最後の手紙

烏兎の庭 - jardin dans le coeur

第五部

江ノ電の線路

2015年9月

9/1/2015/TUE

メガネ

四つのメガネを使い分けている。

外出用(運転もできる強い度数で遠近両用)、普段用(度数弱め)、新聞・文庫本用(いわゆる老眼鏡)、それに30 - 50cm のPC画面用(ブルーライトカット機能あり)。

自室では目的に応じて一つ掛けて、残りは手元に置く。本を読みながら、スマホにメモしたり、ブログを書いたりするときは、掛け替えが忙しい。


9/2/2015/WED

議論すること

安保法案について、ウェブやTwitterでも論争が起きている。

ところが、TLを見ていてると、相手の言い分を聞いたうえで反論するというよりも、白熱するほど感情的になっている。

議論する(これは福沢諭吉の訳語だったか)。日本の人が一番に苦手にしていることと思う。意見の違う人を鬼畜と思うことこそ、最も危険なことなのに


上の内容をツイートした8月30日のこと。

「安倍は人間じゃない。たたき斬ってやる」。ある政治学者がそう言ったという。しばらく前には「アベシネ」とツイートした作家もいた。

実際に誰かが首相の暗殺を企て、結果の如何に関わらず「あの人の言葉に触発されて」と取調室で発言したら、どうするつもりだろう。自分の言葉に影響力がある自覚がないのだろうか。

論争どころか、アジテーションも通り越して、「言葉によるテロ」と非難されてもおかしくない。事実「学校を爆破する」とツイートした学生は業務威嚇妨害のかどで事情聴取された。

こんな運動では、賛同してきた人も離れていきかねない。


9/4/2015/FRI

突然の怒りと突然の鎮火

はちきれそうなそうなくらい腹が立つことがあった。

火曜日の夕方から木曜日まで、布団にもぐりこみ、「終わり」のことだけ考えていた

「もう死んでやる」とも思った。

「この世界」にいて何になるだろう。バカバカしいことだらけ。

心理的には一年ほど後退した気がした。何にも興味がない。未来に希望がない。

営業職としてダメ、社員としてダメ、夫としてダメ、父としてダメ、住民としてダメ、だから、人間としてダメ。どこでも落ち込んでいく内巻きの螺旋階段

異常に低い自己肯定感、しかし、それは偏狭な自己愛裏返しでしかない。なぜなら、オレはダメだ、という嫌悪感は、ほんとうのオレならできるはず、という自信過剰と表裏一体だから。そんな自分に対する幾重にも重なる自己嫌悪⋯⋯。

二日間、布団のなかでゴロゴロしていて、ある瞬間、「ま、いっか」と気づいた。何のきっかけもない。愛読書の言葉でも賢者の名言集でもなければ、聖書の言葉でもない。


理由はわからない。ともかく、死ぬことは延期した。まだ生き続けていく自信はない。S先生に正直にそう言った。こんな患者に慣れているのか、精神科の先生は驚きもせず、「気持ちを切り替えられてよかったね」と言ってくれた。

死ぬか生きるか、綱渡りの日常を送っている。いつ死ぬか、どう死ぬか。そういう問いかけが、いつも頭にこびりついているのは、やはり、どうかしている。


今夜は、松山千春が1982年に、北海道、札幌、真駒内競技場で行ったライブ(“STAGE, 1982.7.24”)を聴いている。デビュー5周年記念のライブ。まだ若い。シングルは「時の旅人」を出した頃。

このアルバムは、中学二年生の頃によく聴いていた。最近は、聴き返すことはほとんどない。でも、今夜は、千春の若い声が聴きたくなった。


腹が立ったことを許したことと、松山千春を聴いていることには、何の接点もない。

あえて言えば、つまらないことを水に流すことも、30年前に熱心に聴いていた音楽を聴くことも、「ま、いっか」と軽い気持ちでできたことが共通点か。

自分でも何を書いているのか、わからない。今夜はおかしい。こういう日は早く寝るに限る。


9/6/2016/SUN、追記。

松山千春が、NHKテレビ『のど自慢』に、おそらく初めてゲストで出演。ギター弾き語りを披露した。彼の歌に、シンプルなアルペジオ以上、伴奏はいらない。


さくいん:S先生松山千春


9/9/2015/WED

読書の“志向/嗜好/思考/試考”

