THE WORLD RECORD PAPER AIR PLANE BOOK 16 Models 100 Planes (1994), KEN BLACKBURN & JEFF LAMMERS, KONEMANN, 1998 |
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4月に米国へ出張したとき、“Only $4.99”というシールにつられて買ったバーゲン本。1ページずつ切り取って折ると、よく飛ぶ紙ヒコーキになる。これまで何の感想も残していなかったけど、紙ヒコーキがなくなると、本も捨ててしまうかもしれないので、忘れないうちに書き残しておく。 前半は、滞空時間の世界記録を打ち立てた著者の紙ヒコーキ人生や、紙ヒコーキはなぜ飛ぶかという原理の解説、より長く飛ばすコツなどが書かれている。 実際に折ってみると、これまで折り紙や新聞紙を自己流で折っていたものとは、翼の前の部分の厚みがまるで違う。 この翼前部の厚みが、実際の飛行機にある翼と同じような逆くさび型をつくり、浮力を生み出しているらしい。世界記録を作ったというモデルは単純な形だけれども、ふわりと飛ぶ。真上に向けて飛ばしたり、すべり台の上から飛ばすと、ふんわりと滑空しながら下りてくる。なかには見事に宙返りする機体もある。 この“ふわり”が楽しい。これまで作っていたものは、落ちるまで空中にいただけ。よくできた紙ヒコーキは、落ちそうになってから また浮かび上がる。 これまでは、紙ヒコーキを飛ばしているつもりでも、飛ばしていたのではなく、ただ投げつけていただけかもしれない。 紙ヒコーキ。飛行機と書かずにヒコーキと書くのは、荒井由実のデビュー・アルバムの一曲から。 とりとめのない気ままなものに 惹かれるのは、きっとこの“ふわり”のせい。投げつけたものが、ただ落ちていくのを眺めても面白くない。まして自分自身を遠く投げつけてみたところで、得るものはない。同じアルバムのなか、タイトル曲はそのことについて、少し感傷的に、ためらいながらも少し肯定的に歌っている。 それしか道がないとき、あるいは、空へ続く道がはっきり目に見えてしまうとき、人は飛んでいくしかないのだろうか。「あまりにも若すぎた」ということには同意する。「他の人にはわからない」と言われれば、そうだろうと思う。でも「けれど幸せ」とは、私にはまだ言えない。 このモチーフは、後の作品で繰り返される。「ツバメのように」(『OLIVE』)では、もっと殺伐とした風景のなかに、「12階のこいびと」(『流線型'80』)では、ほろ苦い大人の恋のあと味として。 自分を投げつけることの虚しさだけではない。モノを投げる空しさについて書いた歌もある。 砂浜に打ち寄せた木切れ拾い沖へ投げた 何かを投げても、未練が残る。恋人と別れた女性は、まぶたを閉じたまま心を潮風にあずけたとき、はじめて「私はもとからこの海が好き」と言えた。 モノを投げる空しさというと、フランスからベルギーに亡命していたヴィクトル・ユゴーについて書いた辻邦生のエッセイの一節を思い出す。二年ほど前に読んだとき、なぜか気になり書き写してある。 「実はね、あの小石の一つ一つはぼく自身なのだ。亡命生活は孤独だ。辛い。心がくじけそうになる。だが、こうした弱気は、自分のことをくよくよ考えるから起こるんだ。自分を捨てる。そうすると、不思議と心が軽くなる。だから、ぼくは心が鬱すると、ここにくる。そして石を投げる。」 ユゴーの「自分を捨てる」と、辻のいう「心の石を投げる」は、自分自身を投げてしまうこととは違う。それは、モノを投げつけることと紙ヒコーキを飛ばすことのあいだにある。 空が晴れわたり、気分もさわやかなら、何を投げても空の彼方まで飛んでいくような気になる。湿っぽい曇り空で、気分も沈みがちなときは、何かを投げつけたり、ひょっとすると自分まで投げつけたくなる。その衝動を抑えて、心の石を投げる。できることは、せいぜいここまで。それでも、自分を投げ出してしまうよりは、はるかに健康的。 かつて宙に浮かぶことができると公言し、悩める若者を集めた男がいた。若者たちは人間が飛ぶことに憧れた。投げつけたくなるような自分を軽々と浮揚させてくれると期待していたのかもしれない。 人間が飛ぶことはない。飛ぶのは、人間が投げたもの。まずは、人間が飛ぶと信じることをやめて、手近な何かを投げることから。投げた人間のなかにあるものが、はるか彼方へ飛んでいくのはそれから。 投げるだけでは、憂さは晴れない。できるだけ遠くへ、できるだけ上手に、できるだけ美しく、飛ばしたくなってくる。そうすると、少しずつ気持ちも晴れていくような気がする。 まだ梅雨の明けない曇り空に、紙ヒコーキを飛ばしてみる。単純なようで案外精密にできている。ほんの少し、折り方や飛ばし方が違うだけで、頭から墜落したり、ふんわり浮かび上がったりする。 紙ヒコーキのことを書きながら、ずっと文章について考えている。文章を書くことも、「とりとめのない気ままなもの」に過ぎない。そんなものにひかれるのは、きっとふわりと心が浮かぶ瞬間を見届けたいから。折り方と投げ方を工夫しながら、梅雨明けを待っている。 |