土を掘る 烏兎の庭 第三部
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2009年5月


5/2/2009/SAT

金子みすゞ―生誕一〇〇年記念 (別冊太陽―日本のこころ)、矢崎節夫監修、平凡社、2003

金子みすゞ童謡詩集、金子みすゞ・矢崎節夫編、ハルキ文庫、1998

金子みすゞ―生誕一〇〇年記念 >金子みすゞ童謡詩集

金子みすゞを知らなかったわけではない。たぶん、ラジオや新聞で読んでいたに違いない。最初に、その名前を意識したのは、小学生の朗読の発表だった。みすゞの生地、仙崎の風景をスライドで映しながら、ときにはひとりで、ときにはみんなですっかり覚えてしまった作品を暗唱していた

それからしばらくして図書館で、画集や写真集など大型図書の置いてある棚で、金子みすゞを特集したグラビア誌を見つけた。いつもの悪い癖で、作品より先に年譜や伝記のページを読んでしまった。少しだけ耳にした彼女の作品よりも、目に留まった彼女の最期に衝撃を受けて、本は借りずに帰った。

それきり、もう金子みすゞとかかわることはないだろうと思っていた。ところが偶然に、新聞のラジオ欄で、日曜の夜、NHK第二放送で「金子みすゞの宇宙」と題した講演を放送することを知った。予約録音をして、月曜の朝、電車のなかで金子みすゞを再発見、彼の言葉で言えば、「金子みすゞの甦り」を導いた矢崎節夫自身による連続講演を聴いた。

別冊太陽を読んだときに印象に残ったのは、「甦り」を導いた奇跡的な出会いの連続ではなく、大正時代の下関のにぎわいだった。大正時代には台湾も朝鮮半島も日本国、正確には大日本帝国の一部だった。だから、日本の中心は今よりずっと西にあった。下関は、地方都市と呼ぶにはあまりに大きく、東シナ海の商業と文化の中心だった。


彼女の作品のどれを読んでも、彼女の最期を思わずにいられない。それは間違った読み方だろう。作品は、ただ作品として読まれるべきに違いない。それは承知のうえで、やはり彼女の作品のどれにも、彼女の最期が暗示されているように思えてならない。

繰り返して書いておく。作品を精神分析や心理学の対象にすることも私は好まない。文学作品の世界と作者の人生、とくにその最期だけを安易に結びつけることにも、私は反対する。それでも、金子みすゞの作品を読むとき、私は、はじめて岡真史や奥浩平、高野悦子や原民喜の作品を読んだときと同じような苦い思いが、なぜかわからないけれどもこみあげてくることを私は否定できない。たとえば、死を覚悟した前日に自分の肖像写真を撮影するという心理は、私には恐ろしくて理解できない。


金子みすゞの遺児、上村ふさえは、別冊太陽に収録されたインタビューで、母も祖母も自分も自立心がとても強かったと話し、「母も嫌なことを人に言えなかったから案外死を選んだのかもしれない」と述懐している。

金子みすゞの作品には、「いい子でいなければならない」という思いが見え隠れする。それは、古い時代の家庭で育った女性に多かれ少なかれ共通するもので、彼女だけに特別なものではないのかもしれない。

矢崎節夫はラジオ講演の中で、「みんな違ってみんないい」の「みんな」には、人をいじめたり殺したりするような人は入れない、でも、その人が心をいれかえたら、「みんな」のなかに入ることができると話していた。これは、もちろん金子みすゞ本人の言葉ではなく、矢崎の解釈にすぎない。

とはいえ、この考え方は、金子みすゞの作品から引き出すことができる主張の一つであることは否めない。つまり、こういう読み方も確かにできる。しかし、この考えは非常に危険な考え方と思う。人間をどちらかに区別するからというだけではない。もし、まわりのすべてが自分が考える「みんな」に属さないような人であったら、自分にはもう逃げ場がなくなってしまう。

気に入らない人も、許せない人も、この世に存在する人として許さないまでも、放っておく度量、そうでなければある程度の鈍感さがなければ、世の中のすべてが自分の敵に見えたり、世界の悪のすべてが自分の責任にあると思うようになりかねない

そうなると、自分がこの世界から立ち去る道ばかり見えてきてしまう

金子みすゞの詩に、そういう不気味さや手首を切るような鋭さを感じない人は幸せだと思う。そういう人を責める気はない。むしろ私の読み方がひねくれていることはわかっているつもり。


