烏兎の庭 第一部
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2.18.04

江分利満氏の優雅な生活(1963)、山口瞳、山本周五郎「江分利満氏のはにかみ」、秋山駿解説、新潮文庫、1968


江分利満氏の優雅な生活

山口瞳の文壇出世作が、直木賞を受賞した本書であることは知っていた。山口作品は、いくつか読んできたけれど、これは読まずに過ごしてきた。読み終えてふりかえってみると、読まないでいた理由が、思い当たらないわけではない。

小説や物語が苦手、賞をとった作品に対する偏屈で卑屈な拒絶反応、そして、どこで知ったのか、サラリーマンの哀歓という主題に対する軽い嫌悪感。そんなものは、わざわざ小説で読むまでもない。しかし、いずれの思い込みも間違っていることは、読み始めてすぐわかった。

本書を教えてくれたのは、日経新聞の夕刊、毎週土曜に連載されている東理夫「グラスの縁から」。いろいろな酒を題材にして文学や音楽、映画などを重ねた味わいのある文章。毎週、欠かさず読んでいる。

2003年11月1日に「3杯目のウィスキー」と題して、本書の最終章にあたる「昭和の日本人」が取り上げられた。


俺は許さないよ、俺の心のなかで許さないよ」という文が引用されている。東の文章に誘われ、そのうち読んでみたいと思っていたところ、ふと立ち寄った書店で見つけ、最後の章から読みはじめ、もう一度、初めから読みなおした。

東も紹介していた、日吉の慶応大学グラウンドでウィスキーを生で飲む場面をはじめ、本書には酒がたびたび登場する。気づいたのは、酒が社会の経済発展と個人の生活向上を象徴する小道具になっていること。

戦後の物資不足の時代には、みんなが「バクダン」、「カストリ」といわれる粗悪合成酒を飲んでいた。すこし社会が安定しはじめると、江分利は「焼酎」を呑むようになる。定職を見つけ、安定した生活を得られたとき、彼はしみじみと「洋酒」を呑む。

山口は、好きでならない酒を軸にして、戦後日本の発展と変化を眺めている。視点は、作品が書かれた1960年にある。今では「バクダン」「カストリ」はもうないけれど、他の酒よりずっと安くて質も悪い「発泡酒」のような酒がある


しかし、それは必ずしも生活の貧しさを表わす記号ではない。「焼酎」は今やブームになり、高値で取引される銘柄もある。酒は安もので済ませても、生活のほかの部分で贅沢をしている人もいる。

また、酒に限ってみても、庶民の届く上限はもう「国産洋酒」ではない。バーボンでも、ブレンデッド・スコッチやシングル・モルトでも、呑もうと思えば、いつでも飲める。

さらに言えば、舶来品なら高級という時代でもない。輸入ビールの価格は安くなり、国産ウィスキーの品質もかつてに比べれば大幅に向上している。

日本社会は成熟し、複雑になっている。一直線の経済発展の時代は終わった。一つの持ち物から、所属する階層を見透かすことは難しくなっている。プース・カフェのように色鮮やかな層に区切られた階層はもうないようにみえる。

それでも、階層がないわけではない。山口が江分利満氏を通じて観察していた酒やハイファイ・ステレオにはないとしても、貧富の差は歴然とあるし、また、社会的な格差もはっきりと存在している

だから、もはや階級がないと浮かれられるような状況ではないし、従来、階級や格差の記号となっていたものを、かつてと同じように攻撃しても、現代の社会格差はびくともしないだろう。


本書が書かれたのは、東海道新幹線が開通する直前、1960年代前半。敗戦からの復興に目途が立ち、安堵感とともに、はじめて未来や幸福について考える余裕を手に入れた時代だったのかもしれない。同時に、がむしゃらに働く時代が一段落し、何か大事なことを失いはじめていることに気づいた時代かもしれない。

一から出直し無我夢中でやってきたから見失ってしまったのか、見失ったのではなく、ようやく大事なことについて考える余裕を手に入れたのか、事態はそう単純ではなかったはず。山口にとっては、とりわけそうだったろう。

山口は、日本社会の戦後復興に、自らの戦前からの浮き沈み、戦後の足跡を重ねながら、この状態をどう考えたらいいのか、模索しているようにみえる。戦中、戦後のごたごたで、山口は資産も学歴も失った。文字通り無一文で、一時は裏社会に足を踏み入れてもいる。それが何とか月給をもらい、社宅に住むようにまでなった。ようやく、人並みに、エブリマンになれた。ネクタイを締めてタイム・カードを押すことは、束縛でも逃避でもない、幸福と安定の証。


