世界一美しい広場へ帰る——欧州旅行回想


旅客機のエンジン

春休みにヨーロッパへ行った。ヨーロッパへ行くのは、六度目。回数だけは、ゆっくり思い出しながら数えないといけないほど。でも、これまでに行った街の数は少ない。

1989年、最初に旅行したときはほぼ2ヶ月かけてロンドンからウィーンまで横断した。まず、モスクワ経由でロンドンに入り、ロンドンで一週間、列車でエジンバラに向かい、数日を過ごした。ロンドンに戻り、ジェットフォイルで海峡を渡り、ブリュッセルへ。

以後、ブリュッセルを拠点にアムステルダム、ハーグ、ブリュージュなどを見て回り、荷物を残してパリへ移動。パリも一週間かけて、ルーブルとオルセーは一日ずつかけて見てまわった。そのあいだ、観光バスでロワールの古城めぐりもした。

ブリュッセルに戻ってからは、荷物をまとめて汽車に乗り、ボンからハイデルベルグ、ミュンヘンまでドイツを南下。ミュンヘンで車を借り、チロルの山間をドライブしながらザルツブルグへ。車を乗り捨て、再び列車に乗りウィーンへ。ウィーンでも一週間ほど過ごして帰国した。

これほど長い間、家を離れたことはそれまでなかった。それからあともない。工場の寮にいたときも、我慢できずに二週おきには新幹線に乗り帰省していた。


グラン・サブロン教会

ヨーロッパは、ずっと憧れの場所だった。

19歳でアメリカ東海岸を旅した時、ボストンやニューヨークの美術館に並んだヨーロッパの芸術作品を見て、大英博物館やルーブルにも行ってみたくなった。そもそも、初めての海外旅行でもあったこのアメリカ旅行は、ヨーロッパ旅行のための準備だった。いつか近いうちにヨーロッパへ行くことを、そのときはもう心では決めていた。

ヨーロッパとはなにか、そんな漠然とした問題を勝手に自分のなかで設定していた。旅の前には、『ヨーロッパを考える』(Edgar Morin、林勝一訳、法政大学出版局、1988)という本も読んだ。細かい内容は忘れてしまったけれど、多様性と統一性の共存をヨーロッパの本質と見ていたことは、現地でもいくらか実感できたことなので覚えている。

言葉はもちろん、車窓から見える花や樹木、建物の様式まで、ヨーロッパでは町や国が変わると、雰囲気ががらりと変わる。とくに驚いたのは、ベルギーからオランダへ列車に乗ったとき。ベルギーの車両はやや暗い茶色。街並みも彩りは少ない。オランダでは黄色の車体に青い線の列車が花畑を走る。

ヨーロッパに統一感を与えているものは、数え切れない。そのことを考えると、ずっと昔読んだルソーの『サン=ピエール師の永久平和論抜粋』(Extrai du projet de paix perpétuelle)の一節を思い出す。

こうした経緯に加えてみるがよい。世界のそのほかの部分より人口の分布が均等で、一様に土地が肥沃で、そのすべての部分がうまくまとまっている、ヨーロッパの特殊な位置。血縁関係、および商業取引、芸術交流、植民地政策などが主権者たち相互のあいだに呼び起こした利害関係の絶えざる混淆。多数の河川とその流域の多様性がもたらすあらゆる交通路の便利化。住民の移り気な気質により、たえず旅を重ねてたびたび相手の国をたずねあう傾向。印刷術の発明と学芸に対する一般の関心が生んだ、住民相互のあいだに共通する学問と知識の普及。最後に、奢侈への欲望とさまざまな種類の風土とが混合されて、つねに他国を必要とさせる国家の小ささとその多くの数。(『ルソー全集 第四巻』、白水社、)

多様性と統一性。ヨーロッパで複数の街を旅すると、確かにそれを実感する。そのとき多様性と統一性は別々にあるのではなく、複雑に入り組んでいる。もしくは、複雑な統一性や統一的な多様性のように感じられる。この実感を説明するのは難しい。

説明が難しくなると、ついわかりやすい説明で片付けたくなる。実感を無理に図式に押し込めることもある。説明しきれないはずの実感が説明されると、はじめからそんな実感だったように思いなおすことになる。そうでなければ、実感は理解不能なものとして放置される。実感を説明するのは、難しい。