「本棚の10冊で自分を表現する」

一日経つともう違う本を並べたくなる。そうすると作為的になってしまう。

ほんとうに手元にあるものをサクッと並べただけ。それも文庫本だけ。

並べなおすつもりで写真を見返すと、まあ、自分の“志向/嗜好/思考/試考”は「表現」されてしまっているか、という気持ちになった。

本の趣味が実年齢よりも高い。考えてみると、同世代の作家や研究者の本は、ほとんど読んでいない。文学指南を昭和ヒトケタの人に受けたせいだろう


9/10/2015/THU

学生時代にやらなくてもいい20のこと、朝井リョウ、文藝春秋、2012


学生時代にやらなくてもいい20のこと

日経新聞夕刊コラム「プロムナード」。今期の水曜日は、小説家の朝井リョウ。とても面白い。昨日は大いに笑わせてくれた。

名前は知っていたけど、読んだことはなかった。図書館で出世作『桐島、部活やめるってよ』を広げてみたところ、3ページで断念した。この若々しい文体には追ていけない。

ところが、日経新聞のコラムではアラフィフのおじさんにもわかる文体で書いている。エッセイ集『学生時代にやらなくてもいい20のこと』は、楽しく読んだ。この本の元は文芸誌の連載エッセイ。『桐島』と新聞連載との中間。若い文体を使いながら、ほどよく読みやすい。楽しく読んだ。

高校生だった80年代の半ば、当時、沢口靖子主演でドラマ化もしたほど大人気だった新井素子の小説はとても読みづらいと読書家の母がこぼしていたことが、今になって身にしみてわかる。

昨日の夕刊の文章が面白かったのは、『学生時代』で書いたネタの後日談だったから。あ、あの話の続きだ、とわかった。

朝井リョウは、小説は独自の文体で書く。おじさん向けの媒体ではおじさんでも読める文体で書ける、しかも、面白く。

なかなかの好青年。


これまでの会社勤めで、ほとんどの間、一番若くて下っ端だったので、世の中の人ほとんどが年上に見える。とりわけ、本を出している人とテレビに出ている人。

朝井リョウの年齢は、私よりも、むしろ子どものほうが近い。

いつの間にか中年になっていた。


さくいん:日経新聞朝井リョウ


9/11/2015/FRI

許さない、許せない

老人ホームで職員が入居者に暴力をふるっていた事件が報道されている。家族が置いた隠しカメラが証拠となった。

30年前、私が通っていた中学校でこういうことができていたら、教員による理不尽な暴力は暴露されていたのでは、と時々、夢想する。

教育相談室と放送室は、折檻部屋の別名だった。呼び出された生徒は身震いしていた。

当時は、全校生徒が見ていようと保護者がいようと、殴っていたから、動画を撮っても抑止にならなかったか? 実際、今も体罰は根絶されていない

それにしても、腹立たしい。いつまで経っても忘れることができない

あゝ、忌々しい。オレには殴り返すことも、謝罪を求めることもできないのか。


私は許さない、奴らのことを

私は赦さない。だから、私も赦されることがない。それでも構わない。

この点で憎しみを捨てられないブラック・ジャックの生き方に、私は共感してしまう。私にとって、憎しみは「死なないでいる理由」の一つ。

ここに、私がどれほどにキリスト教に興味をもっても、教会の敷居を踏み越えることができない理由がある。


さくいん:体罰


9/12/2015/SAT

原信太郎 鉄道模型のすべて―技術の極み、躍動美、原信太郎、誠文堂新光社、2008


原信太郎 鉄道模型のすべて

横浜、みなとみらい地区に「原信太郎鉄道模型博物館」という施設があることは知っていた。恥ずかしながら、鉄道模型と原信太郎について、まるで無知だった。

鉄道模型とは、模型を買ってきてレールの上を走らせるだけの「遊び」と思っていた。私も幼い頃にはプラレールでずいぶん遊んだ。

ところが、原信太郎の鉄道模型は違う。本物と同じ構造の列車をパーツから手作りしている。電車ならば、普通の電車と同じように架線からパンタグラフを通じて電力を得る。蒸気機関車はアルコールでエンジンを動かす。


