第22話 救出


今回の見どころ、いつも印象に残る場面。レプカの暴力を恐れないラナの長い台詞。三角塔を襲う無数の地下住民。それから、処刑されそうになるモンスリー。

あなたに太陽エネルギーを与えるくらいなら、地下の人たちと海に沈むわ。

地下の住民を「救出」するつもりで一人出てきたのに、まるで正反対の言葉をラナは口にした。ラナの真意はどこにあるのか。

自分の命を落としても構わない、それで世界さえ消えてもかまいはしないという思い。ラナの気持ちは、空飛ぶ城の「玉座の間」で、ムスカの銃口に向かって「ここはお墓よ、あなたとわたしの」と切り返したシータと同じ。この言葉はわがままか、自信か、作戦か、それとも、コナンの「救出」を待つための賭けなのか。よくわからない。

一切の妥協を受け入れない姿勢。レプカのほうが、まだ冷静。太陽エネルギーを手に入れるという目標を捨ててはいない。だから、ぎりぎりの交渉が成り立つ。相手が正気を失っていると交渉にはならない。


『コナン』を見ていると、ときどき『クオ・ヴァディス』に似ていると思うことがある。いわゆるボーイ・ミーツ・ガール、強大な悪役との戦闘、何度も訪れるピンチ、救出、脱出、大団円という大振りな展開、つまり娯楽大作という点で共通するところは少なくない。

大きな違いは『クオ・ヴァディス』では犠牲になる人があまりに多いこと。その理由は、レプカと違い、暴君ネロには何の目的もないから。あえて言えば殺戮さえ娯楽の対象であるけれども、もはやネロはそんなふうにさえ意識していない。殺戮のための殺戮が、皇帝の空虚な心を埋めるために繰り返される。

『クオ・ヴァディス』では、多くのキリスト教徒が放火の罪を着せられ、競技場で人柱にされたうえ燃やされる。初期キリスト教徒は黙って火刑についた。インダストリアの地下住民は、居住区ごと沈められることを拒み、三角塔になだれこんだ。『コナン』のほうが痛快であるのは間違いない。どちらが正しいことなのか、これもわからない。

この場面を見ていつも思うこと。襲いかかる人の波を前にして、インダストリア市民はひるみながらも銃を乱射している。それでも恐れずに向かっていく気持ちは何だろう。

銃口に立ち向かう気持ちは、群集心理だけでは説明できない。前回の感想で、地下住民のなかには付和雷同の人々もいたに違いないと書いた。今回、彼らはなけなしの荷物を抱え、閉ざされた装甲シャッターまで登り、レプカの慈悲を待っていた。そこで、地下住民の安全と引き換えに自分の命を差し出したラナの姿を見た。

ラナの行動は、レプカの罠にまんまとかかったものだったけれども、地下住民たちの心を動かすには充分だったかもしれない。シャッターが開いたとき、彼らはまずラナの「救出」に向かった。


モンスリーは覚悟をきめていた。コナンを助けたことで彼女は20年間を埋め合わせるためにやるべきことはやったと思ったかもしれない。ところが、彼女にも「救出」の手が伸びた。縛りつけた縄をほどき、背負ってくれたのは、よりによってひげ面のダメ船長、ダイス。しかもこの緊迫した場面で「ラナより重いな」。

当然、モンスリーの返す言葉は、「バカねッ!」

こういうところも、『コナン』を深刻すぎるドラマではなく、痛快な活劇にしている。

モンスリーは、同じ憎まれ口をダイスにたたくたびに変わっていく。痛快なだけでなく、心理描写も意外に細やか。『クオ・ヴァディス』と質の優劣を比較するつもりはない。ただ『コナン』のほうがずっと現代的で現実的なのは確か。その分、物語の底は見えにくい。