バッハ問――大作曲家徹底攻略問題集、鳴海史生・野中裕・矢口真、東京書籍、2002

バッハからの贈りもの、鈴木雅明(加藤浩子聞き手)、春秋社、2002


バッハを自覚的に聴くようになったのは、つい最近のこと。記録を見ると去年の6月に山下和仁のギターによる「無伴奏パルティータ第二番」を図書館で借りている。それ以来、福田進一鈴木大介など別のギター演奏や原曲のヴァイオリンなどでも聴くようになった。もともとバロック音楽は嫌いではない。

といっても、私のなかでバロックというのは、ずっと映画『リトル・ロマンス』の主題曲(ヴィヴァルディ作曲、リュート協奏曲ニ長調)と、Queenの“Love of My Life”だった。

いまから思うと、もう解散してしまったハンドベル・オーケストラ、チェンバー・リンギング・ソロイスツの演奏を毎年、クリスマスの季節に聴いていたので、ここで「パッヘルベルのカノン」「主よ、人の望みの喜びよ」などは耳にしていた。

さまざまな音楽を聴くうち、バッハの名前を意識するようになったきっかけは、森有正「バビロンの流れのほとりにて」井上圭子演奏によるオルガン、「トッカータ、アダージョとフーガ、ハ長調、BWV564」。別々に進んでいた濫読と濫聴がバッハという一点で交差した。こういう偶然は大切にしたい。

バッハ好きを自称するようになったといっても、まだまだ駆け出し。聴いていない曲のほうが多いし、基礎知識も乏しい。バッハの全体像を手軽に知る本を探していたところ、見つけたのは問題集形式という本。堅苦しいクラシック音楽を楽しみながら学んでしまおうという気楽な意気込みが書名にも感じられる。

同書では、同じ出版社のより専門的な本が参考書として推奨されていたけれど、私の場合、古楽器によるカンタータ演奏を主催し、チェンバリストでもある鈴木雅明の対談集を教科書にした。

教科書と問題集、硬軟両派のバッハ本を同時に読むのは楽しい。二冊の著者が述べている通り、体系的に知りたくなるのがバッハであり、音楽としての純粋な楽しみと、音楽を越えた思想性や宗教性と両方を味わえるのも、バッハの魅力。分かりやすい言葉を選びながら、鈴木は次のようにまとめている。

そういう意味でバッハの特徴は何かと問われたとき、やはり、インテグレートされた世界といいますか、統一的なバッハの響きというのがあって、そのなかに多様性が散りばめられている、そして、きわめて豊穣な世界が繰り広げられているというふうに説明できます。だから、どの瞬間を切りとっても、どの切り口にしても、バッハはバッハなんです。(第三章 ライプツィヒ時代)

二つの本は、編集方針も著者の立場もずいぶん違う。鈴木はクラシック音楽の素養がある家庭に育った演奏家であり、現在は古楽演奏界の重鎮。一方「バッハ問」を書いた三人は若い研究者、音楽科教員であり、バッハを聴く側にいる人達。それでも両者には、バッハの体系性、一貫性を追うという点で共通性がある。

鈴木の手引きでバッハや十七世紀の音楽について学んでみると、音楽の意味が今とは違うことがわかる。「よろこび」「かみ」という言葉が、うれしい気持や「神」という概念を表すように、ある旋律が、ある種の感情や概念を示すことがあるらしい。それは「うれしくなる旋律」というものではなく、あたかも「よろこび」という単語のように、よろこびを示すときに必ず使われる。今はバッハを聴いただけでは、そんなことはわからない。鈴木によれば、教会に頻繁に出かけ、音楽が生活の一部となっていた当時の人々には、それがわかったらしい。

音楽だけでない。阿部謹也によれば、中世の職人たちのあいだでは舞踊が意思疎通のための重要な役割をもっていた(「『教養』とは何か」講談社現代新書、1997年)。そのようなことを知ると、現代人の意思疎通は多分に言語に依存しているように感じる。いわゆる身体論が隆盛なのも、頭でっかちになりがちな感情や意思の表現や交流を、身体に取り戻したいという希望を持つ人が多いからかもしれない。

また、バッハは美を表現したのではなく、世界に存在しているが人間には見えていない美や音楽的な秩序を「発見」したのだという鈴木が提示する考え方も、音楽をはじめ芸術を感性の表現だと思っていた身には新鮮に聞こえる。

「バッハ問」の3人の著者と鈴木雅明の大きな相違は、音楽に対する姿勢。音楽を楽しもうという立場の「バッハ問」に対して、鈴木は、バッハを演奏することを信仰と不可分にとらえている。聞き手は熱心な仏教者でもあり、対談中、ところどころで起こるキリスト教をめぐる小さな論争も興味深い。

それはともかく、鈴木も、音楽を楽しむことを否定はしない。ただし、音楽は楽しめればそれでいいとも言っていない。バッハを楽しむことを入口にして、バッハが演奏された時代にもっていた世界、すなわち音楽に意味がある世界に進んでいく可能性を誰もが残しておくべきだと考えている。その意味で鈴木にとって音楽は、一つの経験であり、道である、と言えるかもしれない。

私には、その道はまだ見えない。今言えるのは、バッハによって、少なくとも自分の趣味が変化しているということ。しばらくは、音楽の楽しみに身をゆだねたい。


碧岡烏兎