F 天空の城ラピュタ、宮崎駿原作・脚本・監督スタジオジブリ製作、1986

天空の城ラピュタ、宮崎駿原作・脚本・監督スタジオジブリ製作、1986


『千と千尋の神隠し』を見たとき何か物足りなさが残り、物語から思い出した梨木香歩『裏庭』を文庫本で読みなおした。もやもやした気持ちは消えたように感じたものの、小説と映像作品は別物。映像面でもすっきりしないものが残っていたので、夏休みもまだあることだし、かつて映画館で見た『天空の城ラピュタ』を買ってきた。

『ラピュタ』は、単純に見ていて面白い。特典ディスクにある予告編でも強調されているようにアニメ=動くマンガ=活劇=娯楽作品という定式を貫いている。見ているあいだ中はらはらする。見終わると爽快感が残る。映画館で見たときも、単純に大画面で映画に浸った満足感が大きかった。それでいて物語にこめられたメッセージは、けっして軽くない。娯楽や冒険とおまけにとってつけた教訓のようなものでもない。

意図と表現とのバランスのよさが、『ラピュタ』の特色の一つ。この特色は、宮崎駿がこの作品よりずっと前に手がけたテレビアニメ『未来少年コナン』にも通じる。『コナン』も表面的には冒険譚。アニメでしか表現できない突拍子ない動きやギャグが随所に盛り込まれている。しかし、全編を貫き込められている、いわば作品の思想は浅くない。

言葉をかえれば、二つの作品は、子どもも大人も同時に楽しむことができる。子どもはドタバタのコメディを楽しむ。大人は、物語に隠された深い問題提起を受け止めることができる。私自身も、『コナン』や『ラピュタ』は何度も見て、そのたび少しずつ、見るところ考えるところが変わっている。これまでは、何か大事なことを訴えているなと思うだけで過ごしてきてしまった。この作品が問いかけるものは何なのか、すこし落ち着いて自分なりに考えてみたい。


『コナン』と『ラピュタ』は、構成や配役から物語を貫く主題まで非常によく似ている。表面的な構成や配役の面で相似する点を列挙すると、まず少女が追手から逃げる場面から物語がはじまる。追手、すなわち物語の最初に悪役だった者は、主人公と交流を深めながら次第に位置づけを変え、物語の最後では主人公たちの味方になっている。そして、はじめに登場する悪役とはべつに、ほんものの悪役が存在する。こちらは最後までまったく性格も立場も変わらない。

こうした設定は、登場人物の類型的な描き方とともに、構成上で陳腐な印象を与えるかもしれない。とはいえ、作品の娯楽性を高める効果があることも間違いない。その点でも、バランスがいいという特色が、二つの作品に共通しているといえる。

宮崎作品には自然と人間の関係という大きな図式があるとしばしば言われる。ときに対立であったり、ときに共存であったり、それぞれの関係にそれこそ自然になじめない人間の葛藤であったり、要するに、自然と人間との関係のあり方が彼の作品で中心になっていることは多くの人が認めるところだろう。


確かに『コナン』と『ラピュタ』では、自然と人間という構図がみてとれる。これらの作品ではさらに一歩踏み込み、自然と人間は完全に対立しているようにもみえる。自然と共存する生き方と自然に逆らう生き方、農牧文明と機械文明、さらに抽象的な概念で表現すれば、子どもと大人、素朴と作為。

この対立は、物語の山場でシータとムスカのあいだで交わされる応酬に端的に表れている。

   シータ――
   これが玉座ですって?ここはお墓よ、あなたとあたしの。国が滅びたのに、王だけ生きてるなんて滑稽だわ。あなたに石は渡さない!
   あなたはここから出ることもできずに私と死ぬの!!
   今は……ラピュタがなぜ滅びたのかあたしよくわかる。
   ゴンドアの谷の歌にあるもの。
   『土に根をおろし、風と共に生きよう。種と共に冬を越え、鳥と共に春を歌おう。』
   どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんのかわいそうなロボットを操っても……土から離れては生きられないのよ!!!
   ムスカ――
   ラピュタは滅びぬ。何度でも甦るさ!ラピュタの力こそ、人類の夢だからだ!!

