烏兎の庭 第一部
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9.19.02

長谷川潔の世界(上)渡仏前、(中)渡仏後[Ⅰ](下)渡仏後[Ⅱ]、猿渡紀代子著、横浜美術館学芸部編、有隣堂、1998

京都国立近代美術館所蔵 長谷川潔作品集、京都国立近代美術館の長谷川潔コレクションについて、館長内山武夫、長谷川潔の芸術、島田康寛、京都国立近代美術館編、光村推古書院、2003

日本現代版画 長谷川潔、マニエール・ノワールに集約した長谷川芸術(島田康寛)、長谷川潔画伯近況(齋藤磯雄)、長谷川仁監修、魚津章夫、京都国立近代美術館編集協力、玲風書房、1994


長谷川潔の世界 京都国立近代美術館所蔵 長谷川潔作品集 日本現代版画 長谷川潔

長谷川潔を教えてくれたのは日経新聞文化欄の記事。3月12日に「花鳥画の超現実 十選」と題された連載の第8回に掲載された一枚の版画に目が留まった。「コップに挿したアンコリの花(過去・現在・未来)」。真中の花は開き、左の花は枯れはじめ、右はまだ蕾。ほとんど白黒写真のようにみえるほど写実的でありながら、均整のとれた構成は自然のものとは思えないほど緻密。

洋画家、山本文彦の紹介文にもひかれた。

一本の花を深く見ることから、言葉、生命、人生観へと広がり深まる瞑想の内容を、素朴で単純な安らぎの形に昇華している。見る者を静かな思索に誘い込む象徴的表現の美しさである。

長谷川の作品集を探してみようと思ったのは、作品のせいだけではない。同じ記事の中で、「二十七歳で渡仏してひたむきに版画製作に打ち込み、一度も帰国せずにパリで没した」と書かれた彼の境遇にも興味を覚えた。なぜ彼はパリに向かったのか、そこでどんな暮らしをしていたのか、そして、なぜ一度も帰国しなかったのか。

何の予備知識もないまま図書館で検索してみると、上中下三巻立ての『長谷川潔の世界』は有隣堂の出版。有隣堂といえば、横浜を中心とした書店網の会社。緑色のモザイクを使ったブック・カバーをつけた本が、横浜でほとんど本を買わなくなった今でも、いくつか本棚に残っている。

有隣堂が出版事業をしていることさえ私は知らなかった。実は、『庭』をはじめた一番最初に有隣堂が出版した『図説アーネスト・サトウ:幕末維新のイギリス外交官』(横浜開港資料館、2001)を読んでいた。もちろん、長谷川が横浜に生まれた人ということも本を読みはじめるまで知らなかった。


奇縁を感じながら、長谷川の生涯をたどる『長谷川潔の世界』を読みはじめ、同時に借りてきた大型の作品集と、昨年出版されたばかりの作品集を借りてきて眺めた。図書館にある長谷川潔関連の書物はこれだけ。

「コップに挿したアンコリの花」を見たとき、「超現実」という記事の題名のせいもあり、長谷川はシュールレアリスムの作家ではないかという第一印象をもった。そのときは、一軒の家を描いた絵で、地上と一階は夜なのに屋根から空は昼間というルネ・マグリットの絵画「光の帝国」を思い出していた。

評伝や、交流のあった文学者などの文章を読んでみると、「アンコリの花」は実物を描いた作品であることがわかる。長谷川は、超現実を空想して作品にするのではなく、自然のなかに、人間がふだん気づかない、あるいは忘れてしまった超現実的な美しさや力や調和に気づき、それを鍛えられた技術で表現する

長谷川にとって、超現実性や超越性は人間の観念の中にあるのではない。自然のなかにある。人間が気づかないでいるだけ。長谷川は、すぐれた表現者である前にすぐれた観察者。このことも、多くの人によって指摘されている。

だから長谷川の作品は個性の発露ではなく、自然の発見。この点では自然界にある音の美しさと調和を発見して形にしたバッハに通じるものがある。ただし長谷川の場合、キリスト教ではなくアニミズムや独特の宇宙観に支えられている。


ニレの老木、再生する林檎の木、窓から見える木や教会、コップに挿した花とレース、など、確かに長谷川には見る者を思索に誘う作品が多い。猿渡は、時代背景、題材の美術史的な分析、版画家自身や周囲の言葉を手がかりに、長谷川の深い思索が作品に込められていたこと、さらに長谷川の意図を超えて、西洋美術史上の重要な主題が隠されていることを明らかににする。

そのように伝統が無意識に継承されたのは、長谷川が過去に多くの画家が取り組んできた主題に真剣に向きあう一方で、伝統的な技法に学びながらも、新しい工夫を加えて独自の技法として使いこなしているから。

戦争や病気のために、一度も帰ることがなかったにもかかわらず、フランスに帰化せず、日本国籍を持ち続けた。同時に、彼はフランスでの名声より祖国での自分の評価を終生気にしていたという。長谷川自身は、国籍を捨てないでいるのは日本国のためと言っているけれども、それは国家への思いというより、故郷、「くに」、"home"への思いといったほうがいいような気がする。

彼が横浜に住んでいたのは11歳まで。にもかかわらず、横浜市からの顕彰は何より彼を喜ばせた。そこに若くして亡くした両親や、一人残って不遇のうちに亡くなった弟の記憶があったからに違いない。フランスで勲章を授与されたときにもそれを祝ってくれる身内が日本にはもう誰もいないことを彼は嘆いている。


一枚の記事から一人の芸術家を知り、パリを経由して、私自身が育った場所へたどりついた。こういう読書も楽しい。『長谷川潔の世界』のなかで、長谷川に版画を師事した一人が、私が今住んでいる街の美術館で記念されている版画家であることも知った。近いうちに出かけてみようと思う。

一つの出会いから、新しい鑑賞が生まれ、また次の出会いが導かれる。こんなことは以前にもあった。一枚のカレンダーから版画家斉藤清を知り、福島県柳津まで彼の作品を見に行ったことがある。帰り道、猪苗代で野口英世記念館を見た。野口もまた、祖国を飛び出し外国で名を上げ、そこで長い年月を過ごした一人。彼は、母親の懇願する手紙を読んでも帰国しなかった。でも結局は帰郷し、文字通り故郷に錦を飾ることができた。

長谷川は、望んでいながら一度も故郷に帰ることができなかった。彼が帰ってきたのは、家族の待つ墓に入るときだった。それでも彼の作品は思想的ではあるとしても、けっして感傷的ではない

長谷川潔は、風に吹かれて飛んできた種。草原に高くそびえるように育った若木

吹かれてきた元の場所へ帰ることのできない悲しみにじっと耐えている一本の老木


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