土を掘る 烏兎の庭 第三部
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5.12.07

石川県西田幾多郎記念哲学館、石川県宇ノ気

西田幾多郎の世界、石川県西田幾多郎記念哲学館、2004

西田幾多郎の憂鬱、小林敏明、岩波書店、2003

西田幾多郎の思想、小坂国継、講談社学術文庫、2002


金沢近代文学館の階段

一人の作家や、一つの出来事、一つの主題に、突然とりつかれるように興味をもつことがある。図書館にあるだけの本借りてきて読んでみたり、関わりのある場所へ行ってみたりする。

そういうときはいつも、なぜ、その人物やその事に興味をもったのか、わからないまま、のめり込んでいく。読んだり調べたり、見たり聴いたりしていると、その人について、その出来事についてよくわかってくる。

そしてあるとき、なぜ、自分がそのことに興味をもちはじめたのかがわかる。つまり、こういうときはいつも、答えが先にわかり、問いのほうを後で知る。

西田幾多郎との関わりには、とくにそれがあてはまる。ふと手にした三木清の随筆から、西田に興味を持ち、入門書を読み彼の作品を読み、仕舞いには彼の生れた街まで行ってみた。


宇ノ気の踏切から

西田幾多郎に興味をもつようになったきっかけはムック『西田幾多郎—没後六十年 永遠に読み返される哲学』だった。この本には、西田本人が書いた文章のほか、すでに西田について著作や論文を発表している人によるエッセイや小論が掲載されている。そのなかでも、いちばん興味を引いた文章は、小林敏明「引っ込みのつかなくなった西田」だった。

小林は、西田の哲学ではなく、西田の思想を対象にする。思想とは研究や作品ではない。人の生き方、人そのもの。だから彼は、伝記という思想史の世界では時代遅れとみなされるような方法で西田の思想を探る。

そのような小林の姿勢に共感しながら、西田の思想、すなわち西田幾多郎その人に近づくためには、彼の書いた文章をまず自分で読む必要があると思い、小林の伝記は後回しにした。『西田幾多郎の憂鬱』を先に読んでいたら、その感想を書くことに終始して、『善の研究』の感想は、きっと書けなかっただろう。


『西田幾多郎の憂鬱』は、読んでみると確かに興味深いとらえ方をしていた。父親との葛藤を軸に、彼の人生に降りかかった数々の悲惨な出来事を通じて、西田の気質から彼の思想の診断する。己に対して厳しい一方、やがて文化の父親としての国家に対し、反発を裏返したように憧憬のような気持ちに集約されていく晩年の政治思想の分析にもなるほどと感じた。

もっとも、細かいところでは不満も残った。たとえば、次のような一文。

言うまでもなく「デル、デス、デム、デン」という定冠詞の活用変化は、今でもドイツ語初心者にとってのトラウマの対象である

この書き方は正しくないように思う。言葉を学ぶ者にとって語形変化は頭痛の種ではあっても、トラウマではない。トラウマとは、そのときに感じる苦痛ではない。時間を経て感じるもの。もしその言葉を扱えるようになれば、語形変化を苦痛と感じなくなるはずだし、もし習得を諦めていれば、語形変化自体を忘れてしまうだろう。落第した試験の記憶が蘇ることはあるかもしれない。それは語形変化と直接には関係ない。

トラウマの対象、という言い方もピンと来ない。トラウマの原因、きっかけというのならわかる。トラウマが何かを指向するのでなく、何かがトラウマを指向するのではないか。対象がトラウマであるはず。


西田記念から見下ろす宇ノ気の街

トラウマという語に躓いたのは最近の気分のせいばかりではない。それは、西田幾多郎の思想の源泉でもあるから。

西田は、人生を通じて多くの死別を体験している。姉、妻、友人、弟、そして息子と娘。それらの死のイメージ、また死に到る病いや戦争の苦しみが、西田の思想に影を落としていることを小林は強調する。

