未来少年コナン、NHK・日本アニメーション制作、1978


演出:宮崎駿・高幡勲、作画、大塚康生、脚本:中野顕彰・胡桃哲・吉川惣司、音楽: 池辺晋一郎


『千と千尋の神隠し』『天空の城ラピュタ』、そして『ルパン三世』の最終話「さらば愛しきルパンよ」。夏以降、宮崎駿が監督した作品を続けて見ている。『ラピュタ』を見て、初期のテレビ・アニメ作品『未来少年コナン』と共通するものを感じていたところ、子どもが『コナン』のアニメ絵本を図書館で見つけてきた。

『コナン』は劇場映画作品である他の作品と違い、全26話のテレビシリーズ。これを絵本に収めると、ダイジェストとさえいえない大雑把なあらすじになる。子どもたちは物語にも興味をもったようなので、思い切って第一話からまとめて見ることにした。

『コナン』を通して見なおすのはおそらく4回目か、それ以上。第1話『のこされ島』を見始めると怒涛のように話が続いていくので、途中でやめることも休むこともできない。4話ずつ収録されたレンタルビデオを週末ごとに見るのが待ちきれなかった。

今回の『コナン』には新しい発見があった。『ラピュタ』やほかの作品と比べながら見たせいもある。何かを読んだり見たりして感じたことを、文章に書いて考えるようになったことも大きい。ちょうど新しい映画『ハウルの動く城』の公開に合わせ、テレビでも再放送されることになった。

もう一度、第一話から見なおし、これを機会に『コナン』について思いついたことを少しずつ書き残し、考えなおしていくことにする。


大人になって『コナン』を見ると、子どもの頃とは見方が違うことに気づく。子どもと一緒に今見ても、見ているところがやや違う。小さな子どもは、ジムシーの滑稽な動きに関心が向いている。コナンの驚異的な動きからも目が離せないけれど、行動の意味が少し難しいのかもしれない。

何度も見て筋書きがわかっていると、主人公であるコナンやラナ以外の登場人物に目が向く。今回は、大人の登場人物、なかでもモンスリーとダイスがひどく気になった。気にとめて見てみると、モンスリーとダイスこそ、この作品中もっとも重要な役柄であるように思われてくる。そう思うのは、自分が大人の視点で見ているからというだけでなく、この作品が、そもそも子ども対大人という構図を持っているからでもある。

モンスリーとダイスは『未来少年コナン』の登場人物のなかで際立っている。理由は、この二人は物語の初めと終わりでまったく違う人物になっているから。他の登場人物は主人公グループのコナン、ラナ、ジムシー、ラオ博士、それからハイハーバーの人々も生命をかける事件を何度もくぐっているにもかかわらず、性格はほとんど変わらない。悪役のレプカにしても、徹頭徹尾、悪役のまま。

ただし、コナンはただの野生児から、周囲と協調しながら行動する社会的な存在へと少しずつ変わる。その点はまた書くことがあるだろう

モンスリーとダイスは、物語の最初では悪役として登場する。最後にはコナンたちの仲間になる。その意味では『コナン』は、二人の大人が「回心」を遂げる物語とみることもできるかもしれない。


人間そのものが変わるという点は重要。悪役だった人物があとで主人公の味方になるという役割の転回(演劇用語には適切な表現があるかもしれない)を宮崎駿はよく使う。『コナン』の中でもサルベージ船の厳しい技師パッチがラオ博士であるところにも使われている

TVシリーズで宮崎駿が手がけた『さらば愛しきルパンよ』でも、この手法は使われている。『さらば』の場合、ルパンと偽ルパンと銭形が入り乱れ、30分の作品でありながら、より複雑な形で使われている。この手法は驚きを感動に昇華させる。

『コナン』よりずっと後に制作された映画『天空の城ラピュタ』でも、初めに登場する悪役が最後は味方になる。そのいわば準悪役たちとは別に終始主人公と敵対する登場人物もいる。悪玉の役割が変わる構図以外にも配役や筋書きなどで『コナン』と『ラピュタ』には共通点が多い。しかし、役割の転回の意味が少し違う。

確かに、『ラピュタ』では、海賊ドーラ一家は主人公であるシータとパズーに敵対する悪役として登場していながら、彼らの関係は徐々に変化し、物語の最後では仲間になる。ただし、変わっているのは観客の見方であって、ドーラたちは何も変わっていない。海賊は海賊のまま。