今回乗った航空会社は、日本の会社でも、行先の国の会社でもなかった。機内では“tea、オチャー”という客室乗務員の声。いつもの航空会社に比べると、中年や男性も多い。機内誌でデンマークの女性政治家の記事や、ビートルズがオスロに着いたときの大騒動の様子などを読む。

一対一のどちらかに自分を置くのではなく、多対多のなかの一として、どちらにも属したり、どちらにも属さないようにしながら自分をみる。多様性と統一性という相反する性質を一挙に捕まえる気構えは、こんなところに手がかりがあるかもしれない。

とはいうものの、それが簡単にできれば苦労はない。シベリア上空でまどろみながらあてのないことを考えていた。


アトミウム

多様性と統一性という観点から見ると、ベルギーほどヨーロッパを象徴している国はない。ベルギーではオランダ語とフランス語、現地ではフラマン語とワロン語と呼ばれる二つの言葉が使われている。

現在は連邦国家となっているため、それぞれの地域ではどちらか一つの言葉が優先されているけれども、首都ブリュッセルは今でも完全な二言語都市。地下鉄の駅名は,、すべて二つの言葉で、もちろん同じ大きさで表示されている。

ブリュッセルの画家、ルネ・マグリット「光の帝国」。一枚の風景画に昼と夜が同居する。その絵のように、ラテン系とゲルマン系、水と油のような二つの言語が、ここでは溶け合わずに並存している。

一つの名前が、一つのものを示さない場所。何を見ても、これを自分とは違う言葉で言い表す人がいることを意識しないではいられない。そこでは、他者の存在が意識から消えることがない。

もっとも、その他者性は、共通性の基盤に立っている。綴りは微妙に違っていても、二つの駅名は左から右へ、アルファベットで書かれている。水と油といっても、どちらも液状なので、一つの器に入れられる。エマルジョンといって、分離せずに安定した混合状態になることもある。

ヨーロッパの多様性は、近親憎悪のようなものではないか。似ているために、違っていることが気になる。嫌悪感は、恒常的な侮蔑としては現われないかわりに、突発的に暴力的になる。

まったく共通項がないように感じられる、赤の他人のような存在に出会ったとき、ヨーロッパはどう振る舞うか。これを考えるには、内と外、両方からヨーロッパを知る必要がある。


アフリカ博物館

ブリュッセルの郊外、路面電車を終点で降りると、大きな公園のなかに王立中央アフリカ博物館がある。レオポルドⅡ世の個人的なコレクション・ケースだった宮殿が、今はアフリカを知る博物館になっている。

コンゴは、ベルギー王国の植民地になる前から国王の私有地にされていた。市内の王宮から真直ぐ走る街道も国王一人のために作られたという。一つの国になるほどの地域を個人的な所領にするという途方もない発想に言葉もない。

博物館では、コンゴを中心にして、アフリカの自然、動物、文化を紹介している。アフリカ殖民の歴史や独立までの道程は、ほとんど展示がない。

共通項をもつ相手には親近感と表裏一体の近親憎悪をもつかわり、絶対的な他者は教育、征服、搾取の対象でしかない。そして、圧倒的な暴力を向けたあとでも、あるいはそうであるがために、沈黙を通して、無理に忘れようとするのかもしれない。

アフリカは今も貧困や内戦が続いている。それだけをとっても、ヨーロッパにとってのアフリカは、日本にとってのアジアより、はるかに重い蹉跌になっている。もちろん、この比較には裏面がある。日本は経済的な復興にすりかえて過去を忘れようとしているとも言えるし、ヨーロッパにとってアフリカは過去と言えない継続中の問題。

ベルギーといえば、チョコレート。間違いなく、どんなカカオよりも黒く、どんなプラリネよりも苦い歴史がその背後にある。


ギルドハウス

共通項を基盤にした多様性。そこからはみ出した絶対的他者の排除。ヨーロッパの多様性には、表と裏がある。単純な理想化はできない。

では、ヨーロッパを統一しているものは何か。キリスト教や合理主義がよく挙げられるけれども、旅のあいだ、それを実感することはあまりなかった。

確かに、どの街にも古い教会や大聖堂が残っていた。とはいえ、それらの多くは文化遺産や観光地にもなっていて、私と同じような観光客であふれかえっていた。宗教的なものが、どれほど人の心に残っているか、短い旅行で感じ取ることはむずかしい。

