エッセイとは何か(L'Essai, 1999)、Pierre Glaudes et Jean-François Louette, 下澤和義訳、法政大学出版、2003


新聞で、鷲田清一による書評を読んだ。「公理的な知と臆見(おっけん)(ドクサ)のすきまで思考する精神」という彼のまとめでも充分、エッセイの真髄を理解した気になったけれど、 「クールな分析を貫いているのに、とても熱い本だった」という鷲田の感想に誘われ、原本を図書館で借りてきた。

私がこれまで書いてきた文章は、エッセイとジャンル分けされるものかもしれない。読みながら、そう思った。そして、これから書いていく文章をエッセイと分類されるものにしていきたい、読み終えて、そう思った。

グロードとルエット、二人の著者が分析するエッセイの特徴には、私が今まで書いてきた文章にあてはまるものがいくつかある。身近な出来事が社会や思想の問題につながる、俗な表現の採用、意図的な文法や用語のずれや逸脱、まったく違う話題への跳躍など。

こうしたことは、特別意識したものではなかった。書いているうちにそうした文章になっている。二人は、エッセイは文章のジャンルである以上に文章を書く気質である、と結論している。私にも、そうした気質があるのかもしれない。

エッセイは、きわめて逆説的なジャンル。さらにいえば、逆説のうえに逆説を重ねるような文章。まずエッセイはきわめて同時代的。伝統的な修辞や学問的な表現ではなく、口語や俗な表現が好んで用いられ、書き手本人やその周辺を含め、その時代に現れた人物、事件、流行から話題が広がる。その一方で、エッセイは同時代の学説、俗説、ジャーナリズムの主流に逆らう主張をするという意味では、きわめて反時代的。

同時代的で、反時代的なだけではない。エッセイは、自分の趣味や過去の分析、身近な出来事の考察から、できるだけ普遍的なものにたどり着こうとする。その意味では、超時代的。その普遍的な何かは、論者によって、真理と言われたり、良識といわれたり、常識、知恵、経験、思想などと言われる。

同時代的で、反時代的で、にもかかわらず超時代的。このような逆説のうえに逆説を重ねるエッセイの本質を、図式を反転し、普遍性を基点にして観察すると、エッセイはある種の再現芸術、と思われてくる。

それまでに積み上げられてきた知識に、新たな発見や考察を付け加えることが求められる学術論文と違い、エッセイは何も新しいことを言わない。エッセイの書き手はよく、自分の書いていることを、「あたりまえのこと」「わかりきったこと」という。それは、彼らが自分の表現していることは、真理、良識、常識、言ってみれば普遍的な知恵と考えているから。ここまでくれば思い切って教養と言ってもいいかもしれない。


言っている中身には新しいものがない、ということは、新しさを見せるのは、解釈と表現だけということでもある。クラシック音楽の世界では、楽譜は新しくならない。しかし新しい時代には新しい解釈と表現が、優れた演奏者により生みだされる。

エッセイの世界に即して言えば、どのような出来事から話を広げるか、どんな言葉で表現するか、どの作品から引用するか、書き手の個人的体験をどのように織り込むか、こうした表現の工夫が、新しいエッセイを魅力的にする。しかし、書かれている本質は、すでに多くのエッセイストによって言い古されている。

要するに、エッセイにとっては文体がすべてと、言ってもいいかもしれない。この点は、グロードとルエットによっても、詳細に論じられている(「第五章 エッセイの語用論、恍惚」)。もちろんここで文体というのは、明晰さやわかりやすさや論理的な一貫性だけを意味しない。むしろ、そうした割り切れるもの、一直線なものからの逸脱が「読者を驚かせるとともに魅了する」。

本書はこれまで学問的なジャンル分けが困難とみなされていたエッセイを、きわめて学問的な方法で分類し、分析していく。ところが、途中にはエッセイ的とも呼べるような脱線があり、面白い。例えば、フランスのエッセイの現状について書かれた次の部分。

最後に、ここ二十年を特徴づけているのは、もしかすると別の現象かもしれない。「民主主義の中心部に自らの考察を書き込もうとする意志」を表明する知識人たち(歴史家、哲学者、学者)が、大学の仕事の傍らで、大衆化の目的のために、エッセイを使っているのである。彼らは自分たちの狭い専門領域から外に出ているが、しかし同時にーーガリマール社の「エッセイ」シリーズの監修者エリック・ビーニュによると「倒錯的効果」として――、「エッセイが生きる生はメディアがそれに許可しているものだ」。
   (中略)
   書くことよりも理解されることに気を遣っているような、ああした新しいエッセイストたちが無数にいる時代にあっては、このジャンルの活力を物語るような、形式に関わる実験が敢行されているテクストはそれだけますます際立つことになる。(「第三章 歴史(2)近代的な形式」)

エッセイの専門化ないし学問化と、大衆化ないし商業化が同時進行するという奇妙な出来事は、遠い国でも同じらしい。こうした状況は、もちろんエッセイの本質からは遠ざかるものだろうし、学問のためにも、エッセイのためにもなりはしないだろう。

こうしたことから、著者の二人は本書で展開された文学的な研究の次に、社会学的な研究をエッセイについて行う必要があると示唆している。どのような社会階層が書き手となっているか、どのような広告文によって宣伝されているか、どのような読み手が、どのような期待をもって読んでいるか。そして読み手は読み終えて何を手に入れたと思っているか。こうした問題は、日本語の出版状況でも研究する価値があるに違いない。

ところで、エッセイを直接いいあてる日本語は、いまの私には見当たらない。それでもエッセイを批評と随想という二つの言葉で呼び分けることはできると思う。批評は自己の外側、本や絵画、映画、事件、世相について書いたエッセイ、随想は自己を直接主題にするエッセイ。


批評は、英語で言えば“critique”。エッセイではないけれども、実際上の意味に即して言えばクリティークは、文学や芸術などの作品を分類、分析、評価することであり、日本語ではむしろ評論と呼ぶ文章に近い。

批評にしろ随想にしろ、肝心なことは、題材から自己の奥底へ、そして自己を含んだ人間という普遍性へと視野を広げていくこと。批評ならば対象から、随想なら身の回りの出来事や、自分自身の体験から、それぞれ自分の内面深くへ潜行する。内面の深海は自己の特殊性を越えた、人間の普遍性に広がっている。そこには時代も、社会階層も国境もない。深層水は、上空の気候や天候には関係なく、どこでも暗く、冷たい。そして自然の栄養に溢れている。

エッセイは単に文学の形式ではない、ということが、著者二人の出した結論。それはエッセイを書く人の気質以上に、エッセイを書く者の気構えに関わる。

エッセイはそれ自体一個のジャンルというより精神の特定の性質かもしれないと直感してもらえただろうと思う。……そしてこれは、少なからぬ要求なのである……。(「結論」)

エッセイは書き手の気質であると同時に、書き手に要求される態度でもある。言葉を換えれば、エッセイとは書こうとしなければ書けないものであるけれども、書こうとしても書くことができない、書き終わって、書いてしまっているもの。

つまり、自分ではエッセイのつもりであっても、他人からは何も試みてはいないように見えるかもしれないし、自分では言い古された、わかりきったことを自分なりに言いなおしているだけでも、他人の眼には超人的な試練に打ち克っているように見えるかもしれない。この点でも、エッセイは逆説的。


こうして考えると、エッセイストとは自称できるものか、という問題が最後に残る。私は試しています、と自己言及するなら尊大に響く。せいぜい言えることは、私は試すことを試しています、ということではないだろうか。

エッセイストを名乗るならば、右肩に二乗を表わす数字が要る。


碧岡烏兎