鉄道模型だけではない。原信太郎、その人が、あらゆる面で、自分がもっていた常識を越えている。

生い立ち、青年時代、技術者としての仕事、好きなこと(道楽と彼は言う)を思い切り楽しむ姿勢、食生活(コーラとステーキが大好きで96歳まで元気いっぱい)など。

面白いエピソードは数え切れない。あらゆる面でスケールが大きい。


原信太郎にたどり着いたのは、JR九州が豪華なスイーツ列車「或る列車」を運行するというニュース。「或る列車」という謎めいた名前が興味を引き、調べはじめた。

本書には、今回、作られた「或る列車」の元になった模型の写真もある。

一度も走ることなく、車庫に打ち捨てられていた客車。原は、豪華列車を再現するだけでなく、自分のアイデアでさらに豪華に仕上げた。車内にソファとグランドピアノ。窓の上部はステンドグラス。最後尾の展望台は1/1で再現された唐草模様のベランダ。

近々、博物館を訪ねてみたい


9/14/2015/MON

Sさんのこと

JR久留里線

今日は、少し早起きして、Sさんの墓参にでかけた。

Sさんは大学を出て入った会社で2期上で、年齢は4年上だった。

昨春、癌が見つかり闘病していたとあとで聞いた。闘病の甲斐なく、9月に訃報を受け取った。

最後に会ったのは、2年ほど前。バンコクに駐在して新事業を立ち上げると張り切っていた。ずっと向こうにいるものと思っていたので、病気のことは知らなかった。


墓地はどこにあるか、ご家族に聞いたところ、千葉県の久留里にあると返信があった。

行ってみると、とても遠かった。思い切って行ってよかった。

しばらく、彼との思い出——ほとんどは酒にまつわる話——に浸り、家路についた。

写真は、JR久留里線、久留里駅。ホームは複線、前方は単線になっている。


9/15/2015/TUE

安保法制議論の行方

安保法案について、国会の公聴会が開かれた。反対運動を主導しているグループの学生リーダーが演説をした。

法案に反対している人たちからは、著名人や学者も含めて、賞賛の声が上がっている。

私の正直な感想は、一言で言うと、情緒に訴えるだけで、政治的なメッセージになっていなかった。さらに言えば、この情緒的な演説に、日本の護憲と平和運動が抜けきれずにいる、悪いところがすべて盛り込まれていたように思えた。

案の定、法案賛成派からは「中身がない」「法案を理解しているとは思えない」「ただ反対しているだけ」といった嘲笑を浮かべた反応が出ている。


憲法論議と法案論議は横に並んでいる名だたる学者たちに任せ、自らは反対の声が今や国民に広がっている点を強調しようとしたのだろう。

しかし、その言葉は同じ意見をもつ仲間には心地よく響いても、意見を異にする人々にぐさりと突き刺さる鋭さはなかった。

法案の何を問題と考えているのか、なぜ多くの人が学生グループを支持しているのか、具体的なことは語られなかった。

「戦争をする法案は嫌です」と言ったところで「戦争をする法案ではありません」と返される。「国民をバカにしないでください」と言っても「そんなつもりはありません」と返される。

どこまで行っても、不毛な水掛け論にしかならない。


「眠らないでください」「国民をバカにしないでください」のように議員をあてこするような発言もどうも逆効果しかなかったようにみえる。これから説得しようという相手の癇にさわるようなことをわざわざ言うことはない。褒めてから刺すという戦術は考えられなかったか。

政治家でも教員でも、年長者が、「お前ら若造は何もわかっちゃいないから俺が教えてやる」と言うのと「君たちの大きな可能性に期待しているので私の話を聞いてください」と言うのでは、どちらがより多くの若者が耳を傾けるか。