モンスリーとダイスの場合、彼らはまさに「回心」と呼びたくなるほど大きく変わっている。彼らの心の動きや行動の変化は、物語の本筋からは一段、引いたところで描かれている。これまで見たときにはハラハラする本筋を追うだけでも大変だったので、二人はただの脇役にしか見えなかった。

何度か見るうちに、モンスリーとダイスの動きから目が離せなくなった。彼らこそ、本作品の主人公であるような気さえする。


モンスリーは原理主義者、ダイスは機会主義者

モンスリーは「力」しか信じない。「平和」「希望」「」「協力」といった言葉を彼女は信じない。そんな言葉は大人のお説教でしかない。彼女がもっとも嫌いなのは、大人。大人たちは口ではもっともなことを言いながら、世界を破滅させた。少女だったモンスリーは、命以外のすべてを失った。彼女は、生き残るためにすべての疑問を封じ、「力」を手に入れるために何でもした。

「力」とは、知識と技術、暴力、そして権力。ファルコ、ピストル、それから政治局次長の地位。その先に究極の「力」、太陽エネルギーがある。一つ、モンスリーが忘れていることがある。それは彼女も大人になってしまっていること。彼女は子どもとして大人たちに敵対しているのではない。

大人として大人の世界にいて、しかもそこで「力」を手にしているのに、彼女自身は大人に対抗しているつもりでいる。「力」を手に入れただけではない。命以外のすべてを失った、かつての自分のような弱い人々を、彼女は「力」でねじふせ、迫害している。コナンに会うまで、彼女はこの矛盾に気づかない。


ダイスは、一言で言えば、何も考えていない。彼が愛するのは、冒険。じっとしていることがダイスには一番我慢ならない。冒険ができるならば誰とでも手を組み、誰のことも平気で裏切り、見捨てる。彼の冒険に目的はない。ダイスは、やがて変わっていく。冒険の目的について考えるようになる。

彼を変えるのは、子どもであるコナンではない。ダイスは、コナンの驚異的な行動力に感心はしても、モンスリーのようにコナンの生き方には驚かない。彼を変えるのは、大人であるラオ博士。

モンスリーは、組織のナンバーツー。配下には厳しいが、上にはやはり逆らえない。ダイスは貿易局のヒラ局員、とはいえ、船のうえでは誰にも命令されない船長。二人はまったく性格が違う。おまけに二人は互いに軽蔑しあい、敵対している。


ゴリゴリの原理主義者と行き当たりバッタリの機会主義者。そんな二人がある人物と出会い、生き方を変え、それぞれ知識や技能をもったエキスパートと優柔不断と非難されかねないほど協調性のある懐豊かなリーダーとして周囲を変えていく。そんな筋書きをもった別の物語を読んだことがある。

「回心」という言葉は、その物語に由来する。とはいえ、『コナン』の物語のなかで、二人の回心に思想的な意味はあっても、宗教的な意味はない。

思想が究めわれたときに、宗教ではないにしても信仰と呼ばれるような何かに近づくかもしれないという予感は残るとしても


第1話 のこされ島  11.4.04
第2話 旅立ち  11.11.04
第3話 はじめての仲間  11.22.04
第4話 バラクーダ号  11.27.04
第5話 インダストリア  12.10.04
第6話 ダイスの反逆  12.10.04
第7話 追跡  12.16.04
第8話 逃亡  12.26.04
第9話 サルベージ船  1.4.05
第10話 ラオ博士、第11話 脱出  1.16.05
第12話 コアブロック  1.21.05
第13話 ハイハーバー  1.30.05
第14話 島の一日  2.13.05
第15話 荒地、第16話 二人の小屋  2.19.05
第17話 戦闘、第18話 ガンボート  3.5.05
第19話 大津波  3.12.05
第20話 再びインダストリアへ  3.18.05
第21話 地下の住民たち  3.30.05
第22話 救出  4.1.05
第23話 太陽塔  4.8.05
第24話 ギガント  4.19.05
第25話 インダストリアの最期  4.23.05
第26話 大団円  4.28.05

番外

モンスリーのPTGとして『未来少年コナン』を見る  3.31.18