土を掘る 烏兎の庭 第三部
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6.30.06

ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記 1930-1932/1936-1937(Ludwig Wittgenstein: DENKEBEWEGUNGEN. Tagebucher 1930-1932, 1936-1937)、Ludwig Wittgenstein, edited by Ilse Somavilla、鬼界彰夫訳、講談社、2005

三木清エッセンス、三木清、内田弘編・解説、こぶし書房、2000


哲学の棚で見つけた。誰の書評で読んだのかは忘れてしまったけれど、新聞で読んだ書名は覚えていた。ウィトゲンシュタインは、前期と後期とで全く立場を変えたと聞いたことがある。書評は、時期的に中間に位置するこの日記は二つの立場を橋渡しすると書いていた。

『論理哲学論考』は、「語りえぬものについては沈黙せねばならない」(Wovon man nicht sprechen kann, darüber muß man schweigen.)という断章で終わる。ところがウィトゲンシュタインはこのあと、この語りえないものについて次第に語るようになる。日記は、このあいだに起きた内面的な変化を記録している。

日記の内容について、書き残す感想はあまりない。この日記は、哲学の草稿を預けた研究仲間とは異なり、個人的に親しい人に遺贈されたものという。最近、本書のような公開することを期待していなかった文章をあまり読まなくなった。見てはいけないものを覗いてしまったような気がするから。

読みたいのは、葛藤のあとに見出したもの。知りたいのは、そこに書かれた、書き出したときの気持ち

研究者には、このような文章も、資料として必要なのかもしれない。もっとも訳者はあとがきで、哲学者の葛藤に感動しながらも、内容は、ほぼ予想していた通りだったとも書いている。日記は、ウィトゲンシュタインの生涯を知る助けになるかもしれないとしても、その思想を知るために絶対必要なものではない。

誠実な読者は、秘密を知ることがなくても、秘密があることを作品から十分に感じとることができるだろう。そこから先は一人一人の「思想」の領域になる。それ以上、秘密を知ろうとすることは、覗き見でしかない。

『宗教哲学日記』を読み終えて、それ以上の感想はなかった。哲学そのものは私には難しいし、思想そのものは他人の日記から学べるものとは思えないから。


『宗教哲学日記』を読んだあと、しばらくして、図書館の哲学の棚で三木清の選集を何気なく手に取った。大学の卒業論文を書く前だったという若い文章が、『論考』から『日記』までの気質に近いように感じた。

  懺悔は語られざる哲学である。それは争いたかぶる心のことではなくして和らぎへりくだる心のことである。講壇で語られ研究室で論ぜられる哲学が論理の巧妙と思索の精緻とを誇ろうとするとき、懺悔としての語られざる哲学は純粋なる心情と謙虚なる精神とを失わないように努力する。語られる哲学が多くの人によって読まれ称賛されることを求めるに反して、語られざる哲学は僅かな人によって本当に同情され理解されることを欲するのである。それ故に語られざる哲学は頭脳の鋭利を見せつけようとしたり名誉を志したりする人が試みない哲学である。なぜならば語られざる哲学の本質は鋭さよりも深さにあり巧妙よりも純粋にあるからである。またそれは名誉心を満足させるどころか却ってそれを否定するところに成立するものであるからである。(「語られざる哲学」)

『日記』は、宗教について多く書いている。三木清も、哲学にとって宗教は、ないし宗教的感性は不可欠と考えている。だが、哲学を宗教に置き換えることはできない。

   哲学の研究者にとってあまりに簡単に宗教を持ち出すことは寧ろ好ましからぬ傾向である。宗教にせよ芸術にせよ、深い体験を有する哲学者は、そのことを語らなくともおのずから現われるものである。
   西田哲学の根底に深い宗教的なものが潜むことは事実であるとしても、それをただ宗教的乃至宗教哲学的見地から解釈することは、殊に解釈者自身に真の宗教的体験があるかどうか疑問である場合、正しい理解に達し難いことになる。哲学は哲学として理論的に見るのが好いのである。(「西田哲学の性格について—問答に答える—」)

同じことが、ウィトゲンシュタインの哲学についても言えないか。西田幾多郎には、これまで何の関心もなかったけれども、少し興味がわいてきた

思想は究めると信仰に近づく。漠然とそう考えている。ここでいう信仰とは、既存の宗教をそのまま意味しない。かといって、何もないところで自分を崇める宗教をはじめるということでもない。信じるということはどういうことか

考えることを深めていくと、それを避けることはできない。

では、信仰とは何か。三木の語る、「真の宗教的体験」とは、どんなものか。宗教について語る人は多い。宗教的なるものについて語る人もたくさんいるし、自分の信仰について語る人もすくなくない。でも、信仰とは何か、信じるということはどういうことなのか、考え抜いた人はきわめて少ない

それはきっと、哲学の先にある。三木によれば、西田幾多郎はそこを目指していたという

私はまだ、そのことについて考えるところまで来ていない


もうひとつ、はっきりしていること。哲学といえども、いや、哲学という学問こそ、個人的な深い動機づけ、一言でいえば情熱を必要とする。とはいえ、情熱だけでは学問にはならない。エッセイでさえ、形式は無視できない。

滾るような情熱を学問という冷たい器に注ぎ込んでも、なお立ちのぼる熱気。「語りえないもの」「語られざる哲学」を読みとることは、熱の匂いをかぎとること。

「語りえないもの」は、語ることはできないとしても、伝えることはできる。『論考』を読み終えたときにも、そう思った。そのとき、沈黙でさえも、伝える技法の一つになる。

読むということは、書かれたことを読みながら、そこに書かれていないことを読みとることではないか。そこには書かれていないものが、なぜ読みとれるか。それはきっと、どこかほかのところに、すでに書いてあるから。

そう考えると、読書とは、一つの秘儀かもしれない



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