詩とことば、荒川洋治、岩波書店、2004


詩とことば

『忘れられる過去』(みすず書房、2003)以来の荒川洋治の新刊。書き下ろしらしいけれども、一直線ではなく、連載コラムのように話は飛び石伝いに進んでいく。文体は、ラジオのように読み手一人一人へやさしく語りかける。

ところが荒川の本を読んでいると、波長があうところもあるために、かえって意見の違うところが強く感じられることがある。それはけっして反感ではない。「で、荒川さん、どうなんでしょう」とラジオで森本毅郎が問いかけているように、もっと荒川に聞いてみたくなる。

詩という言葉で、荒川は言葉のもつ個人的な側面に光をあてている。もともと言葉には社会的な面と個人的な面がある。「海」という名詞一つをとってみても、そこには多くの人々で共有されている意味、いわば辞典的な意味とは別に、一人一人がもっている意味合いがある。海の近くに生まれ育った人と海を見たことがない人では、同じ「海」でも、使い方も意味の持たせ方も違う。

個人的な面の究極が、固有名詞。同じ言葉でも、知っている人のことを考える人もいれば、モノを思い浮かべる人もいる。その言葉や音になじみがなければ、ほとんど何も感じない人もいれば、ある音だけで特別な思い出をかきたてられる人もいる。

現代社会は言葉の社会的な面ばかり前にでていて、個人的な側面をおろそかにしている、荒川は、そう言いたいように読める。確かにそういう見方もできる。言葉の使い方や意味合いよりも、単語一つが美しいかどうか、正しいかどうかが議論され、同じように表現の仕方よりも主張の中身ばかりが問題にされている。荒川は、そういう現代社会の砂漠のような言葉の世界を、詩が廃れ散文ばかりの世界と批判する。

   散文そのものが操作、創作によるものなのだ。それは人間の正直なありさまを打ち消すもの、おしころすものだから、人間の表現とはいえないと思う人は、散文だけではなく詩のことばにも価値を見る。基本的にはそういうことになる。もちろんこれはそう簡単な問題ではない。だがこうしたことについて詩を書く人も、散文を書く人もあまり考えることはない。なぜならいま、まわりの世界は散文あるいは散文系の言語でうめつくされているからだ。まわりにないもの、あまり見かけないものを視野にいれることは、どんな人にとっても容易ではない。時代に反することを人はしたくない。
   散文は、果たして現実的なものなのか。多くの人たちに、こちらの考えを伝えるためには、多くの人たちにその原理と機能が理解されている散文がふさわしいことは明らかだ。だが、散文がどんな場合にも人間の心理に直接するものなのかどうか。そのことにも注意しなくてはならない。詩を思うことは、散文を思うことである。散文を思うときには、詩が思われなくてはならない。ぼくはそのように思いたい。(Ⅰ 詩のかたち)

荒川は詩と散文を対立させて見ている。そして詩、すなわち個人の経験を埋め込んだ評論の可能性を最後に示唆している。ここで私の疑問。詩と対立するのは、散文だろうか。

詩は言葉の意味を転覆する、そうして新しい息吹を言葉に与える。一方散文は、できあがった言葉の意味を用いてお話を語ったり、何かを説明したり主張したりする。そういう見方は、必ずしも特別なものではない。

でも散文は皆、言葉を部品のように使うだけで、言葉の意味を変えるものではないとは言い切れない。詩がもたらす雷の一撃のような変化ではなくても、雨の滴が長い時間をかけて岩の形を変えていくように、散文が長い叙述を経て一つの言葉のあり方を変えてしまうこともある。

実際、詩的な文章はいまも見かけないわけではない。荒川自身のエッセイが、たとえ散文の形をとっていても、私にはただの主張の伝達や状況の論述ではない、豊かな表現に感じられる。荒川洋治という人間が感じられる。

詩の敵は、散文よりも広告ではないか。詩と広告は、読み手の想像を広げるという点で似ている。しかし、詩がほかの人とは置換できない一人に固有な経験を土台にしているのに対して、広告は、商品を前提にする。その商品は、必ずしも広告を書く人がつくったものではない。だから広告では、想像力が一人歩きするようにはじめからできている。それでいて、広告には目的がある。