実感として印象づけられたのは、教会に限らず、どこへ行っても古い建物がたくさん残っていること。その多くは、文化遺産ではなく、いまでも現役の役所や学校や、住宅として使われている。目に見えない宗教的な背景よりも、目に見えるその事実のほうが、強く心をとらえた。

もう一つ、言葉で説明できる理由はないけれども実感したこと。ヨーロッパでは、どこでも時間がゆっくり流れていた。

これは、私が学生の身分で夏休みに時間をかけて旅行していたことが、大きな理由だったかもしれない。それから旅のあいだに出会った人たちも、同じようにのんびり旅をしていたり、引退をして悠々自適な暮らしを送っている人が多かったこととも関係があるだろう。主観的な実感に過ぎないことはわかっている。

ともかく、初めて行ったヨーロッパは、時間がゆっくり進む場所だった。こんな時間のなかで暮らしたい、それにはできるだけ休暇の多い職業につくのがいいだろうかと思案したことをよく覚えている。


郊外のマリア像

合理主義について言えば、ヨーロッパへ行く前も、行ってからも、むしろヨーロッパの非合理的な部分が気になった。古い、使いにくそうな建物がオフィスや住宅に使われていることも、その一つ。ほかには、数の数え方。4×20を意味するフランス語のquatre-vignts、三桁でも百、一、十の位の順に読むドイツ語。

しばらく前に、ある政治家がこのquatre-vigntsを槍玉にあげて「国際語として失格」と断じたことがあった。この発言の裏には、数の数え方くらい合理的でなければならない、という考え方がある。さらには、合理的であることがいいこと、具体的にここでは国際的であるという思い込みが感じられる。

合理的であることがいいことであるとは、必ずしも言えない。仮にそう言えたとしても、ヨーロッパの歴史は合理性だけをひたすらに追いかけてきたのではない。

言葉にしても建築にしても、ヨーロッパでは合理的でないなものが、それこそ合理的な説明ができないほど無作為に散らばっている。

ヨーロッパの思想、ヨーロッパの精神のなかで重要なことは、合理的であることよりも合理的なものを追求する一方で、合理的でないなものがどこかに必ず、つまり意図的に残されていることではないだろうか。

非合理なものが、一見合理的に見える世界のなかに、つまづかせるように散らばっている。まるで、すべてが合理的になることはありえないと知らせるかのように。合理性を追い求める競争がすべてではないことを思い出させるように。そして、人間のなかには合理的でない、得体の知れない何かがあることを知らせるかのように。

これは初めて行ったときに思ったことではない。今回の旅行のあいだ、やはり街中に残る古い教会や住宅街に地蔵のようにある小さな祠を眺めながら、そう思った。初めてヨーロッパを旅した夏からは、もう15年以上が過ぎている。


ブリュッセルの空

今回、時間はゆっくりとは流れていなかった。私はもう学生ではなかったし、気ままな旅でもなかった。久しぶりの海外旅行とあれこれ期待していたけれど、思っていたことの半分もできなかった。それでもよかった。行くことに大きな意味があったし、それ以上に行くことだけでも十分に楽しかった。

ヨーロッパの時間は、ゆっくりなのではなく、重い。今回の旅では、そう感じた。重みを感じたのは、冬の終わりの、真夏には見ることがなかったベルギー特有のどんよりした天気のせいもあるかもしれない。

古い建物が残り、今も使われているのは、まだ使えるから、もったいないから、という理由からではなく、忘れてはいけない、という発想からではないか。忘れてならないのは建てたときに込められた気持ち

そう考えると、ヨーロッパの街はとても息苦しい。空気に、時の流れに、過去の吐息が充満しているように感じられるから。きっと、それを嫌って、新しい街や、重さを感じさせないほど目まぐるしく変わる街へ出て行く人もいるに違いない。どこへ行っても、街にはそれぞれ、そこを支配している見えない力がある