矢崎節夫が最初に出会ったみすゞの詩は「大漁」だった。この作品は、いわゆる「食物連鎖」を題材にしている。正直に書けば、この詩を読んだだけでは、だからどうなのか、わからない。動物は、ほかの動物を殺して生きる。だから、何なのか。それは、当り前のことと受け流すべきことなのか、それはひどいことだからやめるべきことなのか、それともそんな極端なことではなく、何らかの気持ちをこめて、殺しつつ生き残る生を受け止めるべきなのか。気づいてしまった以上は、その三つの道のどれかを選ばなければ、生きていくことはできない。

金子みすゞが生まれ育った仙崎では、捕った鯨たちを弔う儀式があったという。魚の弔いは彼女が発見したものではなく、彼女が育った風土にあった。

彼女も、きっと彼女なりに、殺しながら生きる生命についてよく考えていたに違いない。しかも、彼女はその不条理を人間世界のなかで考えていた。それゆえに、彼女は自分を殺すことで他の生命を残すという賭けを選んだ。

それが正しい選択であったか、判断する資格は私にはもちろんない。ただ、遺された子にとっては、いくつになっても、母親の作品が国語の教科書に載り、誰もが知るようになっても、なお悲しみは消えない。そのことは掲載された短いインタビューを読んでみてもよくわかる。彼女が望んでいるのは、生きている母が自分をほめてくれること。

『別冊太陽』のなかで、一番強く印象に残ったのは、この記事。いわゆる自死遺族の心情が、同じような立場にあるほかの人の告白と同様、遠まわしに、また断片的にだけ語られている。そのようにしか、語ることができないものなのだろう

いくつか雑誌投稿をしたあと、彼女は作品を公開することをやめた。彼女には同人もいなかった。手作りの詩集を三冊つくり、それを出版してほしいという遺言さえも残さず、彼女は立ち去った。そのことを考えるとき、私は、金子みすゞをほかの詩人たちよりも、ひとりの部屋で自分だけの世界を描きつづけたヘンリー・ダーガーと結びつけたくなる。

弟、上村雅佑は矢崎節夫に見いだされるまで、姉の作品を発表することはもちろん、姉について語ることもできないでいた。矢崎を信頼できる人と認めて、交流を深めたあとでも、ときおり語る言葉を失い、天を仰いでいることがあったと矢崎も述懐している。

ラジオの講演で、一番記憶に残ったのはそうした逸話。

金子みすゞの詩を読むとき、私はそういうことに思いをめぐらせないではいられない。

写真は、元はみどりの日、現在は昭和の日、元々は天皇誕生日に競技場で開かれたスポーツ・フェスティバルで撮ったサッカー・コート。


5/9/2009/SAT

昭和八十三年度! ひとり紅白歌合戦、桑田佳祐、ビクター、2009

私は、どちらかと言えば、記念日にこだわるタイプ。初めて何かをした日何か大きな出来事があった日、そういう日を覚えていて、特別なことをしてみる。

5月9日も、私にとっては、ちょっと特別な記念の日の一つ。今年は、家族で近所にある回転寿司に行ってみた。回転寿司に行ったのは、昨年の札幌旅行以来。空港でスープ・カレーを食べているうちに、東京へ帰る便に乗り遅れたことなど、一年前の思い出話に花が咲いた。

今年は、桑田佳祐の真似をして昭和歌謡の“My Favorite List”を作ってみようと思い前々から準備をしていたけれども、結局、間に合わなかった。

このDVDを見てから、すぐ自分のリストを作りはじめてみた。選曲にも時間はかかるし作詞・作曲・編曲・発表年などのデータを調べるにも、インターネットがあるとはいっても時間がかかる。新しい生活では、電車で本を読んだり音楽を聴いたりする時間は増えたけれども、じっくり感想を書いている時間がなかなかとれない。リストはほぼできあがっている。あとはhtmlの表に落とし込むだけ。といっても、6列51行の表に埋めていくにはまだ時間がかかりそう