ムスカは機械文明の崇拝者。人間の叡智によって自然を支配し、利用しようとしている。対するシータは、空の上から地上へ降りたラピュタ人の末裔らしく、ラピュタに象徴される科学文明を一切否定しているかのようにみえる。


しかし宮崎作品の主題をこのような単純な対立図式でとらえるのも、あまりに短絡的にすぎる気もする。なぜなら宮崎は無類の機械好きで、作品にも魅力的な飛行機械やロボットがたくさん登場するから。この場面の少し前でも、シータとパズーは鳥の巣や庭を見回る園丁ロボットを見かけたりしている。『ラピュタ』では、映画のオープニングでは、プロペラやキャタピラなどの古めかしい機械が忙しく働く姿が描かれる。

こうしてみると、宮崎作品は自然との共存というより、機械との共存を訴えているのではないか、と思われてくる。『ラピュタ』に登場するプロペラ飛行機や人力飛行機、ソロバン、蒸気機関車、炭鉱の手動エレベーター、『コナン』ではいかだや蒸気船、船の上からポンプで酸素を送る潜水具、プラスチックを集めるロボノイド。どれも手動だったり旧式だったり。全自動ではない。人間が上手に操らなければ、まともには動かない。

宮崎は科学で自然を支配しようという機械文明の崇拝者ではもちろんないが、「自然に帰れ!」式の自然主義者でもない。シータの挑戦的で印象的な言葉は、あくまでムスカとの対比のため。そして『ラピュタ』と『コナン』は機械、あるいは技術とそれを操る人間の均衡を描くことで、自然と人間の均衡を描くという構造になっている。

この点でも二つの作品は共通し、またバランスがとれている。他の作品では、宮崎がもともと好んで描く機械は小道具でしかなく、結果として自然賛美に傾いているように見えてしまうことがある。


『ラピュタ』にみえる図式は、自然と機械という単純な対立ではない。同じように、大人と子どもの対決という単純図式でもない。シータの言葉は、とても子どもの言葉ではない。そうかといって、技術の無限進化を信じるムスカのような大人の言葉でもない。あえていえば、あきらめた大人の言葉。

人間は土を離れて生きることはできないと知ったとき、技術の進歩が無限ではないことを知る。あきらめを悟る。そのとき、技術は土を離れずに生きるための知恵に変わりはじめる。シータは、そのことに気づいたばかり。

そのことに気づくことにより、シータは自然と無邪気に戯れる子どもではなく、自然と生きる大人になったといえるのではないか。そう考えたうえで、あえて単純な図式にあてはめるとすれば、ムスカとシータの対決は、野心と諦念の対決ということができる。


宮崎作品において技術と人間との関係を考えるとき、『風の谷のナウシカ』で谷の男がつぶやく、「あんたらも火を使うじゃろ。もちろん、わしらもちっとは使うが」という台詞を思い出す。

このあと、「火は一瞬にして森を燃やす、水と風は百年かけて森を育てる」という印象深い台詞が続くために見落とされてしまうけれども、実は前半に宮崎の込めたより重要な意味があるように思う。人間は火を使う。道具や技術を使う。使わなければ人間として暮らすことはできない。だから問題は火や技術を使うかどうかではなく、どれだけ、どのように使うかになる。「ちっと」が問題。

ところが、「ちっと」は一律には定義できない。技術をどう使うか、どれだけ使うかは、使う人、場所によって異なる。ある人にとっては「ちっと」の範囲であっても、別の人には「使い過ぎ」かもしれない。同じ人でも使う場面によって違うものになる。

技術を使う方法や度合いを考えることが大切、と言うのは簡単。しかし、この立場はあまりにも脆弱。技術の進歩は、世界を支配しようという悪意ある欲望にはじまるものばかりではない。むしろたいていの場合、今の暮らしを少し便利にしたい、人間にはできないこと少しできるようにしたい、そんな素朴な願望。