ところが、それで大団円ではない。何か大事なことを忘れていないか。生活が落ち着いた今こそ、考えるべきこと、するべきことがあるのではないか。山口は自問する。「念願の短編小説をひとつ世に残すという事業」(「南部の人」『おふくろのうた』)をはじめるべきではないか。

本書は、山口瞳が、サラリーマンから作家として目覚め、自覚していく過程を描く。その意味では、作家山口瞳の誕生を記した「一冊の書物」といえる。

こういうことは、読んでみないとわからない。裏表紙には「最も平均的な人間」である、「そんな江分利満氏の生活とサラリーマンの哀歓を小気味のいい文体で謳いあげた」とある。

江分利満氏のどこが平均的なのか。腹違いの兄のために出生日を誤魔化されたり、豪邸に住んだり借金取りに追われたりを若いうちに経験した人間の、どこが平均的なのか。物悲しくなると、つい斎藤茂吉や大伴家持の短歌を口ずさんでしまうのは、どこにでもいるサラリーマンなのか。どう見ても、江分利満氏は平均的どころではない。山口瞳の創造した人物以外の何者ではない。本書は、彼以外には書けない作品。


なぜ、サラリーマンがサラリーマンのことを書くと、平均的なサラリーマンの哀歓になるのか。そんな風にしか受け止められない訳知り顔の解説屋に限って、文豪や思想家と言われている人が書いたものについては、「類まれな精神の内面的葛藤」といったり、「人類普遍の真理の描写」といったり、歯の浮くような言葉で持ち上げていないか(人を馬鹿にするのもいい加減にしろヨ)。

それこそ山口がもっとも嫌う見方。裏表紙の言葉は、作者自身によって完全に否定されている。

典型的なホワイトカラー、そんなものはどこにも存在しない。そんなものは、どっかの社会心理研究所の調査にまかせればよい。マス・ソサエティのなかのひとり、とは江分利も思っていない。(「バイア・コン・ディオス」『昭和の日本人』)

江分利満という人間、は江分利満以外の何者でもない。平均的なサラリーマンでもなければ、名もない民衆でもない。まして「一人の単純な人間」ではない。

それをわからない人間を「ハートということがわからない奴」、と山口は罵倒する。江分利満氏を名もない人間と馬鹿にする者は、名をもつ民衆、一人一人に馬鹿にされる。Anyone that fools "Everyman" is fooled by everyone,


巻末に解説とは別に、山本周五郎による跋文が添えられている。中身は新しい作家を歓迎する賛辞、それどころか、ほとんど作家山口瞳へのファン・レター。とはいえ、山本は、有望な新人作家を励ましながらも、先輩作家として釘を刺すことを忘れない。

三十日のばしても、「山口瞳でなければかけないものを書く」ということが、じつはジャーナリズムのためでもあり、あなたのためであり読者のためでもあるのです。

山口は、しかし、山本の助言には従わなかった。彼が最後まで続けた仕事は、締め切りに終われる週刊誌の連載だった。それでいて、「山口瞳でなければかけないものを書く」という期待は、最後まで裏切られることはなかった。

最後に上梓された『江分利満氏の優雅なサヨナラ 男性自身シリーズ最終巻』(新潮社、1995年)から。

「なんだか申し訳ないな、俺みたいな役立たずが残っちまって」と、私は思う。「しかしね、生きるってことはそんなに面白いことじゃなかったよ。アイルトン・セナだって走るのは厭だって言ってたそうだぜ」
    私は自分でも信じられないくらいの幸運に恵まれた男であるが、振り返ると苦しいこと辛いことのほうが多かった。A君は仕方がなかったんだ。だけど、六十歳前後になっているはずのA君と筍で一杯やりたかったなとは思う。生きる楽しみなんて、これくらいのもんだ。そう思うと口中の蘞辛っぽさは一層蘞辛っぽさを増してくる。(「えがらっぽい話」)

こんな、少しひねくれた言葉で悲しみを書けるのは、山口瞳ならでは。これが言えるのは、生きのびたからということを、山口瞳自身が一番よく知っていたに違いない。

慶応グランドで飲んだ角瓶も、「蘞辛っぽい」味がしていたことだろう


さくいん:山口瞳東理夫



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