広告=商業=金=悪、というのではない。問題は、広告は他人の経験に土台を置き、また他人に伝えることに重点を置きすぎている点にある。

広告は、皆が共有できそうなイメージに頼りながら、ほんの少し彩りをかえた別のイメージを刷り込む。そういう場合、社会性に依存しながら社会的に意味を伝えるというある種の自己撞着に陥る。だから新しい意味は生れない。

ここでいう広告は、宣伝のことではない。読まれることより、読ませることを優先する表現すべてを指している。読ませると読まれるは違う。人に読ませる、読まれたい、という気持ちが強くなりすぎると、言葉の個人的な面の力が落ちていく。それは詩とはいえない。

小手先だけで描いたパステル画のように、色だけは鮮やかでも、どこかで見たような、今はきれいに思えても明日には忘れてしまうような絵と同じ。

もっとも、よく読めば、荒川も、詩対散文という構図に固執しているわけではない。彼は詩に対しても、厳しい目を向ける。

   いままわりにある文章はほんとうに個人のためにはたらいているのか。個人の体験をかきけしてはいないか。平板なもの、意味のないものにしてはいないか。逆に、詩作品のことばはどうなのか。個人を表現するといっても、ほんとうにそうなのか。自分を見る目も甘くなり、ただの、かたちだけのものになってはいないか。残される問いはおもい。(Ⅲ 詩を生きる)

個人の言葉によりかかり、誰にも伝わらず、自分のなかでだけ循環するような言葉は、どれほど特別な体験を綴っていても、詩とはいえない。詩にはなれない。

では、どんな言葉が、これからの詩をつくるのか。荒川の考える、これからの詩とことば。

   詩は個人のことばとはいえ、その個人のことばであることに甘えない。しっかりしたものを書いておかなくてはならない。そのために、ものを考える。ことばを吟味し、新鮮な、意味のあるものにしておく。それが心得であると思う。(Ⅳ これからのことば)

新鮮で、意味のある言葉。それはおそらく、新しく造語できるものではない。いまある言葉に新鮮な響きをもたせなければ、いま通じる言葉にはならないから。

いまある言葉を磨き、磨きあげた言葉で書くためには言葉の個人性を徹底的に鍛える必要がある。自分の言葉に厚みをもたせるといってもいい。いや、厚みはすでにある。自分で自分の使っている言葉の厚みに気づいていないだけ。

考えてみると、一つの言葉でも、いろいろな場面で見聞きし、また使っている。そこには辞書的な意味とは別に、自分だけが知るその言葉の歴史や逸話がある。その積み重ねが言葉の厚みになる。その厚みを自覚的に把握することができれば、どんな表現でも私にしかできない表現になり、同時にほかの人とも共有できるにちがいない。

ものを考え、言葉を吟味するために、荒川はどんなことをしているのか。そこのところを聞いてみたい。

詩と散文、詩と広告。荒川と私では、受け止め方や表わし方に違いはあるけれども、どこかで共鳴しているところもある。それは、詩は読ませるものではないという点。

本来、詩は読ませるものではない。読まれるものですらないと荒川はいう

   詩は、読まれることをほんとうには求めていない。人に読まれないからこそ、詩は生きることができる。それは少しもうしろ向きの考えではない。むしろそのことが詩を前向きなものにする。(Ⅳ これからのことば)

読まれることを待っていることば。それが詩ではないだろうか。ほかの人にも通じる言葉を使いながら、ほかの人にできない表現をする。散文の形をとろうと自由な形式をとろうと、詩とはそういうものだと思う。そういうことばが誰かに読まれたとき、それがたとえ一人であっても、その言葉は詩になるのだと思う。

それでは、読まれることを待っている言葉は、いったいどこで待っているのか。荒川の本を読んだあとにいつも思う疑問。売れてる本のなかか、売れない詩集のなかか、それとも、本にはならない文字のなかか。

荒川洋治の本を読んでいると、似たように感じていることを、違う仕方で表現しているように思うことが少なくない。「書きたいと思うことを書くだけでなく、この時代に書いておかなければならないことを書いていきたい」と最近ラジオで話していた。

これは、おそらく、「文学がすき」から出発した自分自身を戒めるための言葉でもあるのだろう。

私は、たぶん荒川とは正反対の場所から出発している。文学に対する嫌悪感、社会科学や社会思想への親近感。

自分の位置を消去して思考する場所から出発した私は、荒川とは反対に、どこまでも自分が思うがままに書くしかないと思っている。


さくいん:荒川洋治