臨月(1981)、中島みゆき、ポニーキャニオン、1986


中島みゆきで最初に聴いたアルバム。「ひとり上手」がラジオからよく流れていた頃。ここから初期の作品を遡って聴くようになり、新しい作品も聴くようになった。アルバム『Miss M』の頃には、夜会と呼ばれるコンサートにも行った。

聴くたびに考えさせられるのは「友情」。この歌では友情は魂の美しい交流でなく、打算的な“Give & Take”でさえない。支えきれない存在通しの抑えきれない衝突。

救われない魂とは、「傷ついた自分のこと」ではなくて「傷つけ返そうとしている自分」という。その考え方だけでも、自分という存在の恐ろしさを十分思い知らされる。はじめて聴いたときにはそうだった。


いま聴き返してみると別なことを考える。ほんとうに救われないのは、最初に傷つけたのは自分の方だったことを思い知らされたときではないか。その悔恨について「友情」は何も言わないけれど、ほかの曲にはっきりと描かれている。

   あの人が旅立つ前に私が投げつけたわがままは
   いつか償うはずだった
   抱いたまま消えてしまうなんて(「雪」)

中島みゆきには激しい感情をこめて歌いあげる曲が少なくない。このアルバムでは、おだやかに歌う曲が多い。そういう曲のほうが私の好みにはあう。


なかでも好きなのは最後の「夜曲」。

   悲しい歌も愛しい歌もみんなあなたのことを歌っているのよ

ここで歌われている「あなた」とは誰、というより、いったいどんな「あなた」だろうか

ある特定の一人、あるいは絶対的他者というような一人。あるいは、これまで出会い関わった多くの人々。あるいは、中島みゆきにとっての私のように、見たこともなく、名前もしらない、すべての人々。

あるいは、あるいは、それらすべてをひっくるめた「あなた」だろうか。


「あなた」がたった一人のことでありながら、すべての人であるような事態はありうるだろうか。少し踏み込んで問い直せば、一神教唯我論汎神論が三者両立することはあるだろうか。

この歌を離れても、私自身文章を書きながら、いったい誰にむけて書いているのかわからなくなることがある。その問いばかりをくりかえすと、何も書けなくなる。どれか一つでも思い込んで書き上げてしまうと、そのほかの「あなた」に向けて書かれた文章のように自分でも読めてしまい驚くことがある。

つまり、私は三つの「あなた」は何らかのかたちで包み込みあっているように思えてならない。でも、そういう気持ちは、どれだけ自分のなかで説明がついていても、自分の外ではきっと誤解しかされない。

だから、こんな言い方はしてはいけないのかもしれない。では、ほかにどんな言い方があるのか。それを知るために書き続ける、と言えるだろうか。


さくいん:中島みゆき