もともと聴く気などない与党議員たちを出鼻から嫌な気持ちにさせておいて、説得などできるわけがない。

政治の世界では、政治的な戦略をもって論戦を挑まなければならない。情緒的な言葉に喜ぶのは国会の外にいる仲間しかいない。

今日の演説を賞賛する人たちは、政府与党はあの演説を聞いてむしろ安堵した、という危機感を持った方がいい。


一言追記。上では不満を書いた。それでも、日曜のテレビ討論で、「イラクとか現地の人達が、日本の国民にも分かりにくい安保法案を知っているはずがないわけですよ」、と宣った国際政治学者よりははるかにマシだった。

この発言こそ、人をバカにしている。


9/16/2015/WED

前へ

3週ごとの通院日。

心持ちもだいぶ安定してきたので、そろそろ社会復帰の準備をはじめよう、という話になった。

働いていた時、土日はほとんど寝ていたように、離職して一ヶ月はほとんど寝ていた。今は、規則正しい生活を送ることができている。といっても、朝寝坊しない、一度は外に出る、夜は早く寝る、という当たり前のことができるように「戻った」だけ

社会復帰の前に、社会復帰の準備がいる。重症の人は、まず駅まで行く、電車に乗る、という生活のリハビリから始めると聞いたことがある。

私の場合、家から出られないというほどではなかったにしても、もう9ヶ月も静養しているので、通勤や終日勤務は急に始められない。

心身のストレス耐性を高めて「働く」ことができる状態に鍛えなければならない

勤労生活に復帰する準備について考えはじめただけで、胸がドキドキして、不安がこみあげてくる。うまくやれるだろうか。

こんなときは、昔の歌を口ずさんでみる。

運が悪けりゃ死ぬだけさ、死ぬだけさ
(SHOGUN、男達のメロディー(1979、喜多條忠作詞、Casey Rankin作曲))

この曲の作詞が喜多條忠とは知らなかった。

彼の作品では、かぐや姫「マキシーのために」も、今でも繰り返し聴いている。


9/20/2015/SUN

学園祭にて

高校の学園祭へ来てみた。

青春を謳歌してる高校生たちが眩しすぎる!

——私のような、「日陰育ちの捻くれ者」には。

この言葉は、鶴田浩二「傷だらけの人生」から(藤田まさと作詞、吉田正作曲)。


この歌を聴き返してみると、最近の世相を表しているようにも感じる。

「筋の通らぬことばかり」「を向いてもを見ても/馬鹿と阿呆の絡み合い」。

ところで、何度聴いても、鶴田浩二は「しかげ育ちのしねくれ者」と歌っているように聴こえる。


さくいん:鶴田浩二


9/21/2015/MON

逗子海岸

江ノ島

夕方、久しぶりに両親と三人で逗子海岸へ来た。少し曇っている。

かんかん照りより、老人の散歩にはこれくらいでいい。

遠くに江ノ島が見える。

海は、人が少なければ少ないほどいい。寒くなったら、また来る、一人で。


さくいん:逗子


9/24/2015/THU

電池切れ

連休はよく動いた。土日は高校の学園祭。月曜は夕方、逗子海岸の砂浜を少し散歩

火曜日は、帰宅するときの恒例。鎌倉で江ノ電に乗り、鎌倉高校前で下車。

江ノ電は鎌倉駅で入場規制するほど大混雑。また同じ過ちを犯して、連休に鎌倉へ来てしまった。過去の教訓を忘れていた


土曜日から4日続けて外出したら、電池切れ。

一昨日の夜から、ラグビーも知らず、Mステも見ず、昨日はまるまる一日眠り続けて、今朝8時になって、ようやく起きた。

会社に通って働いていた頃、こういう週休一日のような生活を送っていた。金曜の夜に床につき、起きるのは日曜朝、ときには日曜の夕方まで寝ていることもあった。

4日間、続けて外出しただけでダウンとは情けない。気力体力ともに足りない。

これでは、社会復帰は遠い


さくいん:江ノ島・江ノ電


9/27/2015/SUN

暴力は絶対だめ!(Aldrig våld! (Never Violence!), 1978), Astrid Lindgren、石井登志子訳、岩波書店、2015

暴力は絶対だめ!