ライブについての感想を箇条書き風にいくつか。83年度という言葉づかいに見られる「昭和」へのこだわりオリジナルを彷彿させながら、個性がにじみでている歌手としての桑田佳祐の力量再現芸術としてのポップス阿久悠作品の多さ、阿久悠自身は「川の流れのように」をもって昭和歌謡の結びとした。桑田佳祐が選んだ大トリは、和田アキ子ならぬ和田アキ“男”の「あの鐘を鳴らすのはあなた」。この選曲には共感した。そもそもこのDVDを買ったのは彼の歌う「あの鐘を鳴らすのはあなた」を聴いてみたかったから。

この歌にもアンジェラ・アキ「手紙」と同じように「あなた」という言葉が出てくる。むしろ、この曲のほうがずっと昔から「あなた」を中心に据えている。この「あなた」は誰か。質問した和田アキ子に、阿久悠は「これまで出会ったすべてのあなた」と答えたという。私も、この歌を聴くたび、これまで出会ってきたすべての「あなた」を思い出してみる。

ついでに書くと、和田アキ子も歌った「タイガー&ドラゴン」は、初めて聴いた。どこかで誰かがカラオケで歌っていたことは覚えている。横山剣の声は、NHKの『日めくりタイム・トラベル』で耳に覚えがある。横浜育ちを自称していながら、クレイジーケンバンドを聞き込んでいなかったのでは、モグリと言われそう。

桑田佳祐のオリジナル曲「現代東京奇譚」には驚かされた。ちょっと気になる曲。「忘られぬ面影が逝くなと呼び止める」という言葉が突き刺さる。


さくいん:桑田佳祐


5/16/2009/SAT

金曜の夜、数年ぶりで学生時代の友人と会った。場所は、西荻窪。前に近くに住んでいたこともあるのに、最近では降りることもない。改札口がきれいに改装されていて、違う駅にきたのかと戸惑う。

音楽や漫画、その業界筋にまで詳しい彼は、私に知的な刺激を与えてくれる、もともと少ないうちのさらに数少ない友人の一人。つい最近でも、ラジオを特集した雑誌を教えてくれたのは、彼のブログだった。

前に会ったのは、3年前の4月。そのときは、黒糖焼酎を呑みすぎた。今回も芋焼酎を片手に談笑しているうちに、終電の時間も過ごしてしまった。

呑みすぎたといっても、呑んでいたのは私ばかり。

楽しくなると、呑みすぎてしまうのは、いつまでも治らない悪い癖。最近は平日に控えている分、週末に楽しい時間を過ごせると痛飲、鯨飲してしまう。

彼は、いまでも新しい音楽や新しい漫画にも詳しい。興味を持ち続けていることに感心してしまう。私はといえば、音楽にしろ、漫画にしろ、ほとんど二十代までに知ったものを繰りかえして聴いたり読んだりしているだけ。そうでなければ手塚治虫『奇子』のように、昔の作品を今になって読むことがせいぜい。

最近の漫画で『庭』で感想を書いたのは、『夕凪の街 桜の国』が最後。読んだ作品で思い出してみると、去年、そのとき働いていた職場の同僚が「面白いから」と貸してくれた『聖おにいさん』(中村光、講談社)くらい。面白かったけど、感想は書き残していない。

歳をとったのかな、と思う。コマ割りされたページで文字と絵を同時に追うことが面倒になっている。映画や芝居と同じで、十代のころ、周囲につられてのめり込んでみたこともあった。『コロコロコミック』や『ちゃお』は今の住まいでもリビングに転がっている。でも、今はもう、私の日常生活に漫画はない。「マンガ・リテラシー」を失くしたのかもしれない。心地良く酔いはじめる瞬間、そんな感傷的な愚痴もこぼした。

音楽だけはかろうじて残っているか。数も頻度も少ないけれど、新しい音楽に出会って聞き惚れることは今でもないことではない。でも、彼のように次々と新しく見知った音楽の感想を書きつづることはできない。

帰りのタクシーのなかで、クルマの免許をとりたての頃、夜のドライブならこれだよ、とSteely Danを彼に教えてもらったことを思い出した

Todd Rundgrenも、一緒に行った矢野顕子のライブで吉川忠英がギターを弾いていたことも彼に教えてもらった。今回は、西荻窪で気取らない焼き鳥屋も教わった。彼には、教わることが多い。