裸足では長く歩けない。靴をはけば長く歩ける。自転車に乗れば早く行ける。エンジンをつければ、さらに荷物を載せて遠くまで行ける。段階的に進んでいく技術革新のなかでどこが「ちっと」なのか見極めることは難しい。空を飛ぶ島を操り世界を支配しようとするムスカや、世界を火の海にした巨神兵を復活させて腐海を焼き払おうというクシャナに異を唱えることはさほど難しくはない。

けれども一歩一歩は小さく、しかも善意で進む進歩に対して、そこから先は「ちっと」ではないと釘を刺すことはほとんどできない。なぜなら、技術の使いこなしは個々の人と場面によって決められるものであり、一般論では是非が問えないから。議論をすれば、必ず善意の是が勝つことになる。

そしていつの間にか、進歩は信じられないようなところまで人間を連れ去る。紙ヒコーキを飛ばしていたつもりが、少しずつ改良されて、いつの間にか島ごと空を飛んでいるようなことになる。「ちっと」を見つけること、機械と自然との均衡点を探ること、それが人間の叡智ということは簡単だけど、実践することはまったく簡単ではない。一般原則が見つけられないということは、いつもいつもその場で考え、決め、そして結果を引き受けることを求められるということ。


映画の世界も、進歩や拡大と無縁ではない。そこでは観客動員数、興行収入、映画賞の受賞などが指標になる。どんなにすばらしい作品を発表しても、観客と業界はさらに面白い、さらに興行収入を生む次作を求める。

最近の作品では、数え切れないほどの企業が協賛している。なかには世界的な規模の大企業も入っている。こうした大企業は、大地に足をつけたシータの味方というより、大空から世界を支配しようとする空飛ぶ帝国の仲間ではないのか。そんな企業が科学文明の行き過ぎを批判する作品に出資している。それは良心なのか、一種のガス抜きなのか、もっと恐ろしい人身掌握術の一端なのか。

時間泥棒に時間を盗まれて、あくせくと働き続ける現代人を批判した童話が、世界のどこよりも労働時間が長く、「過労死」という言葉さえ生み出した場所でもっとも読まれているという皮肉と同じものを感じる。

それでも彼はいわゆるパート2の類をこれまで作っていない。安易に興行成績だけを追求するようなことはせず、公開時期をずらしてでも時間をかけて前作を超える話題作を発表してきた。そして『千と千尋の神隠し』では映画界最高の賞までとってしまった。シータのように大地に立っているつもりが、いつの間にかムスカの夢まで手に入れてしまったのではないか。


『ラピュタ』はナウシカほど話題にはならなかった。ビデオの売上げも一連の作品群のなかでは少ないほうらしい。この点でも『ラピュタ』には、ほどよいバランスがあるかもしれない。当時、宮崎は資金を集めるために苦労し、出版社をはじめ企業との提携を模索していたという話も聞いたことがある。

宮崎は以前、作品を発表するたび、恒例のように「もう作らない」と宣言していた。今回はかなり早くから製作が発表されている。やはり宮崎は、大地に足をつけたままではいられないのだろう。彼は彼なりに、いつも「ちっと」を考えているのかもしれない。

空飛ぶ島で世界を制圧するのではなく、人力飛行機で優雅に空を散歩している気分かもしれない。でも彼の作品をとりまく世界はもう彼一人のものではない。もともと、多くの人手と資金を必要とするアニメーション映画というジャンルを選んだ宿命といえる。

宮崎の「ちっと」はすでに一本のマッチの火ではなく、森をも燃やしかねない炎になっているようにみえる。宮崎駿は興業面と思想面で決定的な矛盾に陥っているのだろうか。

それともムスカのように世界を支配しようという欲望を抑えていれば、問題はあくまでも周囲の受け止め方や売り出し方にあり、その意図は「ちっと」の範囲内といえるのか。私にはよくわからない。

少なくとも、私がいまも宮崎駿の作品に娯楽以外の何かを期待していることは間違いない。実際、これまで見た過去の作品は、いろいろなことについて考えるきっかけをたくさんくれた。そういう、昔から何度も見ている作品を見返すと、この問いに対しても新しい発見があるかもしれない。