モグリとハート


―――野球ばかりやってた奴。ダメな奴。応援ばかりしてた奴。なまけ者。これは仕方がない。
   しかし、ずるい奴、スマートな奴、スマート・ガイ、抜け目のない奴、美しい言葉で若者を釣った奴。美しい言葉で若者を誘惑することで金を儲けた奴、それで生活していた奴。すばしこい奴。クレバー・ボーイ。Heartのない奴。Heartということがわからない奴。これは許さないよ。みんなが許しても俺は許さないよ、俺の心のなかで許さないよ。
山口瞳「昭和の日本人」『江分利満氏の優雅な生活』、1963、新潮文庫、1968

プロフェッショナルとは何か、アマチュアとは何か。しばらく考えている。その思索の試行錯誤を、「メビウスの輪としての言葉――類義でもなく、対立でもなく、逆説でもなく」という批評文に、現在進行形で書き続けている。

考えながら見えてきたのは、プロは自覚的であり、アマは無自覚的であるということ。プロは意識、アマは姿勢。

わかってきたのはいいけれど、それだけ悩みがさらに深くなってきた。プロとアマの距離がどんどん広がっていくから。「メビウスの輪としての言葉」という考え方は、見たところ反対に見える言葉が、実は裏返しでつながっていること、その言葉について考えていることが、いつの間にか反対語にみえるもう一つの言葉について考えているようなこと。あるいは、両極端に見えるような二つの概念を往復するところに、あるべき姿を見出すこと。


自覚と無自覚、意識と姿勢。これらはあまりにもはっきりと対になっている。これらを両方持てというのは、チョモランマに登りながら、マリアナ海溝へ潜れというようなものではないか。両極を往復しろというのは、北極と南極のあいだを旅し続けろというようなものではないか。

あまりにも無謀で、精神論にすらならない。極端すぎるので、ほとんど何も言っていないに等しいか、すべてのことを包んでいるので、何も意味しないか、どちらにしても、これでは思想を表現する言葉としては役に立たない。


プロとアマを分けるものは他にもある。一般的には、金銭的な報酬を進んで受け取るかどうか、という点がそう考えられている。それしかできないのか、いくつかのできる方法のなかから、目的と状況に合わせて表現や手段を選んでいるか、という点も、重要であると私は考えている。

これらの違いもあまりに明白で、共存など不可能にみえる。にもかかわらず、真のプロフェッショナルには、アマチュア精神が欠かせない、のように言われる。これでは、やはり土を掘りながら星を見ろというものではないか。概念としてわからないわけではないが、プロとアマという語を使うかぎりは無理難題に響くことは避けられない。

両極端な要素をひとまとめにした言葉があれば、少なくとも、言葉の上では、そういう引き裂かれたような状態を言い当てることができる。プロとアマのあいだの往復運動、あるいはそれらを共存させるような状態、それらの逆説的な関係を一語で言い当てる言葉はないだろうか。


そう考えて、考えあぐねて、見つけた言葉が、モグリ。プロであって、プロでない。そうかといってアマではない。モグリは、プロとアマのあいだに揺れる中途半端な立場をよく表わしている。

モグリは、手塚治虫『ブラックジャック』(秋田書店、『少年チャンピオン』連載は1973年11月から1983年10月)に頻出する言葉。ブラック・ジャックこと間黒男は、外科手術の腕前では世界的権威にもひけをとらない。しかし、彼は医師免許をもっていない。

B・Jは、これまで世界中で法外な治療費を請求したり、裏社会の人間たちや、国際社会から敵視されている独裁国家の要人を手術したりしてきた。そのため、医師会は免許を与える前から、彼をほとんど追放処分にしている。B・Jは技能面では十分にプロであるが、職業として求められる資質という性質面ではプロに価しないといえる。


『ブラック・ジャック』には、もう一人、モグリの医者が登場する。寒冷の過疎地域にある山家村で小さな診療所を開いている古和井可仁(「古和医院」、新書第8巻、文庫第5巻)。古和先生は、無免許ながら、医師のいない村で住民から篤く信頼されている。風邪を治したり、老人を励ますことには長けているけれど、やはり、難しい病気は治せない。

バセドー氏病の患者の診察と治療を手助けするうち、B・Jは古和先生がモグリであることを見抜く。それでも、B・Jは医療過疎の村で村人たちに必要とされている古和先生に尊敬と激励の言葉を残し、村を去る。後日、B・Jは街で古和先生を見かける。彼は、もう一度正式な医師免許をとるために、学校へ通うところだった。「五十の手習ですよ」と笑いながら、古和先生は立ち去る。


