』シリーズで知られた児童文学作家、佐藤さとるが跋文を書いていることも前回読んだときにはあまり気に留めなかった。編集者だった末吉に創作を勧めたのは佐藤だったという。『星に帰った少女』は発表からすでに30年以上が過ぎているけれども、物語に古さは感じられない。

この二つの作品は、発表時期は離れているとはいえ、生と死を主題にしているという点で共通している。しかも、大げさでも難渋でもなく、子どもにわかる物語を通じて語られている。いや、子どもの感じたままに生と死が描かれているという意味では、思春期の心を通じて見た死生観といってもいいかもしれない。

思春期にとっての生と死をめぐる、この二つの作品は連星をなしているように思う。


6/30/2012/SAT

名前について。

英語、とくに米国では船や建物に実在の人物の名前がつけられていることが少なくない。ロサンゼルス空港の国際線ターミナルは、かつての市長の名をもらいトム・ブラッドレー・ターミナルと呼ばれている。シリコンバレーの中心にあるサンノゼ空港は、市長や連邦政府で商務長官を歴任した日系人、ノーマン・Y・ミネタの名前を冠している。

船をみると、最近の航空母艦には一番艦と三番艦こそ海軍提督、ニミッツとカール・ビンソンをもらっているが、最新艦はいずれも大統領の名前が付けられている。ドワイト・アイゼンハワー、エイブラハム・リンカーン、ロナルド・レーガン、ジョージ・H・W・ブッシュなどなど。

日本でも、コンサートホールや大学の講堂、病院などでの用例はあるものの、たいてい苗字だけでフルネームで使われたものは知らない。しかも、その場合、ほとんど人物と縁が深いものに付けられているので、歴史上の人名を船と関連がなくても軍艦の名前に使う米国とは異なる。

日本の帝国海軍では、戦艦は武蔵、長門など明治以前の国、重巡洋艦は高雄、妙高など山、そして軽巡洋艦は川内、長良など川の名前から命名されていた。

赤城や加賀は当初戦艦として設計されたものがワシントン条約の制約から航空母艦に変更されたことが名前からわかる。同様に、最上や利根は軽巡洋艦として設計されたあと重巡洋艦に格上げされている。

現代の自衛隊でも大きな護衛艦はかつての重巡洋艦と同じく、山の名前がつけられている。ただし、いかめしさを幾分か和らげるためか、「ひえい」「はるな」などひらがなが使われている。

また、これまで旧海軍が使用していた名前は使われていなかったが、最近では旧海軍の戦艦の名前、「日向」と「伊勢」が護衛艦に使われている。命名だけで逆コースとは言わないにしても、遠慮や躊躇はなくなっているようにみえる。


日本の船で人の名前がついた数少ない例外は「しらせ」だろう。とはいえ、これもフルネームではない。「しらせ」と聞いて極地探検家、白瀬矗を思い出す人はどれくらいいるだろう。言葉の響きから白い波頭を表わす一般名詞と思っている人も少なくないのではないか。もし、白瀬の苗字が田中や鈴木だったら、砕氷船の名前にはおそらくならなかっただろう。

日本語と米語では人の名前に対する感覚に何か違いがあるのだろう。どういう違いが、どこから生まれているのか、うまく説明はできない。


もう一つ、英語と日本語の違いで不思議に思っていること。

日本ではクルマの名前にほとんどの場合、日本語以外の外国語もしくは外国語に響く造語が使われている。例外はいすゞのアスカとクルマそのものではないが、ホンダのチューニングブランドである無限くらいか。バイクにはカタナやニンジャなど日本語名が少なくない。これは、米国市場でこうした日本語が「かっこいい」と思われているからだろう。

クルマらしい名前、売れるクルマの名前に外国語風の名前をつけるのは、そうでなければ、売れない、つまりかっこよくないという感覚が業界の内外で多くの人々に共有されているからだろう。

一方、米国メーカーのクルマには、ほとんどの場合、そのまま英語の単語が使われている。例えばクライスラーの大型バンは「ボイジャー」。日本で「旅人」という名前でクルマが発売されることはないだろう。ムスタング、コンチネンタル、スティングレイという名前は日米両方で使われている。日本で「野生馬」「大陸」「アカエイ」という言葉がクルマに使われることはない。

こうした事情は英国でも同じ。超高級車、ロールス・ロイスにはシルバーシャドー、シルバークラウドというモデルがあり、日本市場でも同じ言葉が使われている。銀影、銀雲とは呼ばない。中国へ行くと、こういう直訳した名前を見かけることがある。

英語話者の人にとって、ふだん使っている言葉がそのままクルマの名前になっても違和感、ないしは「かっこよくない」という感覚はないのだろうか。中国語話者の場合はどうだろう。自分たちがふだん使っている、いわゆる母語に対して、生活感がありすぎる、自動車や飛行機など最先端の技術に名付けることに違和感はないのだろうか。

ふと気づいた。日本にも「京」という和風の名前をもつスーパーコンピュータがある。ほかにも人工衛星は、「はやぶさ」「ひまわり」など日本語の名前がつけられている。

となると、問題は、なぜ自動車だけ、外国語風の名前が好まれるのか、ということになる。どんなものに母語で名前をつけ、あるいは外国語の名前をつけるのか、それぞれの言語に何か法則はあるのか。自動車の場合、、自動車の歴史とも関係があるのかもしれない。


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