この本に収録されている講演が行われたのは1978年10月22日。その日から今日まで50年近くの歳月が過ぎている。講演を行ったアストリッド・リンドグレーンは、すでにこの世にいない。

にもかかわらず、国と国のあいだの戦争はなくなっていない、テロリストによる無差別殺戮もなくなっていない。

家庭での児童虐待もなくなっていない、暴力を伴ういじめもなくなっていない体罰という名を借りた教員による生徒への暴力もなくなっていない。

暴力は、いたるところで起きている

人間は、進歩しない動物なのか、訝しく思わざるを得ない。


リングレーンは、家庭教育のなかで暴力による躾は無意味で非合理的と説いている。

いま、日本をはじめ、先進国の多くでは、家庭内での暴力や虐待が深刻な問題になっている。この事態を目にしたら、リンドグレーンは何と言うだろう。

1978年に行われた「暴力」や「体罰」を否定する講演が、21世紀になって再び、出版されることは、けっして喜ばしいことではない。


おそらく、この本を手に取り、隅々まで読む人に、この本は必要ない。

こういう本があることさえ知らない人こそ、この本を読むべきだろう。

両親学校や教員の研修会、議員の勉強会、そういう場所で本書が読まれることを願う。


さくいん:体罰


9/28/2015/MON

Let's Go!!!、DEPAPEPE、SME Records、2005

空鉄 ―鉄道鳥瞰物語―、吉永陽一、講談社、2012
もっと 空鉄 ―鳥瞰鉄道探訪記―、吉永陽一、講談社、2013

空鉄 もっと 空鉄

空撮旅番組、と呼びたくなる「空から日本を見てみよう+」をよく見る。ナレーターを務める伊武雅刀と柳原可奈子の楽しそうな掛け合いが面白い。加えて、この番組は音楽もいい。

調べてみると、DEPAPEPE というギター・デュオの曲が使われている。聞いたことのない名前だった。

番組でもよく流れる「Start」は、彼らの代表曲でもあるらしい。アルバム『Let's Go!!!』に収録されている。

アコースティック・ギターのカッティングが心地よい。秋晴れによく似合う。

庭に寝転んでばかりいる私でも、くもみと一緒に空へ飛んでいけそうな気になる

久しぶりに鳥肌の立つ音楽に出会った。


空から眺める鉄道写真集もある。「空鉄」というらしい。

『空から』でも取り上げられる、奇抜な線路の配置や新幹線がずらりと並ぶ操車場など空撮ならではの写真は見ていて飽きない。


9/27/2015/SUN

グリーフケア入門: 悲嘆のさなかにある人を支える、高木慶子・上智大学グリーフケア研究所編著、勁草書房、2012

悲嘆の中にある人に心を寄せて -人は悲しみとどう向かい合っていくのか- 、高木慶子・山本佳世子、ぎょうせい、2014

心的外傷後成長ハンドブック: 耐え難い体験が人の心にもたらすもの(Handbook of Posttraumatic Growth -- Research and Practice, 2006)、edited by Lawrence G. Calhoun and Richard G. Tedeschi、宅香菜子訳、医学書院、2014


PTG(Posttraumatic Growth)の概念じたいはわからないことはない。逆境をバネにして強くなる、ということはトラウマ体験だけにかぎらず、日常的にもあることなので、驚きはしない。

PTGは諸刃の剣。著者も認めている。

PTGの研究に意味があるとすれば、どのような環境や成育史を持つ人はPTGを得やすいのか、ではなく、どのような人がPTGを得にくいか、を明らかにすることではないか。

その要件がわかると、どのような人に対して特別な介入や支援が必要なのか、わかってくるだろう。


9/30/2015/WED

気分低調

気分が超低空飛行モードになってしまった。理由は複雑なので、ここには書かない

4月の旅行以来、上がり下がりはありながらも、全体としては生活習慣も心身の状態も安定してきた

事実、医師は社会復帰の準備をはじめようと提案してくれた。それが、気分はほとんど一年前に戻ってしまった

Twitterは、アカウントは残したまま、アプリを削除した。見ることもつぶやくこともしない。

『庭』では、頻度は減っても書いていきたい。

ここは、私自身のための箱庭療法の場所。今は、この場所だけが心のよすがだから