古和先生は、B・Jとは正反対のモグリ。彼は資質としては十分すぎるほどプロであるが、技能がアマにとどまっている。目的と状況に応じて選ぶどころか、プロならば対処しなければいけない場面でも対処しきれない。

モグリにはプロになれるがならない、なれない者と、プロになりたいがなれない、まだなっていない者がある。古和先生のような後者の場合、やがてはプロになっていくわけだから、究極的にはモグリとは、プロになれるがなれなかったり、自らならないことを選ぶ者を指すことになる。

このように書いてみると、モグリという存在は、プロに対する厳しい批判を含んでいることがわかる。権威主義、形式主義、拝金主義、事大主義、自己中心。そういったものが、『ブラック・ジャック』では大病院の医師に象徴されている。彼らこそ、B・Jを「モグリ! そいつを病院からつまみ出せ!」と叫ぶ張本人。


確かにB・J自身、そうした偽りのプロを激しく非難し、また執刀で対決することもしばしば。しかし、彼はすべてのプロに敵対しているわけではない。むしろ、彼自身プロに対して負い目と劣等感をつよく感じている。なぜなら、彼はプロの医師である本間丈太郎によって命を救われたから。また、プロの医師である友人たちの手を借りなければ秘密の手術も行えず、特殊な器具も使えない。

花丸博士扮する山田野、三流大学の同窓生である辰巳、ヒゲおやじや手塚治虫自身が演じる町医者たちは、皆、B・Jの味方になるプロ。B・Jの技量と心情を察しながら、彼と関わる危険を顧みず、助けを請うこともあれば助けになることもある。

だから、B・Jはプロそのものを批判するわけではない。この点が、プロと正面切った対立関係に陥りやすいアマと微妙に違う。彼は、プロに負い目を感じながらも、プロをなることを拒み、それでもプロさえ目を見張る技を見せつけ、プロの信頼を勝ち取る。無報酬のアマチュアでこそないが、アマチュア精神を秘めたプロ意識ということはできるのではないだろうか。


古和先生は、同じモグリでもプロになる途上にあるモグリ。プロになるために彼はモグリであることを意識的に辞めなければならない。

モグリを脱して、医師免許を取ろうとする壮年をB・Jが見届ける『古和医院』の結末は、必ずしも温かいだけではない。古和先生のいなくなった村はどうなっているのか。古和先生は、能力、年齢、資金などの面からみて、ほんとうに医師になれるのか。

仮に医師になれたとしても、そのとき彼に山家村へ帰る情熱が残っているか。もし彼がきわめて優秀で、請われて都会の病院に残るとしたら、彼がモグリのまま村にとどまっていたほうが、村にとってはよかったのではないか。雑踏のなかに、古和先生を見送るB・Jの涼しげな眼は、何を考えているのか。彼の胸をよぎるのは、古和先生の行く末だろうか、それとも自分の境遇だろうか。

B・Jは、古和先生を見ても、そして、明らかに尊敬の意を表しながらも、医師免許をとろうとはしない。モグリであり続ける。しかしその選択は、世の中から疎外され、患者や医師会からは非難され、警察に検挙される危険も伴う、孤独な生き方を選ぶことでもある。


孤独ではないモグリのあり方は考えられるだろうか。『ブラック・ジャック』に登場する盲目の旅鍼師、琵琶丸とB・Jの関係は、ヒントになるかもしれない。琵琶丸はアマチュアに近いモグリ。大病院で西洋医学をふるう医師たちと比べれば、放浪しながら、金をとらずに苦しむ人々を助ける民間治療師は、十分にモグリといえる。

B・Jは、二度、琵琶丸に遭遇する。一度は、B・Jの患者を奪い、鍼を刺そうとするが、少女は恐怖のあまり痙攣する。B・Jは発作を鎮め、状況に応じて手段を選ぶことを琵琶丸に諭す。教えられた琵琶丸は、礼として闇夜に訪ずれ、B・Jの腸のツボに鍼を刺し、また闇に消える(「座頭医師」、新書第11巻、文庫第2巻)。

再会したのは、山奥の温泉近く。B・Jがメスを、琵琶丸が鍼を鍛えてもらっている刀鍛冶の憑二斉が仕事場としている庵(「湯治場の二人」、新書第12巻、文庫第5巻)。二人の商売道具を鍛えあげて、憑二斉は倒れる。プロ以上の腕を持つ西洋医学、東洋医学のモグリが手当てしても、息は吹き返らない。荼毘に付したあと、二人は、仙人の残した遺言を見つける。

