烏兎の庭 第一部
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9.5.02

普通はだれも教えてくれない、鷲田清一、潮出版、1998

普通はだれも教えてくれない

何冊か、といっても彼の本職ではないエッセイばかりだけれども、読んでみて鷲田清一の関心ごとがだいぶわかってきた。鷲田の文章には詩的な表現が多い。また言葉はそれ自体で意味をもつものではなく、言語全体の中ではじめて価値が決まると考え、言語の関係性を繰り返して論じた丸山圭三郎の考え方にも通じるものがあるようだ。たとえば次の文。

わたしたちの「だれ」はむしろ、他人との関係のなかで配給される。この関係が、わたしたちにアイデンティティのステージ、それも複数のステージを設定してくれるということ、そこに視線を戻す必要がある。(「私的なものの場所」)

学者がやさしい言葉で語ると二通りに失敗をすることが多い。大半は、学者のままでやさしく言っているつもりが、ちっともやさしくなってない。もう一つ、やさしくしようとするあまり中身までうすっぺらになってしまうことがある。

後者のなかには、意図的にそうしている悪質な人もいる。とりわけ哲学や社会思想の分野の研究者が通俗的な社会現象を批評しはじめるとうまくいかない場合が多いように感じる。


鷲田のエッセイはほどほどにやさしく、それでいてしっかりとした批判の眼が社会的な現象から深く文明批評にまで連なっている。それは、やはり彼自身が、哲学を机上の学問や職業的な技術としてではなく、「身のまわりの困難を、理を尽くして議論し考える(「哲学がまた動き出した」)」ものとしてとらえているからに違いない。詩的な表現が多いのもそのせいかではないか。

それにしても驚くのは、時代の流れの速いこと。1989年に出版された本書ではポケベルについて論評されているが、それからたった四年後の今では、ポケベルはとっくに死に絶えている。携帯電話、携帯メール、携帯インターネットと技術革新はあっという間に三段階も進んでしまっている。

ときおり神戸へ出かけることはあっても、最近の犯罪の記憶はともかく、震災は過去の出来事になりつつある。東京の地下鉄に乗るときに、サリン事件を思い出すことは、もうほとんどない。当事者以外にとっておは、時の流れは速い。


ところで鷲田は、ニュータウンに欠落しているものとして大木や宗教施設などの信仰の対象、それらに加えて「場末」、言い換えれば、ある種のいかがわしい場所をあげている。さらに、ここに「伝説」もしくは「歴史」を加えてもいいのではないか。あるいは、信仰の対象や場末が伝説と呼べるようなものを醸し出すのかもしれない。

この場所にかつて人々が住み、さまざまな営みを行っていたことを知ることにより、まず私たちは、いまの私たちがどこからともなく生まれ出たのではなく、過去から続く時間の延長線上に立っていることに気づく。それは、過去に対する畏れといってもいいかもしれない。

私は造成されたニュータウンで育ったけれど、造成地のふもとの農家でかつて山だったところに大きな鳥が住んでいたという昔話を聞いたとき、妙な安堵感をもったのを覚えている。


過去はもちろん美しい昔話ばかりではない。負の歴史もある。そうした諸々の事実、ひとつひとつに感想をもたなくとも、ずっとここで人が暮らし、生きて、そして死んでいったと思うだけでも、今踏みつけている土地と見上げている空が何となく違って見えてくる。

その感情は必ずしも尊敬だけではないし、単純な憧憬でもない。たとえ負の遺産であっても、ここに人々が生きていたことの証であることには変わりはない。その証を知ることは、今の自分を客観的に見つめなおす契機となる。

神戸のタンク山は強烈な負の歴史をもってしまった。人々はそれをどう後世に伝え、将来そこに住む人々はその伝説をどう受け止めるだろうか。

そして、移り住んだばかりのこの街で、すこしずつ学びはじめているこの街の歴史を、私は子どもたちにどう伝えていけばいいだろう。


さくいん:鷲田清一



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