硝子の林檎の樹の下で 烏兎の庭 第四部
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2013年11月


11/3/2013/SUN

悲しみを抱きしめて グリーフケアおことわり、吉田利康、日本評論社、2013

死別を体験した子どもによりそう—沈黙と「あのね」の間で、西田正弘・高橋聡美、梨の木舎、2013

悲しみを抱きしめて 死別を体験した子どもによりそう

『悲しみを抱きしめて』の著者は、ほとんどアレルギーと呼びたくなるほど、「グリーフケア」に対して反感を抱いている。グリーフケアは人それぞれに違うはずの悲しみを画一的な段階にはめ込み、無理矢理に「再生」を強いている、と考えている。

確かにグリーフケアを説く本は、一般書であれ研究書であれ、喪失体験をその事実を受け止めることから、悲しみを糧として、新しい日常生活がはじめられるようになるまでを段階としてとらえる。何段階に分けるかは研究者により異なるものの、そのとらえ方に違いはない。

それは喪失体験を型にはめようとしているからだろうか。そうではなく、悲嘆から再生への道筋は多くの人を観察した結果、そうした過程を経ている人が沢山いたという、経験則に基づいた考え方ではないだろうか。

実際、グリーフケアを主題にした本では、たいてい「悲しみは人それぞれ」「回復や再生も人それぞれ」「悲嘆は一方通行に段階を経るのではなく行ったり来たりする」と書かれている。


喪失体験は、暴力や犯罪と違い、人間なら誰でも、いつかは体験する出来事であり、特別なものではない。本人がもともと心身ともに健康で、また良好な人間関係をもっていれば、特別な手当は必要ではないのかもしれない。しかし、そのとき置かれた状況により、悲嘆の重さはときに本人の生活だけでなく生命までも脅かす。そこで、異常な悲嘆状態を修正するために、知識と経験の豊富な介助が必要になる。


『悲しみを抱きしめて』は、グリーフケアを西欧的な死生観に基づいたものと批判し、「日本」的な死生観に基づいた悲嘆のあり方を提案しようとしている。問題は、西欧的な日本的かという単純なものではないように思う。

著者は、実際に受けたグリーフケアでよほど嫌な体験をしたのかもしれない。本ではもっともなことが書かれていても、その理論が現場でそのまま実践されているとは限らない。ここにこそ、問題があるのではないか。


グリーフケアを必要としている人は少なくない。しかし、それを上手に手助けする、医師やカウンセラー、自助会をまとめるファシリテーターが圧倒的に不足しているのではないか。

『死別を体験した子どもによりそう』を読み終えて、その思いを強くした。同時に、この困難な仕事を引き受けようとする人が少なからずいることを知った。でも、私自身は、残念なことに、グリーフケアの知識と実践の経験豊富な人にはまだ出会ったことがない。


死別を体験した子どもによりそう』は、何年も前に読んだ『大切な人を亡くした子どもたちを支える35の方法』を現在の日本社会の状況に即して書かれた本ともいえる。出版社も同じであることは偶然ではないだろう。

こうした社会的な問題に対しては、組織も技術もアメリカのほうが進んでいるようにみえる。もちろん、それは問題がそれだけアメリカでは深刻になっているせいでもある。社会からの要請に対しどれだけ支援の制度やそれを担う専門家の育成が整っているか、単純な比較はできない。


さくいん:グリーフ(悲嘆)アメリカ


11/10/2013/SUN

はじまりのキリスト教、佐藤研、岩波書店、2010

はじまりのキリスト教

佐藤研の著作を読むことは『イエスの父はいつ死んだか』に始まった。これで4冊目。本書は、読んだことのない偽典についての論考もあり、これまで読んだ本よりも難しく感じた。

それでも、聖書を歴史書、すなわち「神の書」でなく人間が書き残した文書として読み込み、イエスが生きていた時代にあったものと後から加えられたものを区別し、それが加えられた理由と論理を鮮やかに分析する手法は本書でも得心がいくものだった。とりわけ、「洗礼」(佐藤は「浸礼」という)や聖餐といった儀礼がどのように定着していったか、という点に興味を引かれた。

聖書を歴史書として読む、すなわち人間が意図して書き残した文書として読みながらも、著者の分析はそこでは終わらない。そこにこめられた「信」について著者の思索は広がり、また深まっている。

書店に並ぶキリスト教の入門書や概説書には、聖書を「予め出来上がっていた神の書」ととらえているものが少なくない。そのような態度で聖書に向き合うとどうしても矛盾や、一見、イエスの教えに反するような記述を無理にこじつけることになってしまう。

本書で取り上げられている「無花果に対する呪い」もその一例。佐藤は、この挿話をキリスト教の論理に無理矢理押し込むのはなく、なぜ、誰が、そのような挿話を組み入れたのか、そして含意は何なのか、歴史的な視点から読み解く。

そうすることで、イエスの生き方と死に方をなぜ、どのような意図を持って人々は伝えてきたかが見えてくる。

この点で、佐藤研の著作は、聖書の解釈に終わっている本屋に平積みにされた多くの入門書と一線を画している。


さくいん:佐藤研


11/28/2013/THU

烏兎の庭、11周年

『庭』と名づけて、自分のウェブサイトに書きはじめてから11年たった


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