それに同意しながら付け加えると、西田がや病いについての感受性を深めたのは、体験した多くの死別のなかでも、13歳の少年時代に姉の病死に根があると私は思う。つまり、いわゆる思春期の体験が、その後、体験される死別のたび、悲しみの層を彼の内面に折り重ねて行ったように思われる。

彼自身、「哲学の動機は人生の悲哀でなければならない」とも書いている。

父親との葛藤もそうだけれど、西田の思想にはいわゆる原体験という呼ばれるような幼少期から思春期の体験が、極めて重要な意味をもっているように思う。そんな思いをもつのは、本を読んだ感想というよりは、冬の寒い日、彼が生まれ育った街を歩いたせいかもしれない

   一つの生涯というものは、その過程を営む、生命の稚い日に、すでに、その本質において、残るところなく、露れているのではないだろうか。

森有正『バビロンの流れのほとりにて』の冒頭にこう書いた。「生命の稚い日」とは、どの期間を指すのだろう。あまり小さくても事態の複雑さを理解できないし、大きければ自力で納得したり収拾したりする知恵が身についている。

個人的な体験や、読書などを通じた客観的な知識からみると、10歳から14歳くらいのあいだに、「生命の稚い日」があるように思う。この期間に、西田は姉を失くし、森は父を失っている。つまり、この時期に受け止めた生命のあり方が、その後に続いていく生涯にゆっくりと顕れていくものと思われてならない


2015年11月21日追記

西田自身が、十代はじめに姉を亡くしたことが、彼の人格形成に大きな影響を与えたことを書いている文章を見つけた。

   回顧すれば、余の十四歳の頃であった、余は幼児最も親しかった余の姉を失うたことがある、余はその時生来始めて死別のいかに悲しきかを知った。余は亡姉を思うの情に堪えず、また母の悲哀を見るに忍びず、人無き処に到りて、思うままに泣いた
「我が子の死」(1907)『西田幾多郎随筆集』、上田閑照編、岩波文庫、1996)

空の庭の壁

思想とは人間そのものという考えは、西田幾多郎の考えとも合っている。言葉遣いが難解なせいもあり、西田は専門的にすぎる、衒学的な哲学者とさえ思われている。でも、哲学とは本来、日常生活に根ざしているもの、そういうものでなければならないと西田は考えていた。

記念館の壁に見つけて、書きとめて帰った彼の言葉。

我々の最も平凡な日常の生活が何であるかを最も深く掴むことに依って最も深い哲学が生れるのである。(「歴史的身体」、1937、『全集 第14巻』、岩波書店、1966)

日常、というと、何か平凡で、退屈で、変わり映えのない生活という響きがあるかもしれない。しかし、西田にとって日常は平凡なものではなかった。強烈な原体験や、それに続く過酷な体験。それが彼にとっての日常だった。

西田の日常には、死別体験が基底にある。それまで当たり前のように一緒に暮らしてきた人が目の前からいなくなる。日常が突然終わるまるで切り落とされたように日常が終わり、しかし別の日常が否応なくはじまる

切り落とされた日常のあとに、まるで違う日常がある。日常のなかに非日常があるのではない。いま過ごしている日常こそ、不条理で非日常的な人生全体のなかにたまたまある部分的な時間に過ぎない

だから日常は、退屈なまま続いていくどころか、いつも波乱含みでいる。そして、いつ終わるともしれない、もしかすると明日終わるかもしれない、という不安や緊張をつねに抱えている。

最も深く掴まなければならない日常とは、そういう性質の毎日の暮らし。


空の庭の空

「哲学の動機は悲哀」と西田は言う。悲哀のうえに、どのような日常が重ねられようと奥底にある悲哀そのものは変わらない。だから、常に悲哀が日常のなかにある

西田の見方は、ひょっとすると反対だったかもしれない。日常には日常の、苦しみや楽しみがある。そういう日常の出来事の奥底に根本的な悲哀は沈んでいる。日常生活に流されていては、悲哀を見出すことは難しい。でも、それをとらえなければ哲学とはいえない。思想とも言えない。そして、最も重要なことは、いなくなった人の気持ちを理解することもできないということ。