次に会うときは、何を教えてもらえるだろう。土曜日の昼すぎ、二日酔いのまま布団のなかで、「今度は一年以内にしよう」と、再会できる日のことを考えていた。

写真は、連休の一日、スポーツ・フェスティバルで遊んだグラウンド・ゴルフの道具。


5/23/2009/SAT

ぼくたちのアニメ史、辻真先、岩波ジュニア新書、2008

ぼくたちのアニメ史

漫画はもう私の日常生活にはないと先週、書いた。では、アニメはどうだろう。

超次元サッカー『イナズマイレブン』は毎週録画しているけど、私は見ていない。子どもたちは、『天才てれびくん』に夢中で『忍たま乱太郎』は見なくなってきた。新しい『ヤッターマン』も、再放送の『タイムボカン』も、家族皆で見ることはない。

唯一、今も共有しているのは、『名探偵コナン』。テレビ版は、月曜夜から土曜夕方に移り、見やすくなった。今回の劇場版は前評判もいいらしい。期待して見に行った。この数年、映画館で見るのはこの作品くらい。

劇場版の『コナン』は、回数を重ねるごとに大掛かりになっている。脚本の完成度や、アニメーションの技術でも、また観客動員数を見ても、エンターテイメントととしては常に及第点に達成している。宮崎駿が突然に引退を宣言したり、復帰してヒット作を出したりアニメーターとして話題に事欠かない一方で、『コナン』は集団で作りつづけているので、原作者の顔が、はっきりとは映っていない。これは、おそらく出版元の意向なのだろう。『ドラえもん』は作者が亡くなってもなくならないし、『コナン』も青山剛昌は原作に名前を残すだけで、学年誌すべてに別の作家が絵を描いて連載されている。

図書館のヤング・アダルト・コーナーでふと手にした私的アニメ史の本を読んでみると興行的には成功しなくても素晴らしい作品がたくさんあるらしいことを知る。今では名作、傑作と言われている作品でも、劇場公開や初回のテレビ放映では成功しなかったことのほうが多いくらい。


日本のアニメ史をざっと読んでいて気づいたことが二つある。一つは『鉄腕アトム』にはじまる戦後の初期アニメの時代では、さまざまな分野が重なりあっていたこと。それはフュージョンと言ってもいいし、クロス・オーバーと言ってもいい。

詩人の谷川俊太郎が『鉄腕アトム』の歌詞を書いていたり、後に文学・戯曲に活躍の場を移した井上ひさしが多くの脚本を手がけている。とりわけSF作品では、筒井康隆や豊田有恒など、後になり小説で名を馳せた人たちが初期アニメ作品の原案や脚本に参加している。

これは、アニメの土台になった漫画文化についても言えるかもしれない。戦後初期の作品には古典文学に題材をとったものも少なくなかった。

つまり、アニメという舞台一つを見ても、戦後ある時期まで、教養文化と大衆文化とは少なくとも担い手においては重なり合っていた、と言えるのではないか。では、受け手のほうではどうだったのか。

私はホームズもルパンも明智小五郎も読まずに大人になってしまった。ポアロだけは映画ではいくつか見た。『アクロイド殺人事件』は読んだ。『コナン』が長年にわたり人気を維持してい理由の一つは、大人文化と子ども文化の混合、もしくは境界域、あるいは、教養文化と大衆文化の融合、要するに、戦後から1970年代までの漫画文化の雰囲気をかろうじて残しているからではないか、少なくとも私が感じる魅力はそこにある。

もう一つ、気づいたことは、1970年代、あるいは少しずれてしまうけど、昭和50年代に子ども時代を過ごした私の世代は、辻が採りあげている多くの“革命的な”アニメ作品を同時代に、つまり子どもの目で見ていたし、またその前の時代の、いわば戦後アニメの初期作品についても、再放送が多かったために、あえてレンタル店で借りるまでもなく、同時代の作品として、言ってみれば、何となく見ていたということ。何となく、とは、あえてしようとしたのではなく、生活のなかで自然に親しんでいた、ということ。悪く言えば、取り込まれていたとも言える。

70年代の新聞のテレビ欄をみると、今はニュースや情報番組が占領している夕方の時間帯に、アニメのほか、子ども向け番組が占領していたことがわかる。


少し気負って大げさに言えば、私たちの世代こそ、“ぼくたちのアニメ史”を、辻がしたような作り手からの歴史に対して、読み手、聞き手、眺め手として語るべきなのかもしれない。


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uto_midoriXyahoo.co.jp