だから、方々を巡っても、元にもどって、この空気の重さを破壊するために、その源を探りあてることに心血を注ぐ人も、おそらくは少なくない。

歴史のある街。そう言ってしまえば、どの街もそうかもしれない。でも、どの街でもこの重さが感じられるわけではない。また、ヨーロッパの街だけに感じられるものでもない。

去年の夏、奈良を旅したとき、夜、東大寺の南大門を見た。案内してくれた宿の人が大きな柱の傷を指差して、「これは戦国時代の火縄銃を受けた跡です」と教えてくれた。そのとき急に、世界遺産が静かに保存された文化財ではなく、長い時間を見守ってきた歴史の証人のような気がしてきた。

石と木のような、単純な素材の違いではない。たぶん、そこにいる人々の時間の受け止め方の違い。


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ヨーロッパの街、私がひとときを過ごしたブリュッセルの街は、歴史が重さになって、時の流れを粘り強いものにしている。季節も時間も、さらさらとは流れていかない。

時の重さを忘れないようにすることと、合理性のなかに散らばる非合理なものにつまづくこと。二つをあわせて、「自己批判の精神」と言い換えることもできるかもしれない。

ヨーロッパを貫く精神は、自己批判の精神。そういう結論は、何も新奇ではない。そう書いた本を私は何冊も読んでいる。むしろ言い古されたことかもしれない。

でも、私には、15年以上の時間を経て、ゆっくりと感じられていた時の流れが、重く、さらには重苦しく感じられたとき、これまで読んだどの本よりも、深く、強く、ヨーロッパの重みを実感した。

そして、この重みに耐えていかなければいけないかと思うだけで、自己批判の精神を自分の体内に埋め込むことの難しさも、同時に痛感させられた。

それは、私の実感が正しいことや、読書が無益だったことを意味しない。これまでの、とくにこの四年間の読書が、そう思える感覚を私にもたらした。そう考えたほうがいい。

一つの体験は、別の経験によって深められ、乗り越えられ、そうしてはじめて一人の人格をつくる経験となる。こういうことが、ようやく体感できた。これもまた、読書を通じて知ったこと。


共産党宣言を執筆したギルド・ハウス

ヨーロッパとは何かではなく、私にとってヨーロッパとは何なのか、それが問題。結局それを通じてしか、ヨーロッパが何かを知ることはない。そういうことがようやくわかってきた気がする。

今度の旅でヨーロッパが何かわかったとは、もちろん思わない。ヨーロッパがわかるとはどういうことか、その一端を知ったに過ぎない。

「世界一美しい広場」、グラン・プラスの石畳に立ったとき、私はようやく帰ってきたという気持ちがした。ベルギーらしくない、抜けるような青空のあの夏の日から、長い旅を続けていて、ようやく帰ってきた。そんなふうに思った。

この広場は、たくさんの人が立っている。亡命中のユゴー『共産党宣言』を執筆中のマルクスとエンゲルス、どこにも定住しなかったエラスムスもこの地でしばらく過ごした。もちろん、ベルギーで生れたバンサンシールマンスも。そして、十数年前の私も。

マルクスとエンゲルスがいたというギルド・ハウスは、今は高級レストランになっているという。席を予約する余裕は今はないので、少し歩いて古い教会前の広場へ。

六年前に行った店。そのときは、まだベビーカーを押していた。食事まで待ちきれずオレンジ・ジュースで満腹になり、テーブルの下で眠り込んだ姿を覚えている。その前にブリュッセルに来たときは子連れではなかった。その前は、結婚もしていなかった。

長い旅を続けて、ようやく目的の場所へたどり着いたような気がする。たどり着いたと同時に、不思議なことに、ようやく帰ってきたという気もする。

それでいて、まだたどり着いていないような不思議な気持ちも残った。その気持ちは、旅から帰ってきた後も続いている。あの夏もそうだった。旅が終っても、ずっと同じ旅が続いているような気がした。


トラム

ヨーロッパを知る私の旅はいまも続いている。グランプラスに立つ日が何年かに一度しかなくても、私はずっとヨーロッパを旅しているし、ヨーロッパとともに旅を続けている。

エウロパは牡牛が恋した女神の名前という神話は、少なくとも私には実感と真実味がある。