日常の底に沈んでしまった悲哀を、日常に取り戻さなければならない。切り落とされてしまった日常を、切り落とされていないかのように生きる。あの人が今でもここにいたら、どんな日常だったろう。

哲学の動機という言葉を私になりに言い換えると、そういうことになる。その意味では、西田の哲学は死者との対話と言ってもいいように思う。


西田哲学館の銅像

西田幾多郎のことを考えていると、私はよく夏目漱石のことを考える。二人はほぼ同じ時代に生まれ、まったく対照的な人生を送った。

漱石は東京に生まれ、育った家庭は幸福とは言いがたかったけれども、若い頃には中央で立身出世の道を邁進した。高校教員、大学講師、留学。そうしたいわば知識人としての頂点から離脱していく過程で、漱石は思想を深めていった。

一方、西田幾多郎は地方の片隅に生まれ、40歳近くになるまでそこに埋もれていた。彼自身の言葉を借りれば「私は三十代は全く北国の隅に落魄していた」(「若かりし日の東圃」『西田幾多郎随筆集』、岩波文庫、1996)。

そのあいだ、東京へ出てはみたものの、選科生という冷遇された身分で図書館の閲覧さえ廊下の外でしなければならなかった。当時の様子を回顧した文章のなかに「有名な夏目漱石君は一年上の英文学にいたが」と触れている(「明治24,5年頃の東京大学文科大学専科」『西田幾多郎随筆集』)。

その後、彼は請われて京都大学へ移り、それまでに書いた論文だけで漱石は固辞した博士号を受けた。西田は、他の文章で参照されるときでも、郷里の銅像でも西田博士と呼ばれることが多い。博士という尊称は、彼の積み重ねた努力に対する人々の称賛を表わしている。


どちらがどうということではない。優劣ではない、それぞれの置かれた環境のなかで、それぞれの方法で思想を深めていった

西田幾多郎が、多くの親族を失ったように、夏目漱石も娘との死別を経験している。悲哀という言葉を通じて、二人を読み比べることもできるかもしれない。

西田幾多郎は1870年(明治3年)、夏目漱石はそれよりも3年前の1867年(慶応3年)に生まれた。夏目漱石は1916年(大正16年)、第一次大戦が終わらないうちに49歳でこの世を去っている。1916年、西田幾多郎は『善の研究』を弘道館から発表していたが、岩波書店から上梓するまでには、まだ5年ある。

西田幾多郎は、日中戦争や太平洋戦争が始まった後でも精力的に執筆を続け、1941年には昭和天皇に御進講もしている。そして彼は、敗戦の直前、1945年6月7日に75歳で亡くなった。

漱石が、昭和の戦争を見届けていたら、あるいは、西田が『善の研究』だけを上梓して早世していたら……。その「もし」に意味はないかもしれない。そうとすれば、単なる後知恵のような見方で西田の思想を分析することにも、意味はないだろう。


駅前の銅像、夕照 西田幾多郎著作集 文庫版

記念館の売店で、古書店を探しまわっても見つからなかった『思索と体験』『続思索と体験』(岩波文庫、1980)を見つけた。『善の研究』『哲学論集Ⅰ』『Ⅱ』『Ⅲ』、それに『随筆集』がセットになって記念館の特製化粧函に入っている。すこし重かったけれど、いい記念になった。

記念館のある丘を下りて、街中に点在する西田幾多郎の銅像を見てまわった。

宇ノ気から汽車に乗り、北陸本線で金沢から小松に出て、飛行機で帰京した。小松に着いたときには、すでに5時を過ぎていた。北陸へ来るたび訪ねる森山啓記念室のある市立図書館へ行く時間はなかった。

しばらく、いや、もしかすると、もう二度とここに来られないかもしれない。そう思いながらも、不思議とさみしい気持ちはしなかった。


さくいん:西田幾多郎



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