天地神明にさからうことなかれ おごるべからず 生き死にはものの常也
   医の道はよそにありと知るべし。

琵琶丸はB・Jに、「この言葉の意味がわかったときゃ、もう一度会いましょう」と告げ、別の道を歩き始める。

B・Jは自問する。

私には一生わからないかもしれない。私には、切るだけが人生なんだ。

B・Jと琵琶丸。二人のモグリの関係は、つかず離れず。おそらくは同じ場所を目指していながらも、たどる道筋はまったく違う。歩き方も、旅支度も違う。それでも、旅の途中で時に同じ街道をすれ違い、時に歩調をあわせる。言葉がなくても、何かを通わせる二人。しかし、やはり道は違う。違わなければならない。それぞれは、それぞれの道を歩く。

やはりモグリは、孤独なのかもしれない。すれ違う同類をそうと気づいていないようにみえる。気づいたところで、反発したり、せいぜい挨拶を交わすだけて、また遠ざかっていく。

モグリは、他のモグリのことをどう思っているのだろうか。権威的なプロに、モグリ呼ばわりされたとき、B・Jは険しい顔でにらみ返す。自分で自分をモグリと呼ぶときのB・Jは、いつも悲痛な顔をしている。

ただし、同類に対してはそうではない。B・Jは、古和先生に、「私もモグリなんですよ、あなたと同じように」とにこやかに打ち明ける。相手の技能が低いことを、見下しているわけではもちろんないし、憐れんでいるだけではない。彼がすがすがしくいられるのは、同じモグリとして、尊敬に値する相手と認めたから。分かれ道で見送る琵琶丸に対しても、もう敵意はない。


モグリは、他人から受ける蔑称。自分から名乗るような名前ではない。あえて自分で呼べば、少し自嘲気味に響く。B・Jはめったなことでは自分をモグリとは名乗らない。なぜなら、おそらくは内心、プロでありたいと願っているから。実際、彼は一部のプロからは優秀なプロとして扱われている。しかし、プロの規範に反している以上、プロを自称するわけにはいかない。

そうかといって、プロに対してモグリと名乗れば、本来、信頼し、負い目もあるプロを過剰に非難することになる。モグリを名乗るのは、尊敬に値するモグリに対してだけ。それ以外では、自分を何かの範疇では括らない。自分の名前だけ。それさえ本名ではなく、常にブラック・ジャックとしか名乗らない。

モグリは、アマチュア以上の技能を持ち、プロフェッショナルに対する批判を備えている。しかし、アマに甘んじることも、プロを気取ることもできないモグリは、孤独で、自嘲的、時に自虐的にならざるをえない。


そう考えると、モグリとはプロとアマのあいだにいる、人間の一つのあり方であるとしても、あるべき姿といえるのかどうか、私には自信がない。それでも、モグリというあり方は、あまりにかけ離れたプロフェッショナルとアマチュアをつなぐ、あるいはその間に揺れる存在について考えるきっかけにはなるだろう。

プロ意識とアマ精神は、水と油。別々に突き詰めれば突き詰めるほど、離れていく。実際は誰でも、プロ、アマ、モグリ、それぞれの要素を抱え込んでいる。プロ、アマ、モグリは、考えるための便宜的な概念にすぎない。人は日々の糧を得る職業をもち、余暇を楽しむ趣味をもち、また自分自身を見出していく仕事をもっている。それぞれの場面にまた、プロ、アマ、モグリの性格は混在する。

資格や能力をもってする職業もあれば、資格、能力が不充分でも果たさなければならない職務もある。遊びのつもりでも負けられないゲームはあり、美を永遠に追求するつもりの芸術といえでも、さまざまな制約があり妥協が必要になる。要するに、プロ、アマ、モグリを一人の人間や、一つの行動に当てはまるものではない。B・Jは漫画の登場人物の一人にすぎない。


プロは意識、意志、Will、アマは精神、Spirit、あるいは魂、Soul。どちらも少し気を張りすぎ。気位が高く、緊張しすぎているように感じる。プロにしても、アマにしても、ただでさえ相容れない概念であるのに、それぞれに遠心力が強い。プロとアマのあいだを漂うモグリは、存在する位置だけでなく、存在の仕方でも、プロやアマとは一味違うものであるはず。

Willでもなく、Soulでもない。モグリは、Heart。それ以上うまく説明できないけれど、Heartという言葉は、何かの手がかりになりそうな気がする。Heartは、心。あるべき心のかたちは、まごころ。そして、その心のありようは、心意気。モグリであること、プロとアマのあいだで、揺れ惑い、漂いながらも、崩れず、腐らず、温かみを失わずにいる秘訣は、このあたりに見えてきそう。

そういえば、孤独なB・Jに寄り添い、支えているのは、娘であり、妻であり、何より彼自身が創造した存在である、愛らしいピノコ。Heartは、二人の関係を象徴してもいる。ピノコは歓喜し、B・Jは断固、否定するとしても。

アッチョンブリケ。


碧岡烏兎